こんばんは、茅野です。
日本人としては、8月は終戦記念日やお盆があることから、怪談や死生観について話しても許されるのかなとおもっていたのですが、気が付いたら9月も半ばになっていました。なんということだ。
近況報告ですが、わたしが考察を書く契機となった某悪魔的作品とストーリーが似ている小説を見つけてしまったことを切っ掛けに、まさかの10年ぶりに同作品に再燃(ハマったのは12歳の頃だったのである)。色々考えているうちに怪異の定義が気になり始め、今に至ります。同作品は配信会社が倒産したため、配信期間がたったの半年(!)という幻とも言うべき作品なのですが、この作品がなかったら今こんな考察書きにはなっていなかったという点で、わたしの人生にとてつもない影響を与えた作品でもあります。ちなみに、民俗学的蘇生譚を軸にした、ゴチゴチの生命倫理の物語です。愛してます(ファン歴10年の顔)。
そんなわけで今回は、「幽霊」の定義について考えることを目的とします。それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します。
「幽霊」という語の初出
「幽霊ってなに?」と問われたらば、「脚がなかったり、姿が透けていたりする」とか、「長い髪の女性」とか、「恨めしや~と言ったりする」などが返答としては多いのではないでしょうか。しかして、一体定義はどうなっているのか? 民俗学の視点から考えてみましょう。
まずは、語の誕生の歴史から追っていきます。「幽霊」という語自体はいつ、どこで生まれたのでしょうか。『日本幽霊学事始』を著した諏訪春雄氏によれば、「幽霊」という語の最も古い用例は、5世紀頃に成立した『後漢書』『橋玄伝』にあり、南朝末の詩人・謝霊運の著作物にも現れていると言います。
国ハ明訓ヲ念ジ、士ハ令謨ヲ念ジ、幽霊ハ翳ニ潜ム。
(「国はよい教えを心がけ、士はよいはかりごとを心がけ、幽霊は陰に籠る」の意。)
(『後漢書』)
又、一般的な中国語の辞書である『漢語大詞典』では、幽霊について「幽魂。人の死後の霊魂をいう。また広く鬼神を指す」とあり、このような中国の幽霊の意味はそのまま日本にも受け継がれているそうです。つまり、「幽霊」という語の始まりは中国にあると言えそうです。
では、日本ではどうでしょうか。同じく諏訪先生に拠りますと、「幽霊」ということばが日本の文献に登場してくる古い例は、
毎年今日可二念誦一、是為二本願幽霊成道一也(「毎年、今日念誦すべし。これ本願、幽霊成道のためなり」)。
とあるのが初出とのことです。
見比べてみると、語義がほぼ同様であることがわかります。このことから、「幽霊」という語は中国由来であり、同様の意味として日本でも定着した、と考えられます。
柳田國男による定義付け
それでは語義を問うていきましょう。民俗学の権威といえば、皆様ご存じ、柳田國男御大です。ではまず、御大の考える「幽霊の定義」を見ていきましょう。
第一に、妖怪は出現する場所が決まっているのに対し、お化け(幽霊)はどこへでも現れる。
第二に、妖怪は相手を選ばず、誰にでもあらわれるのに対し、お化け(幽霊)の現れる相手は決まっている。
第三に、妖怪の出現する時刻は宵と暁に、お化け(幽霊)は丑三つ時といわれる夜中に出現した。
(『妖怪談義』柳田國男)
この『妖怪談義』という論文では、「幽霊」ではなく「お化け」という語が使われているのですが、同様の意味です。この定義は多くの研究者に需要され、「幽霊」を考える上での礎となりました。例えば、池田弥三郎先生は以下のように論じています。
一体、特定の場所に出現するということが条件である霊と、
特定の人を目指して出現することが条件である霊とは、 分けて考えるべきで、前者をもって「妖怪」とし、後者をもって「 幽霊」とするのが、わたしの大雑把な分類であるが、 この条件のために、妖怪は民俗学的色彩が濃く、 幽霊は寧ろ文学的特色を厚く持って来る。つまり、人間関係が、 その条件の中に持ち込まれてくるということは、幽霊に、 文学の世界での活躍を、一段といちじるしくさせるのである。 特定の個人が特定の個人に会うことを目的として出現するのだから 、その「目的」が、条件として説かれなければならないわけで、 その点が、妖怪と違って、 文学に深入りしていかせることになるわけだ。 (『幽霊の条件』池田弥三郎)
