世界観警察

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『オネーギン』の後日談を考える - オネーギン編

 こんばんは、茅野です。
デカブリストの乱について追いリサーチを掛けています。『救済同盟』、ほんとうに素晴らしい機会で……最早映画観る前から割と満足しかけているまである……。ありがとうございます……(?)
 
 さて、今回は、当然わたしが書いているのですから(?)デカブリストの乱とオネーギンを繋げてみましょうということで、『オネーギン』後日談考察 - オネーギン編です。
それではお付き合い宜しく御願い致します。
 

失われた第10章

 特に原作に於いて、オネーギンの読了後、「なんていい所で筆を置いてしまうんだ!」と感じられた方は少なくないに違いありません。初見時、わたしもそうでした。余りにもいい所で終わってしまって続きが気になって仕方がないのですが、その「空白」が、小説として非常に美しいのです。
 
 しかし、実はプーシキン自身、オネーギンの続きを構想していました。それが幻の第10章です。「はて? 第10章? 第9章では?」とお思いかもしれません。
確かに、オネーギンは全8章からなる韻文小説ですが、本来プーシキンは現行の第7章と第8章の間に、『オネーギンの旅』という章を構想していました。こちらは没となったのですが、原稿が残っています。当方も翻訳しておりますので良ければどうぞ。

↑ ほんとうに大変だった(真顔)。
 
 このようなことから、第10章と呼ばれるわけです。
そして、この第10章、『オネーギンの旅』と同じく、断片的にですが、ちゃんと原稿が残っています。そこから読み取れることがあります。オネーギンの続編として、オネーギンがデカブリストの乱に参加する、という構想があった、ということです。
 

第10章 第16スタンザ

 とはいえ、時代は皇帝ニコライ一世&皇帝官房第三部(秘密警察)長ベンケンドルフが猛威をふるう"暗黒の時代"。物語の主人公をデカブリストにしようものなら検閲の魔の手を逃れることは不可能です。プーシキン自身、そのことは重々承知で、この章は没となっています。また、断片に関しても明確な描写はありません(或いは全て本人の手によって破棄されています)。
 
 その中でも注目されるのが第16スタンザです。ここには、我々がオネーギンのその後を読み解く重要なヒントが鏤められています。
第16スタンザには「カメンカ」「トゥリチン」という2つの地名が出てきます。この時点で、帝政ロシアの地理と情勢に詳しい人はハッとするはずです。
と言うのも、「カメンカ」にはデカブリストの秘密結社の1つ、「南方結社」の支部があり、「トゥリチン」は同結社の本部がある都市であるからです。

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↑ 現ウクライナモルドヴァの地図。入り切りませんでしたが、有名な都市だとここから真北の方にキエフが、真南の方にオデッサがあります。
 
 更に、もっとわかりやすいのが人名です。第16スタンザには、「ペステリ」「ムラヴィヨフ(=アポストル)」の名が出てきます。彼らは南方結社の指導者で、デカブリストの乱の首謀者として絞首刑に処せられています。ペステリは「ルースカヤ・プラウダ(ロシアの真実)」という憲法案を書き、ムラヴィヨフ=アポストルは南方蜂起の際指揮を執りました。
 
 プーシキンはこのペステリと面識がありますプーシキンの1821年4月31日の日記には、
午前、ペステリと話す。完全な意味での賢者である。形而上学、政治、道徳、その他につき談論。私の知る最も独創的な精神を持つ人物の一人。
と書いており、かなり好意的であったことがわかります。
このことがオネーギンの未來を大きく左右したことは間違いないでしょう。
 
 では、それがプーシキンと南方結社の繋がりであったとして、オネーギン自身はどうでしょうか?
最も可能性が高いのは、「オネーギンの旅」でオネーギンは南方結社に接触したのではないか、ということです。
確かに、「オネーギンの旅」には、トゥリチン、カメンカ、ワシリコフなど、南方結社が本部・支部を置く都市は出てきません。しかし、例えばオデッサに向かう際、これらの都市に寄った可能性は否めませんし、本部・支部がなくとも結社員との接触は可能です。
 
