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自殺論を考える - 哲学雑記

 おはようございます、茅野です。

わたしは曲がりなりにも文学を愛好し、専攻する者なので、共感性や感受性は並よりも高い方だと思います。事実、精神性と言われている手掌多汗症で、少しでも感情が動くと手の平がえげつないことになりますし、かなり重度の共感性羞恥で、それを理由に映画や演劇はかなり苦手です。

 一方で、自分の意見、哲学、信念のようなものをかなり強固に持っているので、自殺文学を読んでも、心理を理解はしつつも、引っ張られて死にたくなったりすることは余りありません。読書好きの後輩たちはよく自殺文学を読んだ後に「精神がしんどいです!」とメッセージをくれて会話したりするのですが、わたしの方は無いですね。従って、逆にもしかしたら自殺文学向いているかもしれん、と思い、卒論はそれで書きました。このコロナ禍に引きこもって一人で延々自殺文学研究していたので、周りからは「よく病まねえな」と言われました。わたしは楽しかったです。

 

 病むと言えば、『若きウェルテルの悩み』好きの後輩が、「"ウェルテル効果" を連呼されて辛い……」と言っていました。自分で喩えるなら、全く作品とは関係がないのに、「オネーギン効果」と連呼されるようなものか……とおもうと、確かに病みそうです。後輩の精神の為にも、変な報道その他はやめるんだ。宜しくお願いします。

 

 さて、今回は、そんなわけで「自殺論」です。この時期に? この時期だからこそ! 前回に引き続き哲学シリーズ。

それでは、お付き合い宜しくお願い致します。

 

 

0. 問題提起

 前記事「幸福論を考える」で、「欠乏」「苦痛」は必ずしも不幸ではなく、「充足」「退屈」は幸福を呼ばない、と書きました。

↑前記事。

 

 ひとが自殺したときに、遺された側は、「実は思い悩んでいたのではないか」「自分が知らないだけで苦しかったのでは」のような心理に陥ることが多くあります。確かに、そう思い悩んでしまうのも無理はないですし、多かれ少なかれ、その反省が必要であることもあります。

  前述の『若きウェルテルの悩み』のように、失恋など、勿論肉体的・心理的苦痛を理由に自死に至る場合もあります。しかし、必ずしもそうではないのでは? ともおもうわけです。

 

 わたしが関心があるのは、明確な理由がなかったり、あったとしても「苦痛」ではなく、己の信念・哲学に従って行う自殺のケースです。その心理に興味があって、文学ではそういった描写があるものを探したり研究したりしていました。

尤も、現実世界に於いて、闇雲に死の動機を探ろうとして、死者の尊厳を奪うこと許されませんし、わたしとしても強い嫌悪感を覚えます。これは文学研究だから許されることなのです。そういったトピックの方に関心がある方はこちら。↓

死者の人権、全人類が取り組むべき課題。 

 

 わたしの考えでは、前記事でも書きましたが、人間という精神構造を持つ以上、人間が幸福を実現する場所はこの現世です。ですから、如何なる場合に於いても自死を良しとする考えは個人的には賛同致しかねるのですが、だからといって全否定するわけではなく、だからこそ異見に触れ、その思考について考えを巡らせてみたいとおもいます。今回は、3つの文学作品を取り上げ、それぞれの自殺の動機について考えます。

 

1. オクターヴの秘密

  当方は大学でフランスの近世・近代の戯曲を主に扱っており、フランス文学には多少の馴染みがあります。まずは、フランス文学に於ける自殺の問題から始めたいと思います。

 わたしは既に内側に入り込んでしまっているので、「フランス文学」と大きな括りで言うと一般的にはどのようなイメージがあるのかわかりませんが、個人的に驚くのは、作中の自殺率の高さです。尤も、わたしが好んでいるのは19世紀文学で、ロマン派、デカダン派などがメインということも勿論加味する必要がありますが……。統計を取ったわけではありませんが、体感的にはロシア文学や日本文学よりも多いのではないかと思います。

19世紀の有名どころだけでも、シャトーブリアンには『アタラ』(アタラ)、バルザックには『娼婦たちの栄光と悲惨』(リュシアン・ド・リュバンプレ)、ユゴーには『ルイ・ブラース』(ルイ・ブラース)、フローベールには『ボヴァリー夫人』(エマ・ボヴァリー)、コレットには『シェリの最後』(シェリ)……、と、ほんとうに枚挙に暇がありません。ちなみに何故か服毒自殺(砒素)率が高い。

