こんばんは、茅野です!
今回はいよいよ、以前予告していた「エヴゲーニー・オネーギン・チャレンジ」をやっていきたいとおもいます。企画詳細はこちらから↓。
第一章自体が長いので、この記事も長いです(約1万字)。原作と照らし合わせて頂けるとわかりやすいかとおもいます。それでは早速ですが、お付き合いのほど宜しくお願いします!
私信
・vanité(虚栄心), orgueil(自尊心), supériorité(優越感) といった似た単語が並び、 同じ語が繰り返されないのが特徴。
→クランコ版の中幕"Quand je n'ai pas honneur, il n'existe plus d'honneur."はここから着想を得ている? (ちなみに多くのプレスはこれを「プーシキンの作品から取った」と説明しているが、明確にどこから取ったのかは未だ解明されていない。又、文法的に見ても最初のhonneurにもd' が必要なのではないかと考えられる。)
序詞
・「君」
→ピョートル・プレトニョフ(1792-1862)。序詞が書かれたのは第六章完結後の1827年12月29日で、この段階では彼の名があった。しかし、1837年の決定版ではこの名はプーシキン自身の手によって取り除かれている。(木村彰一訳注)
・「半ば滑稽で、半ば悲しい、庶民的で理想的な章の集まり」
→“叙情的情景”。ロマン主義(熱狂派)ではなく、写実主義に重きを置いている。
題銘
・ピョートル・ヴャーゼムスキー公爵(1792-1878)の長詩「初雪」(1822)から引用。
→ロマン主義詩人。プーシキンの友人。リベラルな政治思想を持つが、宮廷とも近く、検閲官、環境副大臣なども歴任。
第1スタンザ
・叔父の死についてのぼやき
→オペラ版 第1幕1場の "А, вот и вы!~" の途中で一字一句違わずオネーギンが歌う(途中まで)。しかし、第2及び52スタンザで明らかになるが、この台詞は原作では臨終の叔父の元に向かう馬車の中でオネーギンが今後を憂いて呟いた言葉なのであり、実際に叔父の臨終の世話をしたわけではない。オペラ版ではこれが語られないため、実際にオネーギンが叔父の世話をしたように受け取られる。よって、 "肉親の死を悪く言う人物" という悪いイメージが付いてしまっている。
第2スタンザ
・馬車を飛ばしつつ
→第1スタンザが馬車の中で考えたことであり、実際の出来事ではないことを示す。
・ネヴァの岸辺に生を享け
→ペテルブルク生まれということ。プーシキンはモスクワ生まれ。プーシキンとオネーギンの類似、自伝的特徴についてはよく説かれるが、この段階で差異が示される(尚、これはレールモントフとペチョーリンの差異とも共通する)。ちなみに、現存するモイカ川沿いのプーシキン邸は晩年に住んでいたものなので、この段階で想起される「ペテルブルクの生家」のモデルはここには存在しない。
第3スタンザ
・父の暮らしぶり
→オネーギン家が落魄していることを示す。尚、家柄が良いのか否かは不明。
・Madame, Monsieur, Monsieur l'abbé
→Madame はイギリス人女性(岡上守道訳注)、Monsieur はフランス人男性ではないかと考えられる。最後の「貧しいフランス人ムッシュー・ラベ」は、訳によっては解説がなくフランス語に不慣れだと見逃すが、「司祭」という意味を持ち、人名ではない。当時は貧しい聖職者が家庭教師を兼任することが多かった。しかし、「フランス人司祭」という観点から、オネーギンが受けた宗教教育はロシア正教ではなくカトリックである可能性があるか否かは定かでない。
・教育について
→オネーギンの受けた教育がかなりいい加減であったことを示す。1800-1810年代に幼少期を過ごした貴族では珍しくなかったようだ。
・「夏の園」への散歩
→ペテルブルクで過ごす年少者はよくこの公園に散歩に出かけた。
第4スタンザ
・青春のとき
→教育を終え、社交界に出た描写があることから、帝政ロシアの成人年齢16歳を迎えたことがわかる。
小澤政雄訳注では、このとき1812年としているが、オネーギンの年代については諸説あるためここでは断定せず記載するに留める。
・髪型、服装
→イギリス風。オネーギンが当時の青年らしくジョージ・ゴードン・バイロン卿の影響を強く受けていることが伺える。尚、プーシキン自身、第一章が書かれた1823年頃にはバイロン卿の影響下にあったとされる。