池田氏の『幽霊の条件』という論文では、柳田御大の定義を踏襲しつつ、更に文学作品に於ける「幽霊」を考える契機を与えています。
一方、この定義は誤りだとする研究者も多く、その意見は現在では主流になりつつあります。
第一に、定義から外れる「幽霊」が存在する事実です。柳田御大の挙げる「幽霊」の例の中には、土地に執着するもの、日中に姿を現すものも存在しました。自身の調査と矛盾が発生しているのです。又、中世の能では土地に執着する幽霊が多いというエビデンスも存在します。これらが「幽霊」であるならば、定義としては機能不全ということになります。
しかし、「幽霊」の特徴として、以下のような報告もあります。
生前の固有名詞や個性、個人史をしっかりもった存在である、ということである。個人史が失われ、個性が、名前が、更にはその姿かたちが失われていくにしたがって、「幽霊」は「幽霊」としての性格を失っていく。
(『幽霊』小松和彦)
ここから、「生前の個人としての特徴を保っている」ということが、「生前親しかった人物との結びつき」を強化し、「場所ではなく人の前に現れる」と考えられるようになったのではないか、と推測します。だとするならば、柳田御大の定義をそのまま受け入れるより、この小松先生のご意見に従った方がより広範な事象に対応できるのではないかと考えられます。次節では、別の方向から定義に迫れないか考えます。
「幽霊」の姿
最近の研究では、寧ろ柳田御大の定義を一度捨て置き、新たな定義を打ち立てた方がよいのではないか、という考えが主流になっています。まずは阿部正路先生のご意見を伺ってみましょう。
死者の霊魂が、生きてこの世に立ちかえってくるもの。(中略)
幽霊はあくまでも人間に近く、時として人間そのものである。
(『死と葬送』「幽霊」阿部正路)
引用元の『死と葬送』は辞典形式であることもあり、大変簡潔に纏まっています。先程もご紹介した諏訪氏による定義も確認してみましょう。
幽霊は人間であったものが人間のかたちをとって出現したものである。これに対し、妖怪は人間以外のかたちをとって出現する。前身が人間であるか、人間でないか、現状が人間の形をしているか(人間のかたちの崩れたものを含む)か、という点に幽霊と妖怪を区別するひとつの目安がある。
(『幽霊とは何か』諏訪春雄)
この二者による定義の共通点は、「外見」です。妖怪が人間の姿を取らないことに対し、幽霊は必ず人の姿を取るといいます。但し、「完全な人間の姿(生前の姿)」であるか、「一部欠損している」とか「腐敗した死骸の姿」であるかは問われないとされます。これは定義の一となりそうです。
即ち、生きた肉体を持ち、血が通った生者と見分けの付かない肉体を持ったものも、所謂ゾンビのような姿のものも、一般的なイメージである半分身体が透けたものも、この定義の上では「幽霊」と認定されることになります。ということは、外見の定義で言えば、しっかりと受肉していて生きている友達とクラブで踊りまくる「幽霊」がいたっていいわけですよね。うーむ、なんともファンキーな世界だ。
尚、現在我々がイメージする、「長い髪をして経帷子を着ていて、脚のない女性」というようなイメージは、江戸中期あたりから形成されたもののようです。江戸時代は、「幽霊画」が流行った時代でもあり、ここで「幽霊のステレオタイプ・ビジュアルイメージ」が決まりました。
↑幽霊画の代表作・円山応挙作『返魂香之図』。
前述のように、これはあくまで「ステレオタイプ・ビジュアルイメージ」であり、このような姿であることは「定義」ではありません。尚、日本美術史では、「幽霊」の顔は常に「極端に美しいか、極端に醜い(不細工というより、腐敗した死体のイメージ)かのいずれか」であるといいます。あなたの美人なご友人、もしかして幽霊だったりしませんか?
