こんばんは、茅野です。
ろくに雨も降っていないのに梅雨が明けたらしい東京。わたくしは個人的にモーリタニアという国に関心を寄せており、スマホのお天気アプリですぐに首都ヌアクショットの天気と気温を見られるようにしているのですが、北アフリカよりは気温が低いことだけが救いです。
さて、今回は単発翻訳記事です。
最近はガデンコの『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』というロシア語の史料を読む、という連載を書いているのですが、こちらの書籍は主に彼の最期、病と死について扱っているので、話が暗くて重く……。特に前回、第三回がピークでした。
↑ 臨終~埋葬編。苦しげで痛ましい描写満載なので、耐性のある方はどうぞ。
次回から章が変わり、ニコライ殿下の歿地についての話に移るのですが、第三回を書いていたら元気な頃の描写が恋しくなってきたので、取り敢えず単発を書いてみようと思い立つなど。
というわけで今回は、コンスタンティン・フョードロヴィチ・ゴロヴィーンの『回想録(1881年まで)』を読みます。
ゴロヴィーンは、帝政ロシアの政治経済の評論家・作家で、当時かなり影響力があった人物です。最終的には保守派(右派)の論客として大成しますが、今回読む1859年、1864年では、真逆の立憲主義・自由主義(左派)を信奉していました。
『回想録』は1908年に出版され、二巻本ですが、今回は一巻目の第三章・第七章を扱います。
わたくしは殿下の研究が趣味なので、殿下に関する部分と、関心がある政治に関する部分を抜きますが、実はこのゴロヴィーン、殿下と親しかったわけではありません。殿下に関する研究でも、引用されることは殆どありません。
しかも、当時はかなりゴチゴチの改革派で、その立場上どうしたって生まれながらの体制派となる殿下とは原則的に相性が良いとは思われません。
しかし、ゴロヴィーンは殿下と同い年(1843年生まれ)で、15歳の時(1859年)と20歳の時(1864年)にたまたま殿下と一緒になる機会があり、『回想録』にはその時のことが記録されています。
従って今回は、「敢えて、殿下と親しいわけでもなく、政治的にも余り相容れない人物が描く殿下を見てみよう」という趣旨です。
それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!
第三章
(前略)
しかし、大学の話に移る前に、ある一つの出来事を想起したい。
1859年の夏、私達はハープサルにいた。そこには皇家も来ており、彼らはベリガルド伯爵夫人のダーチャ(別荘)に滞在していた。
エストニア貴族は皇帝を讃える為、盛大な狩りを計画し、成犬になった猟犬が盛大に集められた。多くの部外者たちはハープサル城址前の広場に集まった。
私もそこへ連れて行かれた。
ハープサルの狩りに話を戻そう。
エストニアの民衆だけではなく、エストニア貴族も厳粛に皇帝を迎え入れた。
喜ばしい日光に燦々と照らされた7月の昼、実に豪華な狐狩りが実施されたのだった。
地方地主たちは、足の速い猟犬の群れを誇示したいかのようだった。どこかしらの動物園で手に入れたのだろうハイエナも放そうとしたが、皇帝はそれを望まなかった。
ハイエナがいなくとも、狩りは大変盛り上がった―――全く平和的で、その興奮はオペラ的でさえあった。
城址前は、市民のみならず上流階級の人々で賑わっていた。素晴らしい馬具を付けた馬車馬たち、着飾った婦人たち、そして正に男爵然とした、背の高く、男気があり、高貴な風格を漂わせた猟師たち……。
皇帝は馬に乗り、大公と従者たちもそれに従った。
当時、アレクサンドル2世は人気の絶頂にあった。改革は始まったばかりで、失望されることもなかった。―――しかしバルト諸県の人々は、口には出さないながらも暗黙の願いがあった。「どうぞ必要なだけ改革なさい、しかし我々バルト諸県には指を触れることなきよう」。
今では忘れられた、興味深い光景がそこにはあった。バルト諸県郊外の満足げな雰囲気、退役軍人の多い貴族達の幸せそうな姿。アレクサンドル・アルカージエヴィチ・スヴォーロフ伯爵(公爵の誤りか? 以後同様)に代表される、立派な県知事たち。あの時代は、全てが素晴らしく、誤解も生まれずに、全てが完璧に解決されるかのように思われた。
