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真っ赤なベレー帽の婦人と話しているのは誰? - 『オネーギン』考証

 こんにちは、茅野です。

ひょんなことから19世紀のスペインに関心を持ち、最近は憲法を翻訳したり色々調べたりしています。チック・コリア御大の『スペイン』や、リムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』、沖仁先生のフラメンコギターなどを垂れ流しながらリサーチするのはとても楽しいです。

 

 さて、今回はそんなスペインと『オネーギン』を組み合わせて考えてゆきます。取り合えずこの作品に絡めないと気が済まない厄介なオタクの図。予定外の単発記事です。

原作をよく読み込んでいる方、オペラの歌詞を暗記している方はピンと来るかもしれません。そう、『オネーギン』では、作中スペイン大使が登場します。「スペイン大使」とは、具体的に誰なのか? 実在の人物なのか? 是であれば、どのような人物か? 当時のロシア―スペインの関係は? などなど、スペインに纏わる事象を確認してゆこうと思います。

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

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1820年代当時のスペイン王国旗。

 

 

真っ赤なベレー帽の婦人と話しているのは誰?

 まずは、原作に於いてスペイン大使がどこで登場するのかを確認しましょう。第8章17スタンザ8-10行が該当箇所です。

«Скажи мне, князь, не знаешь ты,
Кто там в малиновом берете
С послом испанским говорит?»

「時に公爵」と彼は言った。「ほら、あそこで真っ赤なベレー帽をかぶって、スペインの大使と話している婦人が誰か、君は知らない?」 (池田健太郎訳)

「公爵」とは勿論 N 公爵 = グレーミン公爵、発言者はオネーギンです。真っ赤なベレー帽を被って、大使と話しているのがタチヤーナですね。

 尚、オペラでも一字一句同じまま、この問いをオネーギンは公爵に投げかけます。第3幕第1場、ペテルブルクの夜会に訪れたオネーギンが、麗しき公爵夫人に変貌したタチヤーナについて尋ねる場面です。ここで、ターニャと話しているのがスペイン大使なのです。

 

 プーシキン御大のことです、何かの寓意があるはず。何故オランダやフランスではなく、スペインなのでしょう。『オネーギン』は非常に厳格に韻が踏まれた作品ですが、原文を確認すれば明らかなように、必ずしもスペインである必要はありませんよね。ということは、「スペイン大使」そのものに何か鍵があるはずです。特定作業を進めましょう。

 

外交官フアン・ミゲル・パエス

 流石の詩聖プーシキン作品、しかもその代表作です、既にヴラジーミル・ナボコフ御大や、日本だと小澤政雄先生らがその存在について指摘しています。結論から申し上げると、この「スペイン大使」のモデルはフアン・ミゲル・パエス・デ・ラ・カデナ・イ・セイス氏(Juan Miguel Páez de la Cadena y Seix)であると考えられます。

 彼らは名前しか記載してくれていないので、彼がどういう人物なのか、少し詳しくみてゆきましょう。

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肖像画

 生まれは1773年、没年は1840年プーシキンの26歳年上ですね。第8章の該当部を1824年と仮定すると、当時は51歳ほどですか。アンダルシア出身で、1812年、最初のカディスのコルテスでセヴィリアの代議員を務め、スペイン憲法の制定に貢献したとのことです。このことについては、詳しく後述します。

 気になるのはプーシキンとの関係。資料を少し引用してみましょう。

 His appointment as Ambassador to London in late 1823 marked his entry into foreign affairs. Juan Miguel was soon named Ambassador to St. Petersburg and remained in this capacity for a number of years. While in Russia he became well acquainted with Alexander Pushkin—he may have served as an inspiration for the Spanish Ambassador in the poet’s novel, Eugene Onegin

 彼は1823年末に在英国大使としてロンドンへ赴任し、そこで外交の世界に足を踏み入れた。フアン・ミゲルはその後直ぐに駐ロシア大使に任命されサンクト・ペテルブルクへ向かい、数年滞在した。ロシアにいる間、彼はアレクサンドル・プーシキンと親しくなり、恐らくは詩人の作品である『エヴゲーニー・オネーギン』のスペイン大使のインスピレーションを彼に与えたのだろう