 大作家スタンダールにも自殺文学があります。処女作『アルマンス Armance』です。わたくし、この小説が滅法好きでして、「好きな小説10選」みたいなことをやるときには必ず挙げる作品でもあります。簡単にあらすじをご紹介します。

 青年貴族オクターヴ・ド・マリヴェールは、聡明で、一種影のある魅力を持った美青年だが、心に深い憂鬱を抱えており、社交を好まなかった。彼の従妹アルマンス・ド・ゾヒロフはロシア人の父を持つ美しい娘だが、財産がなかった。彼女は密かにオクターヴを愛していたし、人間ぎらいのオクターヴも彼女にだけは心を開いたが、オクターヴは己のとある「秘密」の為に決して人を愛すまいと決心していた。

 法改正により、オクターヴには莫大な財産が入ることになり、彼は社交界で注目を浴びることになる。アルマンスは財産目当てで彼に取り入っていると思われることを恐れ、彼を避けるようになる。その態度に傷ついたオクターヴは、既にアルマンスを愛してしまっていることを自覚し、卒倒する。

 些細なことでクレーヴロシュ侯爵と決闘することになったオクターヴは、勝利はするものの己も深手を負い、アルマンスの手当を受ける。死を覚悟し安心したオクターヴは、アルマンスに愛を告げるが、彼女の懸命な救命により一命を取り留める。

 オクターヴの両親は二人の結婚に同意するが、逆にそのことで「秘密」を抱えるオクターヴは悩み、絶望を募らせていく。アルマンスはそんな彼にかえって惹き付けられ、彼を励まし、どんなことでも受け入れることを誓う。そんな彼女に、オクターヴは手紙で「秘密」を打ち明けることを決心する。その折、オクターヴに嫉妬するシュヴァリエ・ド・ボニヴェとコマンドゥール・スービラーヌは、卑劣にもアルマンスの手紙を偽装し、オクターヴを愛していない旨の手紙を書く。それを読んだオクターヴはアルマンスの愛を疑い、投函するはずだった「秘密」を綴った手紙を破り捨ててしまう。

 オクターヴとアルマンスは結婚したが、その後すぐにオクターヴは戦地となっていたギリシアへ出征してしまう。彼はギリシアへ向かう船の中で砒素を仰ぎ息絶える。周りの者は皆病死であると考えたが、アルマンスただ一人は自殺であることを確信する。彼女は修道院に入る。

 わたしの拙い筆で魅力が伝わるものやら不安なのですが、これが実に素晴らしい小説なのです。1827年社交界の描写、如何にもロマン派らしい筋書き、スタンダールの醍醐味とも言うべき恋愛時の心理描写……。処女作ということもあり、課題がないわけではありませんが、スタンダールのエッセンスが凝縮された作品となっています。

 

 この筋書きを読んで、「オクターヴの秘密ってなんだろう?」と疑問に思われたのではないかと推察します。そう、わたしの考えでは、この『アルマンス』の最も優れた点は、最後までオクターヴの「秘密」が描写されないことにあるのです。美しく、財産も知性も備え、恋も成就し、向かうところ敵無しとも思われるオクターヴが、自殺にまで追い込まれるほどの「秘密」とはなんなのでしょう? そこには無限の想像の余地があります。わたしはこれがもうほんとうに得も言われぬほどに大好物でして、色々考えを巡らしております。

 

 尚、著者スタンダールにはオクターヴの「秘密」について見解があるようで、同じく作家であるプロスペル・メリメに「オクターヴの秘密とは✕✕✕✕である」という手紙を書いています。最悪です、もう本当に最悪。作者は作品外で作品以上のことを語ってはいけない『アルマンス』はオクターヴの秘密がわからないところに最大の魅力があるので、メリメへの手紙は絶対に読まないで欲しい。絶対にggるな。わたしは言いましたからね、ほんとうに大真面目なのです、わたしは心底知りたくなかったので……。

 それはただのスタンダールの見解に過ぎないのであって、オクターヴの「秘密」は明かされていません。作者は死んだのだ(La mort de l'auteur)。作者の解釈が必ずしも正しいわけではない