そして、当時の政府は彼らの定住を強く望んでいた。全てが平和裡に行われているように見えた。全てに於いて、長調的な雰囲気に満たされていた。
郊外の特殊性の維持は、民主性と内部の改革に調和しているように思われた。
そして、1861年からペテルブルク知事を勤めた自由主義的なスヴォーロフ伯爵は、既に誕生していた民衆の革命家の頭を撫で、この二重体制の具現化でもあった。ロシアへの反乱に寛容であったヨーロッパ人の彼は、バルト沿岸特有のヨーロッパ的な特徴をロシアから防衛するべきだと考えていたのだ。
彼は、壮麗な容姿と誰にでも親切な姿勢から、真の騎士に見えた。
当時のロシア政府で課題となっていたのは、リガではドイツ人、ヘルシンキではスウェーデン人、カザンではタタール人、―――そしてネルチンスクでは幾ばくかのブリヤート人であるようだった。それは宗教でも同じだった。
私達は当時、イスラム教からの背教を罰する用意が殆どできていた程だった。恐らく、その制度は―――制度であればこそ―――何か利点があったのであろう。
疑問や反論を差し挟む余地もなく、ヴォロンツォフ公爵が始めにオデッサ、次いでチフリスに、ドルゴルーコフ公爵がモスクワに、ゴルチャコフ公爵がワルシャワに、そしてアドレルベルク伯爵がヘルシンキに、中央権力の高官として、真の威厳を以て君臨していた。ワルシャワではそうもいかなかったが。
政府は、ポーランドと友好的な関係を築いている時でさえ、懐疑的に彼らを注視していたからである。
彼らにはフランス語で話しかけられたが、彼らはそれを自分達に対する譲歩であると考えた。抑制し難い祖国への情熱の爆発を恐れているのだと。
政府は彼らに対する宥和政策を用意していたが、それがどこまで通用するかは見極めかねていた。
私の父が、この手のデリケートな問題に関わっていたことを覚えている。彼は今では重要ではなくなった種馬飼養場主会議の一員で、ポーランドの飼育場を査察するという名目の下、ポーランドの政治的潮流を見極める為に派遣された。
ポーランドで、彼はとても親切に受け入れられた。
彼らは、何事かわかっていたのか、いなかったのか―――いずれにせよ、ロシアの君主に忠実に、献身的に仕える用意ができていた。
特にアレクサンドラ・ポトツカヤ伯爵夫人は、浪費と惜しむことなく親切に、ヴィラモフで贅を凝らして持て成してくれた。そこには、少なくないポーランド地主貴族たちも出席していた。
父は、ヴィラモフの領主は勿論のこと、特にアンドレイ・ザモイスキー伯爵に魅了されて帰還したが、ポーランド人の誠意に対して幻想を抱いているわけでもなかった。この点に関しては、皇帝の助言者でもあった А. В. アドレルベルク伯爵や、その近しい人々と意見を共にしていた。
この警告が無益であったとしても、彼に罪はない。
皇帝は、母のカリャースカ(四輪の小型の幌馬車)に乗り込み、私に対しても少しお世辞を言ってくれた。
私は、数日前に紹介された、私と同い年の、当時の帝位継承者ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公にも背を向けて、彼らの話を聞かねばならなかった。
主に養育者の一人である Н. В. ジノヴィエフ将軍に育てられた彼の顔には、並外れた人柄の良さと、熱意ある努力家であることが表れていた。
その時、大公には更に二人の養育者がいた―――当時陸軍大佐であった О. Б. リヒテルと、ペテルブルクに来ていた善意はあるが全く無能な学者、某グリムである。
「盲目の子に七人の乳母(船頭多くして船山に登る)」という諺があるが、しかし大公には当て嵌まらなかった。彼は誰よりも誠実で、礼儀正しい若者だった―――善意に満ちた、正に愛すべき方だったのだ。
私は彼と親しくなることは叶わなかった。それどころか、私は宮廷に相応しい人物だとすら判断されていなかっただろう。
帝位継承者の最も親しい友人は、 Н. А. アドレルベルク伯爵、С. Д. シェレメチェフ伯爵、Я. О. ランベルト伯爵だった。
私はランベルト伯とは親しくなったので、彼が二年後に亡くなった時は深い悲しみに襲われた。彼は並外れて思い遣りのある、親切で、機知に富んだ若者だった。しかし、もし彼が長く生きられたとしても、そのまま成長したかどうかは定かでない。