CHEVALIER JUAN MIGUEL PÁEZ DE LA CADENA Y SEIX FROM THE MIDDLETON WATERCOLOR ALBUM

 そう、実際に彼は駐ロシア・スペイン大使であり、プーシキンと交友関係があったわけです。スペイン憲法の制定に貢献したということからもわかるように、思想的にはかなり開明的だったと見え、そのことも彼らの仲に関係していたと考えられます。

 

 プーシキンは恐らく、この西から来た友人が気に入り、自分の作品の、しかも愛するヒロインの話し相手として、彼を選んだのでしょう。他にプーシキンと親交があるスペイン大使はいないので、ほぼ間違いないと考えられます。

 しかし、気になる事項が一点残っています。それは、スペイン大使フアン・ミゲル・パエスのロシア赴任の時期についてです。

 

エスの赴任時期

 有名なプーシキン研究者であるユーリー・ミハイロヴィチ・ロトマンや、『オネーギン』を非常に細かい注釈と共に英訳したヴラジーミル・ナボコフは、『オネーギン』第8章の舞台が1824年であるとした上で、パエスがペテルブルクに赴任したのは1825年だとして、プーシキンの認識が間違っていると厳しく批判しています。

 わたくしもこの意見に乗っかるだけで終わろうかと思っていたのですが……、彼と親しくしていたプーシキンがこの点を間違えるでしょうか? それに、ロトマンやナボコフは、何を根拠にこう言っているのでしょうか? よく考えたら、気になることばかりです。従って、再考してみることにしました。

 

 まず、『オネーギン』第8章の舞台ですが、過去に取り上げたように、オネーギンさんはこの物語の後にデカブリストの乱・南方蜂起に加わっている可能性が高いため、デカブリストの乱(1825年12月)以前であると考えられます

↑ オネーギンと南方結社の関係について取り上げた過去記事。

 更に、オネーギンがタチヤーナに迫った物語の最終盤が「雪の溶けきらない春」であるということ、第8章の冒頭は社交シーズンである、という点から、問題の第8章冒頭(オペラでいう第3幕1場)は、1824年の秋であると推測できます。勿論、別の説もありますし、最も有力視はされていますが、あくまで仮説です。

 

 次に、スペイン大使パエスがペテルブルクに赴任した時期についてです。彼は、1824年6月25日付で駐ロシア・スペイン大使に任命されています。しかし、ロトマンやナボコフによれば、パエスがペテルブルクに到着したのは1825年になってからだ、と言います。

 彼がペテルブルクに到着した時期について、明確に示す文献は残っていません。従って、ロトマンやナボコフの言う1825年説は、元から根拠の薄いものなのです。そして、最新の研究によれば、フアン・ミゲルは1824年の10月末から11月の時点で既にペテルブルクに到着している、といいます。

例えば、昨年2020年に発表された、ロマン・オトマロヴィチ・ラインハルト先生の『スペイン大使フアン・ミゲル・パエスロシア帝国での外交活動の開始(1824-1825)(Начало дипломатической миссии посла Испании Х. М. Паэса де ла Кадена в Российской Империи (1824-1825))』という論文です。もう題から明らかなように、ロトマンやナボコフの主張に真っ向から反対するのがこの論文。明確な根拠が挙げられているので、恐らくは、ラインハルト先生の主張の方が正しいのだと思われます。

↑ インターネット上で論文の全文が確認できます。ロシア語に明るい方は是非。

 以上のことから、時代考証的にも、きちんとタチヤーナがパエスに出逢えた可能性は高いのです。

 

1820年代の露西関係

 さて、そもそも何故フアン・ミゲル・パエスの着任時期について詳細な記録が残っていないなどということが許されるのでしょう。個人的な旅行の記録ならばともかく、大使が入国するというのは非常に重要なことなのではないでしょうか。しかも、スペイン・ロシア両国とも、領土も人口も多い国家なのですから、尚更のことです。

 

 そのことに関しては、当時のスペイン情勢が関係しています。パエスをご紹介する際、彼が「1812年、最初のカディスのコルテスでセヴィリアの代議員を務めた」と記しました。この点を掘り下げてみます。