 そこで、改めて考えてみたいのです。オクターヴの「秘密」とは一体なんなのか。仏文学者生島 遼一先生が喝破しているように、オクターヴの自殺の要因は、単一の「秘密」には求められないように思われます。描写を読む限りでは、オクターヴの関心は唯一、アルマンスとの恋愛にあります。つまり、オクターヴは、「アルマンスに嫌われること」「アルマンスに愛されること」の双方を極度に恐れているのです。ここにあるのは、極度の自己批判の精神であり、即ち、己の無力感、自己肯定意識の低さと言い換えることができます。傍から見て、何でも持っているように見える人でも、このような気持ちに思い悩み、果ては自死を選ぶことがあるということですね。尤も、『アルマンス』はフィクションですが、現実世界でも、思い当たる節はあるのでは?……

 

 尚、『アルマンス』は、正にそのオクターヴの「秘密」が描かれなかったことから、当時の文壇では理解を得られず、忘れられた作品となりました。今では、寧ろスタンダールが想定する「秘密」に違和感を覚え、「秘密」が描かれないこと自体に魅力を見出す、わたくしのような読者も増えているそうです。わたしはスタンダールが「秘密」の想定を漏らしたことを決して許しはしませんが、そのような背景があったことは加味しなければなりません。当時は心理学も発展していない時代。現代のフロイトやらキューブラー・ロスやらを引用できる我々とは時代が違います。人類には早すぎたんや。

 

 一『アルマンス』ファンとして、読者一人一人が、オクターヴの「秘密」を、彼の死の謎を解いてくれたら、わたしは嬉しいです。

 

2. 愛と責任の先に

 オクターヴの「秘密」が何であれ、根幹にあるのは「極度の自己批判の精神」「己の無力感」「自己肯定意識の低さ」であると述べました。現代文学では、それを更に深掘りし、丁寧に綴った作品があります。

 それらの描写に富む作品で、わたくしが特にお勧めしたいのは、平野啓一郎先生の『空白を満たしなさい』です。

わたしは前述の通り、自殺文学とは結構なご縁がありますが、中でも特に心理描写が卓越していると感じたのがこちらの作品です。傑作。平野先生はフランス文学に造詣が深い方で、それを経由して知りました。作中でも、ボードレールの話などが出てきます。

こちらもネタバレすると楽しみが半減する作品だとおもうので、オチには触れず、公式の紹介文をそのまま掲載させていただきます。

ある夜、勤務先の会議室で目醒めた土屋徹生は、帰宅後、妻から「あなたは3年前に死んだはず」と告げられる。死因は「自殺」。家族はそのため心に深い傷を負っていた。しかし、息子が生まれ、仕事も順調だった当時、自殺する理由などない徹生は、殺されたのではと疑う。そして浮かび上がる犯人の記憶……。

 昔大好きだった作品に少しだけ筋が似ていて、それで興味を持って読んだのですが、いやはや、凄い作品に出逢ってしまったと感じましたね。上巻は臨場感バッチリのサスペンス、下巻は平野先生節が炸裂しております。上下巻と少々長い物語ですが、満遍なく好き。 

 

 紹介文にあるように、徹生には自殺する理由など無く、傍から見て満たされているという条件はオクターヴにも似ます。徹生が自分を殺した「犯人」に気付くシーンはほんとうに鳥肌ものなので、あまりネタバレしたくないのですが……。少しだけ濁して言うと、その犯人の正体とは、「愛」と「責任感」にあると考えられます。

 愛ゆえに責任を感じ、その疲労感で身体や精神を壊してしまう。あとはちょっとした「後押し」で全てが終わる。非常に納得がいく説明です。満たされているはずなのに、幸福なはずなのに、徐々に蝕まれ、最後には自ら幕を引き、闇に閉ざされる世界。疲労感、軽度(或いは重度)の鬱に身を委ねてしまったら、そんなに高みを目指さなくとも、愛する人はただ生きているだけでよいとおもってくれるはず、という確信すら持てなくなります

あとは、その日の朝たまたま寝坊したとか、親に怒られたとか、その程度の些細なことで衝動的に GAME OVER...