イギリス・ダンディ風の髪型は短く刈るのが特徴で、ドイツ・ロマン主義風の「肩まで垂れた黒の長髪」のレンスキーとは対を成す。
詳しくはArzamas大先生のこちらをどうぞ。↓
・フランス語、辞儀
→社交界必須スキル。前述第3スタンザでフランス語を学んでいたらしいことがわかるが、しっかりと身についたようだ。又、小澤政雄訳注によると、「気取らない、自然なお辞儀」は大変難しく、習得に時間が掛かるらしい。が、オネーギンはそれを身につけているとされる。
・マズルカ
→ロシアにマズルカが入ってきた時頃については諸説ある。19世紀後半の有名なバレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤの回想によると、彼女の父がニコライ一世の治世下に舞踏会に定着させたと主張しているが、それでは1823年に執筆され、第一章では1810年代を想定していると考えられるこの小説と整合性が保てない。
第5スタンザ
・ペダント
→第3スタンザに続き、オネーギンの受けた教育が粗雑であったことを示すが、彼のみならず当時の帝政ロシア貴族全般に施された教育への嘆きが見て取れる。
・婦人方の微笑を誘う
→社交界から好まれるコミュニケーション能力の持ち主だったらしい。
第6スタンザ
・ラテン語は既に廃れた
→この頃、古典教育ではなく実践的な教育を施すことが流行していた。例えば、ニコライ一世(当時帝位継承権2位)は息子である後のアレクサンドル二世に、ラテン語や古代ギリシャ語ではなくポーランド語など近隣語を学ばせている。
・オネーギンのラテン語知識
→ユウェナーリスの講釈、末尾に「vale(さようなら)」と書く、アエネーイスを二行そらで言う、ロルムス(伝説上のローマ建国者)から現在までの歴史を覚えている
第7スタンザ
・ホメロス、テオクリトス
→オネーギンは古典ギリシア文学を好まない
→経済学者。『国富論』など。ここでは、重農主義の観点で影響を受けていると捉えるべきか。理想主義よりも、より実践的な考えを持っていたと考えられる。
・父
→オネーギンの父は経済学や農地改革に興味なし。
第8スタンザ
・ナソ
→ローマ帝政期の詩人。ここでは、彼の著作『恋愛の技術』を主に指していると考えられる。(小澤政雄訳注)
第9スタンザ
欠落
第10スタンザ
・全文を通して
→オネーギンの社交界生活、特に恋愛について。所謂「恋愛遊戯」と呼ばれるもの。
第11スタンザ
・同上
第12スタンザ
・亭主諸君
→『オネーギン』より後の作品だが、レイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』のフランソワとドルジェル伯の関係のようなものだろうか? もしかしたら、これが未來のN公爵とオネーギンの関係の伏線足り得るか。
・フォーブラ
→ルウエ・ド・クブレの『騎士フォーブラの冒険』。ドン・フアンに続いて、女たらしの代名詞らしい。(小澤政雄訳注)
第13スタンザ
欠落
第14スタンザ
欠落
第15スタンザ
・幾通かの手紙
→社交界に出入りする年頃の青年にとって、一日に三軒からの夜会の招待が来るというのは一般的なことなのだろうか?→要文化史リサーチ
・子供のダンス・パーティ
→少年たちのために催されるもの。一般的な舞踏会よりはやく始まりはやく終わるので、その後劇場や舞踏会へ梯子出来たらしい。(小澤政雄訳注)
・鍔広のボリバル帽
→これは風刺画なのでかなり盛っているとおもわれるが、たぶんこんなかんじ。
民族解放の指導者たるボリバルを真似ていることから、リベラル派の象徴。
・Boulevard
→ネフスキー大通りの菩提樹の並木道のこと。1820年春まで存在したらしい。昼2時頃に上流階級人の散歩で使われた。(小澤政雄訳注)
・ブレゲ
→パリの高級時計職人(1747-1823)。オネーギンも所持している。
第16スタンザ
・馬橇
→少なくとも第15スタンザからは社交シーズンであること、この馬橇という言葉からも、寒い秋~冬であることがわかる。
・馭者の叱咤
→出来るだけ馬車や橇をかっ飛ばすのが伊達の印らしい。(小澤政雄訳注)
・ビーバーの毛皮の襟
→当時のロシア貴族の外套でよく用いられる。元はイギリスのファッションらしい。この有名なアレクサンドル二世の肖像も、ビーバーの毛皮の襟(?)