「幽霊」と「妖怪」の違い
「幽霊」研究に於いて、頻繁に取り沙汰されるのが「幽霊」と「妖怪」の違いについてです。この2つを混同したり、意図的に同列に扱う場合もありますが、原則的には以下のように定義されます。柳田國男御大の『民俗学辞典』によれば、妖怪とは、「信仰が失われ、零落した神々のすがた」だと言うのです。
前節で幽霊の定義を確認した際、「幽霊は人間であったものが人間のかたちをとって出現したものである」という文言がありましたね。この2つを見比べるとわかりやすいのではないかと思います。即ち、「妖怪」は神から怪に墜ちたもの、「幽霊」は人が息絶え、また人となり出て来るもの、と定義することができます。
ちなみに、「デーモン(悪魔)」の定義も実はこの「妖怪」にとても近かったりします。
そして、現実世界ではデーモンの正体は「今や消滅してしまった文明の神々」です。これは、啓典の神(ユダヤ教、キリスト教、イスラームの唯一神のこと)が自らを正統たる起点として異教を断罪した為に、悪霊という濡れ衣を被った哀れな土着の神々を指します。実際、『旧約聖書』で激しく糾弾されるデーモン、バアルは元々はメソポタミア地域で信仰を集めていた神です。
ゲーム考察記事ですが、過去にフレッド・ゲティングズの『悪魔の辞典』を用いて「デーモン」の定義を探ったことがありました。ご興味ありましたら。
類似の語について
さて、「幽霊」についての定義がある程度あきらかになったところで、類似の語の定義も確認してみましょう。当節では、基本的に『死と葬送』辞典を参考として用います。
「霊魂」
霊魂とは、あらゆる地域や宗教で見られるもので、心身二元論に通ずる概念です。日本の死霊観、特に神道では、複数魂説といって、一人の人間が複数の魂を持つと考えられています。死後間もない霊魂や恨みのある霊魂は「荒ぶり」、鎮魂供養を受けると「和やか」になるといいます。そして、長い年月を経て没個性化すると、「祖霊」と成り仰せます。没個性化する前は、「幽霊」に成り得ると考えられます。
「祖霊」
「祖霊」は、家々の先祖の霊を指します。死者を神として祀る神道に於いては、広義の神でもあります。原則的には没個性的であり、各家を守ってくれる存在だと考えられます。「幽霊」はその正反対で、生前の個性を色濃く残している存在ですので、ここに違いがあります。
「精霊」
ここでは、「せいれい」ではなく「しょうりょう」と読みます。
精霊は、盆に祀られる家々の先祖の霊魂を指します。夏にはナスやキュウリで牛や馬を作るという方も多いのではないでしょうか。それらに乗って現れると考えられているのが「精霊」です。「祖霊」との違いは、盆に限定するか否かだと考えられます。
「死霊」
文字通り、死んだ人の霊が死霊とされます。死を契機として肉体から離れた霊魂を指します。特に、死後間もない死者の霊魂を指すことが多いようです。「幽霊」の定義として、「一度死している」というのは絶対条件ですから、似た概念ですが、「死霊」は現れる際の姿を問われないため、「死霊」の方が包括的概念であると捉えるのがよいでしょう。
「怨霊」
生者に祟りや障りなどの災厄をもたらす死霊を「怨霊」といいます。「幽霊」との差異を考えると、「幽霊」は生者に災厄をもたらす存在とは限らないことが挙げられます。しかし、一般的なイメージとして「幽霊が恐ろしいもの」と捉えられているのは、「怨霊」との混同が見られるためです。
「人魂」
人間の遊離魂で、青白い光を放ちながら飛ぶ怪火のことです。人魂を目撃した後は不幸があるとも言われ、生者に間接的に害為す存在だと考えられます。「幽霊」との違いは、人の形を取っていないことが挙げられるでしょう。
「幽霊」と「蘇生」
さて、「幽霊」の定義と、それに近しい語の定義も共に確認して参りました。ここらで一旦纏めてみましょうか。
- 「幽霊」とは、生きていた人間が一度死に、再び人間の姿を取って現れたものである。
- 生前の特徴を色濃く残しており、個性的である。
- 必ずしも生者に危害を加えるとは限らない。