 現代の自殺では、特に多い理由なのではないかと推定されます。特に完璧主義の方は。お気を付け下さいませ。

 

 『空白を満たしなさい』は、そんな自殺直前の人間の心理を手に汗握る臨場感で克明に描き出した傑作です。別に自殺した経験があるわけでもないのに(物理的に有り得ないですし)、「わかる!」という共感に包まれます。恐ろしい作品です。

 

 ちなみに、『空白を満たしなさい』で「責任」が怖くなったら、小坂井 敏晶先生の『責任という虚構』を読むといいです。救われます。小坂井先生の本はもう全部読むべき。読んでいる傍から明確に視野に拡がった感覚を味わえます。ここまでの感覚を味わえることはなかなかないです。超オススメ。

 

3. 『アクセル』の自殺論

  「極度の自己批判の精神」「己の無力感」「自己肯定意識の低さ」、それから「愛」「責任」「疲労感」。どれも納得がいく理由です。したくはないですが。これらに共通するのは、「もっと頑張らなければならない」という強迫観念です。向上心が高いのはいいことですが、疲労感に打ちのめされると再起不能になる可能性があります。適度に休憩できる止まり木が必要です。尤も、それが社会のせいで不可能であるという場合には、声を上げていく必要があります。

 

 最後に、特異な自殺論をご紹介しようとおもいます。また戻ってフランス文学。わたくしが卒論で扱った、ヴィリエ・ド・リラダンの長編戯曲『アクセル Axël』です。

まずは簡単にあらすじをご紹介します。

 舞台は1828年頃。

 第一幕「宗教の世界」は、旧フランス領フランドル沿岸地方の女子修道院が舞台。修道女サラは、降誕祭前夜のミサにて「光」「希望」「生」を拒み、修道院から逃走する。

 第二幕「悲劇の世界」では、ドイツのシュヴァルツヴァルトに聳えるドーエルスペルグ家の城に舞台が移る。若き城主アクセル・ドーエルスペルグと、その従者たちがひっそりと暮らすその城に、アクセルの従兄コマンドゥール・カスパールが訪れる。彼はアクセルの老僕ザカリアス氏からこの城に夥しいほどの財宝が眠ることを聞き、それを祖国ドイツの為に使用することをアクセルに提案する。それを聞いたアクセルは激昂し、決闘となる。彼はコマンドゥールを突き殺す。

 第三幕「幽玄の世界」は、アクセルと彼の師ジャニュス先生の対話が展開される。アクセルは前幕ではコマンドゥールの意見に強く反対したものの、彼に影響され、俗世間での生を望むようになる。ジャニュス先生は、彼に修辞的な言葉で人生に於いて行うべき選択について説く。最後に、「光」「希望」「生」を受け入れるかという、サラに対するものと同じ問いを投げかける。アクセルも同じく拒否する。

 第四幕「情熱の世界」では、サラがアクセルの城に辿り着く。財宝が堆く積まれた地下霊廟で邂逅した二人は、武器を交えて戦うも、たちまち恋に落ちる。二人は、この財宝を使って幸福な生を送ることを夢見るが、アクセルは現実に於いてその夢を叶える必要はないと断言する。ここに、最も有名な台詞「生きる? そんなことは、召使いがやってくれる Vivre? les serviteurs feront cela pour nous.」がある。そして、二人は毒杯を仰いで、現世から脱する。

 ゴッチゴチのデカダンです。第三幕と第四幕では、もう延々自殺教唆してます。わたしはこの作品を半ばふざけて「自殺教唆戯曲」と呼んでいました。精神安定に自信が無い方は読まない方がいいです。特にこんなコロナ禍なんかでは。

 

 ご覧のように、アクセル伯の自殺論は実にユニークです。『アクセル』は、哲学的で衒学的で、少々難解な作品でもあるので、可能な限り噛み砕いて解説して参ります。

 著者ヴィリエの思想には、「期待」に関するものがあります。たとえば、あなたが「あ~、パリに行ってみたいな!」と思ったとします。「パリという街は美しくて、人々は親切で、食べ物は美味しく、行ったらきっと心底仕合わせな気持ちになれるんだろうなあ!」と想像したとします。しかし、実際に行ってみたら、街は意外とゴミだらけだし、スリに遭うし、パリジャンはフランス語が話せない人には素っ気ないし、レストランは高額だし……、とガッカリしてしまいました。こういう経験、きっとありますよね? しかも、一度や二度のことではないですよね?

ヴィリエは言います。抱いた期待は、現実を超越する、と。仮にパリがあなたの想像通り、美しく仕合わせな街だったとしても、最初に抱いた期待感の方が、実際の経験よりも素晴らしいものだ、とヴィリエは喝破します。

 『アクセル』作中で、主人公アクセル伯は言い放ちます。

À quoi bon les réaliser ?… ils sont si beaux !