→1825年まであった料亭。
・カヴェーリン
→ピョートル・パーヴロヴィチ・カヴェーリン(1794-1855)。リツェイ時代、ペテルブルク時代のプーシキンの友人。大改革期に活躍した法・政治学者コンスタンティン・カヴェーリンとは別人。
・Comet
→彗星年の酒。ここでは1811年製ワインを指す。
・Roast-beef
→1810年代末では、目新しいイギリス料理として流行したらしい(小澤政雄訳注)
・トリュフ
→フランス料理の代表
・ストラスブールのフォアグラのパテ
→フランスから缶詰で送られてきたもの。缶詰はナポレオン戦争期に発明されたらしい(小澤政雄訳注)
・リンブルクのチーズ
→恐らくひどい悪臭で有名なチーズ「リンバーガー」のこと。こういうやつ。
・パイナップル
→どこ産? →要貿易関係リサーチ
第17スタンザ
・カツレツ
→フランスのコートレット? それともキエフ風?
・бокал
→ワイングラスのこと。岡上守道訳注曰く、ワイングラスの中でもこういう形状のものを指すらしい。
・バレリーナの楽屋
→ドガの名画「リハーサル」に代表されるように、19世紀後半のフランスではパトロンや座席の定期購入者が楽屋に入れることは広く知られているが、19世紀前半のロシアでも同様のことが行われていたということか? →要舞台芸術史リサーチ
・entrechat
→バレエ用語。
・フェードラ、クレオパトラ、モイーナ
→悲劇のヒロインたち。『フェードラ』はオペラ、モイーナ(オーゼロフの『フィンガル』)は劇。クレオパトラは具体的にどの作品を指すのかは不明。当時の舞台では、オペラもバレエも劇も大差はなく、女優たちは大抵皆歌って踊れた。
第18スタンザ
・フォンヴィージン
→デニス・イヴァーノヴィチ・フォンヴィージン(1745-1792)。風刺喜劇作家。
・クニャジニン
→ヤーコフ・ボリーソヴィチ・クニャジニン(1742-1791)。劇作家。
・オーゼロフ
→ウラジスラフ・アレクサンドロヴィチ・オーゼロフ(1769-1816)。劇作家。第17スタンザの『フィンガル』の著者。
・若きセミョーノワ
→エカテリーナ・セミョーノヴナ・セミョーノワ(1786-1849)。女優。
・カチェーニン
→パーヴェル・アレクサンドロヴィチ・カチェーニン(1792-1853)。詩人。「救済同盟」員。
→ピエール・コルネイユ(1606-1684)。フランスの劇作家。『ル・シッド』で有名。
・シャホフスコイ
→アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・シャホフスコイ(1777-1846)。劇作家。風刺劇を好んだ。
・ディドロ
第19スタンザ
・ロシア生まれのテレプシコラー
→当時のロシア舞台芸術では、ロシア人バレリーナはまだ数少なく、イタリア人などが主。一方で、プーシキンはロシア人バレリーナを好んだとみえる。
第20スタンザ
・イストーミナ
→アヴドキヤ・イリーニシナ・イストーミナ(1799-1848)。ペテルブルクのバレリーナ。
・アイオロス
第21スタンザ
・未知の婦人のボックス席
→未知の婦人をオペラグラスで見ることは失礼な行為。
・オペラグラスで眺め
→当時近視を偽ることは伊達者の特徴だったらしい(小澤政雄訳注)
・ディドロも鼻についた
→第18スタンザにも出て来るバレエ振付家。プーシキンは自注にて、「ディドロのバレエは素晴らしく、こうしたオネーギンの態度は冷笑的態度から来るものである」と断っている。ところで、ここでオネーギンがディドロの何の演目を見たのかはある程度絞られる。個人的には、プーシキン原作の『カフカースの捕虜』だったらなんと皮肉だろう、と考えたが、制作年からしてそれは有り得ない。しかし、自注で釈明しているとはいえ、自身の作品のバレエ化をした振付家に対してこの表現とは、なんとも強気である。