 尤も、第8章(『オネーギンの旅』を含めると第9章)の舞台はペテルブルクですから、そのままペテルブルクに留まり、北方蜂起に参加する、という可能性も完全に否定することはできません。ですが、北方結社と南方結社には思想に決定的な違いがあります。特にオネーギンが「農奴制の廃止」を願っていた以上(※原作第1、2章、プーシキンの手紙や日記にこのような示唆があります)、南方結社の持つプランの方がオネーギンにとって魅力的に映っていた可能性は高いです。というのも、南北両結社とも農奴制の廃止を考えていましたが、南方結社の要領の方がより徹底していたからです(北方結社の案は後のアレクサンドル二世の「農奴解放令」により近い)。
 つまり、この第16スタンザから、オネーギンは恐らく、デカブリストの乱と言えども、北方蜂起ではなく、南方蜂起に加わったのではないか、という推論が成り立つわけです。
 

『オネーギン』後日譚

 第8章(『オネーギンの旅』を含めると第9章)の後半は、デカブリストの乱以前であることは間違いないので、1825年であるという説が最も有力です(大洪水との関係を考慮して1824年だとする説もあります)。季節は「雪の溶けきらない春」という表現があるので、4月くらいなのでしょう。
 
 タチヤーナに別れを告げられたオネーギンは、今度こそ永遠にペテルブルクに別れを告げ、トゥリチンへ向かう。そこでペステリに再会した彼は、南方結社に加入し、蜂起の日(1826年3月12日)を待つ。しかし皇帝が崩御し、新帝は保守的で厳格な三男ニコライ大公になると言う。宣誓式が12月26日と定まるも、その前日にペステリは逮捕されてしまう。北方結社の蜂起が呆気なくネヴァ川に沈められ、失意の南方結社もムラヴィヨフ=アポストルを中心に蜂起を画策するが、そのときオネーギンは―――。
みたいな感じなんじゃないかな!と、推測しています!
 
 我らがオネーギンさんのことなので、トルベツコイ公のような気まぐれを起こすかもしれませんし、蜂起に参加したとしてその後がどうなるかは予想がつきません。
尤も、プーシキンは手紙に「オネーギンはデカブリストの乱に参加するか、コーカサスで戦死するかのいずれかだ」と書いているので、もしかしたら戦死ENDかもしれません。それはわかりません(そもそもオネーギンさんは軍事教育をどの程度受けたんだ? という疑問も……)。結局、プーシキンは断章としてデカブリストの乱の方を採用しているので、コーカサスの案についてどれほど考えていたかも定かではありません。
 情報が少ないので、妄想し放題のフィールドです。忌憚なきご意見もお聞かせ下さい。
 

最後に

 通読ありがとうございました。いよいよ明日が北方結社蜂起の日(12月26日)、ということで、デカブリスト関連の記事を書いてみました。
 常日頃から「オネーギンクラスタはデカブリストの乱必修です」と言ってきたんですが、ちゃんと理由を記事に起こすことができてよかったです(?)。わたしもリサーチが甘いので、もう少し継続してリサーチを積む予定です。たのしみ~~。
 
 そういえば、宝塚版のオネーギンでは、実際にオネーギンさんが南方結社で活動している場面が描かれるようです。後に確認してみます。
あの鬱っぽくて斜に構えているオネーギンさんが革命運動……正直あんまり想像つきませんが……。彼も"71"の刻印の指環をして、ベストゥージェフ=リューミンと布教活動してたりとかするんですかね。アツい。けれどその姿は見たいような見たくないような……。不思議な心境です。
 皆様も宜しければ『オネーギン』の後日談について思いを巡らせてみてください。何か面白い閃きがあったらわたくしにもお聞かせ願いたいです。
 それでは、よいクリスマスをお過ごしくださいませ。