実現することが、―――そんな美しい夢を実現することが、なんだって言うんだ?

(中略)

Tout à l’heure, tu parlais de Bagdad, de Palmyre, que sais-je ? de Jérusalem. Si tu savais quel amas de pierres inhabitables, quel sol stérile et brûlant, quels nids de bêtes immondes sont, en réalité, ces pauvres bourgades, qui t’apparaissent, resplendissantes de souvenirs, au fond de cet Orient que tu portes en toi-même ! Et quelle tristesse ennuyée te causerait leur seul aspect !… Va, tu les as pensées ? il suffit : ne les regarde pas.

さっききみは、バグダッドパルミラについて話したね。エルサレムについても。きみが持つオリエントの奥地の光り輝く記憶というのは、きみの内にあるものであって、実際には、ただの石屑の山、燃えた不毛の大地、汚れた獣の巣なんかの貧しい村でしかないってこと、きみが知っていたらな! 一瞬見ただけでも、どんな幻滅と悲嘆がきみの心に湧くだろうね! ……さあ、思い描いたか? なら、もう十分だ。実際に見る必要なんて無い。

 「期待」を抱けたのなら、それを現実に行う必要は無い。何故なら、「期待」は現実を超越するのだから。これが彼の考えです。滅茶苦茶を言っているようで、納得できる部分も多いにあるのではないでしょうか。彼はこれを恋人サラに説いて聞かせ、彼女を納得させて二人で毒杯を仰いで死に至ります。

 

 わたしは、アクセルの自殺論には、大いに理解できる点があると考えています。しかし一方で、唯一納得できない点があるとしたら、「最大の幸福」に関してです。

アクセル伯がここで自殺をするのは、最高のパートナーであるサラに出逢い、結ばれるという「最大の幸福、最高の期待感」を得たからです。二人は相思相愛でこそありますが、まだデートもしていなければセックスもしていないし、結婚もしていません。しかし、二人には「今、愛が成就した」という確信があります。もう、それだけでよいのです。その期待感で充分なのです。

 わたしが共感し得ないのは、「何故そこが人生に於ける最高の期待感だという確信があるのか」、という点に尽きます。期待が現実を上回る、という思想については、わたしは共感します。しかし、「最高の瞬間」というものを、如何にして認識するのか。如何にすればその確信を得られるのか。そこが不明瞭であるように感じます。

「どの瞬間が人生に於いて最高であったのか」、これはそれこそ死んでみないとわかりません。未來のことはわかりませんし、今後最高になんか全くなりようがない場合も考えられます。尤も、「そのとき」が来ればわかるものなのかもしれません。そして、わたしにはそれが訪れていないだけなのかも。しかし、これを論証することは不可能です。そこがこの思想の弱点かな、と考えます。

 

 『アクセル』は、「象徴主義文学の聖典」と誉れ高い作品で、この「期待」の問題のみならず、ヴィリエの独自思想が鏤められた傑作です。そして、あらすじや先程の引用を読んで頂ければおわかりかとおもいますが、ものすんごい厨二病です。刺さる人は有り得ん刺さるとおもいます。我こそは、という方、是非とも手にとってみてくださいませ。

 

最後に

  三つの文学作品から、自殺論について検討して参りました。驚きの9000字強……。

 冒頭にも述べました通り、わたくしは如何なる場合に於いても、自死には否定的な立場を取っています。何故なら、人間の精神構造からして、幸福を実現できる場所は現世をおいて他にはないからです(詳しくは幸福論の記事をご覧下さい)。

 しかし、文学をやる上で自殺の問題は避けては通れません。特にロマン派やデカダン派では、全作品の半分以上の作品で自殺の問題が取り上げられているのではないか、というくらい登場人物や作者が自殺するからです。文学、恐ろしいところです。この間、自殺文学の某研究者先生が自死した、という話も小耳に挟みましたし、文学研究を行う上では、「理解はするが共感はしない」という適度な距離感を保つことが重要になってきます。特に、孤独な時間が増え、自省の機会が増えた現コロナ禍は注意が必要です。ほんとに気をつけてくださいね。

 それでは、注意喚起をしたところでこの記事は閉めたいとおもいます。最後までお付き合いありがとうございました。