第22スタンザ
・毛皮外套を敷いて眠る従僕たち
→19世紀初頭の劇場にはクロークが存在せず、上衣は従僕たちが預かったらしい(小澤政雄訳注)
第23スタンザ
・流行の品
→ロンドン、パリの流行に従っていた
・十八歳の哲学者
→第23スタンザの時点でオネーギンは18歳
第24スタンザ
・コンスタンティノポリスの琥珀のパイプ
→イスタンブール製。詳しくはこっち。
・クリスタルガラスに入った香水
→19世紀初頭に流行したらしい(小澤政雄訳注)
・ルソー
→ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)。哲学者、作家。
・グリム
→グリム・メルヒオール(1723-1807)。ドイツの評論家。
・爪の手入れ
→ルソーの『告白』にグリムが自身の目の前で爪磨きをした様子が語られている。以降、当時のヨーロッパの貴族は爪磨きをするようになった。
第25スタンザ
・チャダーエフ
→ピョートル・ヤコヴレヴィチ・チャダーエフ(1794-1856)。哲学者。プーシキンの友人でもある。ここでは、立派な思想を持つ人物が洗練された身なりをしていることの喩えとして使われている。
・男装で仮面舞踏会へ
→当時のロシアの仮面舞踏会は、女性は仮面着用、男性は着用なしというスタイルが多かったので、男装というのは男性側(仮面着用無し)ということを指し示しているのか、単純に「ヴィーナスの男装」という表現で区切るべきか。→要文法解釈
第26スタンザ
・pantalon、frock、gilet
→原文ではキリル文字斜体。外来語(仏、英、仏)。19世紀初頭では新しい衣服だった。フロックは最初乗馬用、パンタロンは第三身分の衣服であったが、イギリス社交界がこれを流行らせた為にロシア社交界でも流行した。
第27スタンザ
・寝静まった通り
→舞踏会は首都の勤労住民が眠っている頃に始まったらしい。19世紀初頭はまだ街灯も少なく、窓からの光が消えるとかなり暗かったそうな(小澤政雄訳注)
・洒落者、変人
→社交界人は当然礼儀正しさが要求されるが、当時はイギリスの流行に従って洒落者に少し奇妙な行動をさせるのが流行った。
第28スタンザ
・マズルカ
→舞踏会のマズルカは夕食前最後のダンスとして踊られるのが鉄板で、そこで組んだ相手と夕食を摂ることが多かったことから、愛を囁く絶好の機会とされた。
・近衛騎兵の拍車
→軍人は多く舞踏会に軍服で現れた。騎兵は文字通り馬を駆ることから、ブーツに拍車が付いていた。舞踏会では邪魔になるため外すことも許されたが、伊達者は絶対にそんなことをしなかった。尚、近衛騎兵は社交界の花形である。
・流行好きな細君たち
→ドミトーリエフの『流行好きな細君』が念頭に置かれていると考えられる(小澤政雄訳注)
第29スタンザ
・悪さ
→まあつまり、そういうことである。
第30スタンザ
・愛らしい脚
→ネクラーソフの『デカブリストの妻』によると、プーシキンが念頭に置いているこの「愛らしい脚」というのは、マリヤ・ヴォルコンスカヤの脚のことらしい。尚、よく混同されるが、脚フェチなのはオネーギンではなくプーシキン(語り部)である。
第31スタンザ
・脚
→脚のモデルは前述の通り。そう考えると、ここでは単純に過去を懐かしんでいるのではなく、革命運動に勤しむ夫に付き従う妻の境遇を案じているとも取れるか?