「コルテス」と申しますのは、スペインの議会のことです。勿論、現在でもスペイン国会として続いています。「カディス」というのは、スペインのアンダルシア州の都市の名前ですが、開催地として、というよりも、この場合は「カディス憲法に則った」という意味で考える方が適切でしょう。

 カディス憲法は、1812年に発布されたスペイン憲法です。当時としては、とても開明的で、この内容には古くから立憲君主制を採用しているイギリスを驚かせたほど。非常に民主的であり、国王の権限は大変制限されています。また、出版・言論の自由なども保証されていました。

↑ 英訳、邦訳が全然なかったので、致し方なく自分で384条全て訳出しました。今回は機械翻訳も使用したにも関わらず四日掛かりました。こちらからどうぞ。

 

 カディス憲法は、1812年から14年まで適用されていましたが、所謂「半島戦争」、或いは「スペイン独立戦争」の後、ナポレオン政権下のフランスに囚われていた国王フェルディナント7世が自国スペインに戻ると、彼はこのカディス憲法を拒否。立憲制は否定され、絶対君主制の時代に戻ります。

 しかし、一度芽生えた自由への兆しが潰えることは有り得ません。1820年、所謂「スペイン立憲革命」が勃発し、再びカディス憲法は息を吹き返し、スペインには熱狂の自由時代が再来します。我らが絶対君主制ロシア帝国は、この憲法が自国にとって危険な代物であることを当然弁えており、スペイン王国との国交を断絶します。

 この第2次カディス憲政時代には、シモン・ボリバルによるエクアドルやペルーの解放・独立が達成されています。『オネーギン』第1章第15スタンザ10行では、オネーギンがボリバル風の帽子を被って出掛ける描写があり(Надев широкий боливар, Онегин едет на бульвар)著者プーシキンやオネーギンは、このカディス憲法ボリバルの活躍に共感していたのではないかと推測することができます。

 

 ところが、その熱狂も長くは続きません。革命旋風を巻き起こしたフランスも王政復古の時代に逆戻り。前述のように、我らがロシア帝国を含め、欧州の多くの国々はこの開明的で「危険」なカディス憲法を憎んでいました。そんな3年後の1823年、フランスがスペイン王国に侵攻。カディス憲政体制は崩壊してしまい、再びフェルディナント7世による絶対君主制の時代が始まります。これは、カディス憲法に「虐げられた」王の憎悪に充ち満ちた統治で、凄まじく保守的な「暗黒時代」であったと言います。

 同じく、暗黒のアラクチェーエフ体制を敷いていたロシア帝国は、カディス憲法の撤廃を「歓迎」し、スペイン王国との国交を再開します。そう、そこでスペイン王国からやってきたのが、今回のフアン・ミゲル・パエスであった、というわけです。

 

 何度も体制が変更されたことからもわかるように、当時のスペイン王国は情勢が非常に不安定でした。従って、彼に纏わる文献が少ないのも、スペインからは遠く離れた国であるロシアとの外交にまで気を回している余裕はなかったと、そういうことなのでしょう。

 その後もスペイン情勢は安定せず、ロシア帝国とも国交の再開や断交を繰り返しています。フアン・ミゲル・パエスも、1833年に再びスペイン―ロシア間の国交が断絶されたことから、スペイン大使の任を解かれています。

 

 ちなみに、オペラの『オネーギン』が書かれた1870年代の駐ロシア・スペイン大使は、フアン・ヒメネス・デ・サンドヴァル・イ・クラメ氏(Juan Ximénez de Sandoval y Crame)という人物のようですが、肖像画や写真を一枚も見つけることができませんでした。

 

最後に

 通読お疲れ様でございました! 5600字です。

簡単な単発記事を……と思っていたら、調べるうちに興味深い論文を見つけてしまったりして、非常に楽しくなってしまいました。昨年に書かれただなんて……嬉しい驚きです!

 今後は、『オネーギン』以外のチャイコフスキー作品に於ける「スペイン」について一記事書いてみようかなと思っています。今までスペインにはあまりご縁がなかったのですが、今年はスペイン製のゲームの考察を書いてみたりなど、新たにご縁ができて嬉しいです。

 それでは、お開きとさせて頂きます。また別記事でもお目にかかれれば幸いです。