第32スタンザ
・ディアーナの白き胸、フローラの赤い頬
→ディアーナは古代ギリシアの月の女神、フローラはローマ神話の花の女神。
・エリヴィーナ
→架空の名前、カラムジン曰くエロティックな叙情詩と関係があるらしい(小澤政雄訳注)
第33スタンザ
・アルミダ
→アルミードとも。タッソーの『解放されたエルサレム』に出て来る魔女。多くの舞台芸術などで取り上げられた有名作。
第34スタンザ
・竪琴
→詩人の詩を表す表現としてよく使われる。尚、バイロン卿のことは『アルビオンの傲慢な竪琴』と表している。
・執筆時期
→岡上守道訳注によると、この章は1823年8月に書かれたらしい。
第35スタンザ
・起床太鼓
→兵営での朝の起床と夕べの集合は太鼓で行われていた。近衛連隊の弊社は市内各地にあり、市民は太鼓の音で目を覚ましたらしい(小澤政雄訳注)
・オフタ村
→ペテルブルク郊外の村。首都住民に乳製品を提供するフィンランド人が住んでいたらしい(小澤政雄訳注)
・васисбас
васисдас(小窓)と、ドイツ語の "was ist das?(何の御用ですか?)" を掛けている。
第36スタンザ
・何不自由ない青春の花盛り
→頽廃の気配が既にある。
第37スタンザ
・Beef-steaks
→これもまたイギリスの新しい料理としてロシア語名がなく、外来語として使われる。
・ストラスブールのパイ料理
→フォアグラやベーコンなどを真ん中に挟んで焼いたパイ。こういうの。
第38スタンザ
・spleen
→英語で「不機嫌」「憂鬱」。鬱ぎの虫。
・Child-Harold
→ジョージ・ゴードン・バイロンの『チャイルド・ハロルドの遍歴』の主人公。よくオネーギンを喩えるときに使われるこのキャラクターの名前は、ここで初めて登場する。尚、プーシキンは英語が不得意だったため、この作品はフランス語訳で読んだ。
・ボストン
→トランプ賭博のことを指すと考えられる。社交ダンスの「ボストン(・ワルツ)」はこの頃まだ誕生していないため。
第39スタンザ
欠落
第40スタンザ
欠落
第41スタンザ
欠落
第42スタンザ
・セー
→ジャン・バティスト・セー(1767-1832)。 フランスの経済学者。
・ベンサム
→ジェレミー・ベンサム(1748-1832)。イギリスの経済学者。功利主義の祖。
・気が沈む
→プーシキンは自注にて「非難の形を取った賛美である」と断っている。
第43スタンザ
・ドロシキー
→屋根のない軽装4輪馬車。こんなの。
第44スタンザ
・書籍の山
→その中に、これまで挙がったアダム・スミスやフォンヴィージン、バイロン卿などが含まれていたのだろう。→要出版史リサーチ
・タフタ織り
→平織地に横畝のある薄い絹織物。現代でもよく衣服に用いられる。
第45スタンザ
・ぼくは世を憤り、彼は陰鬱だった
→この対比はプーシキンとオネーギンのみならず、レンスキーとオネーギンの対比にも似る。
・フォルトゥーナ
→ローマ神話の運命の女神
第46スタンザ
・オネーギンの言葉
→かなり手厳しかったことが伺える。そうとも考えると、第四章でタチヤーナに対して丁寧な返事をしたのは、彼としてはかなり配慮してのことだったのではないか。
第47スタンザ
・ネヴァ河の描写
→白夜を指す。自注にてニコライ・イヴァーノヴィチ・グネージチ(1784-1833)の詩を紹介している。
第48スタンザ
・花崗岩に寄りかかる
→ネヴァ河畔に花崗岩製のベンチがあったらしい(岡上守道訳注)
・ある詩人が書いたように
→自注にミハイル・ニキーティチ・ムラヴィヨフ(1757-1807)の『ネヴァの女神に』が挙げられている。
・ミリオンナヤ通り
→ここ(地図参照)。ペテルブルクを訪れたことがあるひとならピンとくるはず。尚、前述のようにこの頃はまだ地図上の「プーシキンの家博物館」にプーシキンは住んでいない。
・Торквато
→Torquato Tasso トルクァート・タッソー(1544-1595)のこと。イタリアの詩人。『解放されたエルサレム』『リナルド』などで有名。
第49スタンザ
・アドリア
→地中海。イタリアとバルカン半島の隙間。タッソーの話を受けてか。
・ブレンタ
→ここでは、イタリア北西の共同体ではなく、ヴェネチアの川のことを指すと考えられる。当時はロンバルド=ヴェネト王国領。
・アルビオンの傲慢な竪琴
→前述した通り(第34スタンザ)、バイロンの詩を指す。
・ペトラルカ
→フランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374)。イタリアの詩人。
第50スタンザ
・我が待ち望む自由のとき
→改革、革命運動などを仄めかしている?
・日を待ちつつ
→プーシキン自注で「オデッサで書いた」とある。これはプーシキンがオデッサで外国への逃亡の計画を考えていたことに由来する(小澤政雄訳注)
・アフリカ
→自注で祖父の詳しい経歴が綴られる。プーシキンの祖父はアフリカから連れられてきた人物であり、プーシキンはその出自を誇りに想っている。ちなみに、ここでの「アフリカ」とは従来はエチオピアだと考えられていたが、最近ではカメルーンではないかと考えられている。
第51スタンザ
・長時間別れる
→どの程度の期間なのか不明。詳しくは「年齢論争」にて。
・叔父の死の予見
→もしかしたら、死の近い叔父の方が、借金取りに取り囲まれるオネーギンを知って哀れんだのかもしれない。
第52スタンザ
・郵便馬車
→馬車による郵便輸送だが、客を乗せることもあった。
・叔父の死
→前述のように(第1スタンザ)、オネーギンは叔父の死に立ち会っていない。
第53スタンザ
・葬式好きな人々
→当時は娯楽が少なかったので、冠婚葬祭は重大な催しだった。特に、田舎とあっては。
第54スタンザ
・樫
→ロシアを代表する樹木のひとつ。プーシキンと樫といえば、『ルスランとリュドミラ』の冒頭を想起するひとがいるかもしれない。
第55スタンザ
・far niente
→イタリア語で「無為」。
第56スタンザ
・プーシキンとオネーギンの違い
→第56スタンザでは全面的に著者プーシキンと主人公オネーギンの差異が強調される。ここでは、自然にも三日で飽きたオネーギンと、自然や恋や "far niente" からインスピレーションを得るプーシキンの対比。
第57スタンザ
・山の乙女
→『カフカースの捕虜』のヒロインのことらしい(小澤政雄訳注)
・サリギール
→クリミアにある川のこと。
・囚われの女
→『バフチサライの泉』の娘たちを指すらしい(小澤政雄訳注)
第58スタンザ
・前スタンザとの繋がり
→プーシキンの台詞は前第57スタンザから繋がっている。「手紙」や第四章、第八章の長い対話などを抜くと、このような繋がりは珍しい。
第59スタンザ
・絵も描かない
→プーシキンは作品の横に登場人物の横顔などをよく描いたことで知られる。当時流行の人相学の影響だろう。オネーギンの場合はこんなかんじ。
・25章の長詩
→ここでは、実際に25章の詩を書こうというのではなく、一種の皮肉で、「25章にもなる詩を書けるのは一般人では有り得ない」というような意味のようだ(岡上守道訳注)
第60スタンザ
・曲解、喧噪、罵倒を、ぼくに持ってこい!
→プーシキンの著作は、発表されると常に論議の種となった。この度はそれも厭わぬという意。この台詞は『オネーギン』の中でも有名。
終わりに
今まで書いた記事のなかで一番労力掛かっているかもしれない……。めっっちゃ疲れました……。これが、いま出来るわたしの最大限の「精読」です……。これ、あと7章+断章あるんか……キッッッツ……いや、勿論楽しくもありますが……。
通読ありがとうございました。需要ないとはおもいますが、何かしらで役立てて頂ければ幸いです。それではまた第二章でお会いしましょう~。