皇太子に話を戻そう。
彼は非常に思慮深く、己の将来の役割を案じているように見えた。色白だが美しい顔立ち、注意深い青灰色の瞳と、ふっくらした唇が彼の相貌の特徴だった。彼には気取ったところが全くなく、15歳にして、正に15歳の少年でもあった。
一度、私は彼に帝室の帆船シュタンダルト号で少し航海をしないかと誘われたことがある。
どのように、そして何故そうしたのかももう覚えていないが、私は広い船室へ降りて行った。
船室の机の上には、フランス革命で活躍した人々について纏めた美しい装丁のアルバムが載っていた。私の知識が正しければ、ルイ・フィリップ時代に活躍した画家トニー・ジョアノの作品であったように思う。
私がラ・ロシュジャクランの高貴な姿に釘付けになっていると、突然大公が入ってきた。
「おや、革命の英雄に憧れていらっしゃるのですか?」―――彼は訊いた。
「とんでもない、殿下、私はただ、高潔なヴァンデ党員たちと、熱情的なパリの革命家たちの対比を興味深く思っておりましただけで……」。
フランス語で話し掛けられたので、私はフランス語で返した。
帝位継承者は、私の言葉がよく聞こえなかった様子で、微笑みながら答えた。「ああ、それとも、ロベスピエールやダントンに感心していらっしゃる?」。
「それどころか、殿下、嫌悪しておりますとも」。
「否定なさることはありませんよ」、大公は私の言葉を遮るように言った。「彼らには心を奪う力があることは事実なんですから。彼らがいなかったら、今ほど興味深い世界にはなっていなかった、という僕の言葉は信じられませんか?」。
その言葉の真意は私にはわからない。しかし、その口調は、大公がどのような教育を受けてきたかを物語っていた。
三人の養育者のうち、ジノヴィエフ将軍は尊敬すべき人物だが、年に似合わず古風な人物だった。彼はどちらかというと、態度や礼儀を指導したように見受けられる。
ドイツ人の教授グリムは、ジノヴィエフに勝るとも劣らず善良な人物だったが、教え子には殆ど何の影響も与えられなかったようだ。
О. Б. リヒテルが教育の責任の全てを負っていた。
彼は、穏やかな雰囲気を保ちながらも、態度や声は丁寧だが厳格な色調を帯びていた。このような自制心があるからこそ、彼は帝位継承者の教育を依頼されたのだろうと、私には感じられた。
大公と、彼の弟たちは見事に対象的だった。一見したところでは、彼らは何の規律も課されていないように見えた。
彼らは普通の子供みたいに、走り回り、騒ぎ、取っ組み合って喧嘩した。それにも関わらず、一番上の弟は皇太子と一歳しか変わらなかった。
このようなコントラストは、しかし、順当なものでもあるだろう。将来の皇帝には、当然、弟たちとは異なる厳しい教育が必要だった。
この時、誰も帝位継承を疑っていなかった! まさか、何一つ礼儀作法を勉強してこなかったアレクサンドル3世が、偉大なる君主の座を戴くとは、誰一人思わなかったのである。
解説
お疲れ様で御座いました! 一旦訳注のようなものを入れてゆきます。
書いていて思いましたが、ゴロヴィーンは小説を書いていたこともあって文才はあるのですが、結構特徴的な文体だなと感じました。ダッシュが多かったり、日本語にしづらい(直訳だと意味を解しづらい)文章が多い印象を受けました。
音楽に纏わる喩えも多く、音楽が好きだったのかもしれません。「オペラ的な興奮」とは……。
「知ってた」って感じですが、相も変わらずに殿下に関しては圧倒的なベタ褒めで御座いましたね……。そろそろ信じて頂けると思うのですが、わたくしが殿下のことが好きだから彼を褒めている文献ばかりを引っ張り出してきているのではなく、ほんとうに全てがこんな感じなんですよね……寧ろ殿下が嫌いだという人物の記述を探しているくらいなのですが……見当たらない……。
訳し方迷ったんですが、原文では殿下のことを、 "это был самый(最も) благонамеренно(善良な、誠実な) - любезный(親切な、愛らしい) юноша(若者), именно(正に) благонамеренно - любезный." と、同じ表現を二回続けているんですよね。どんだけ強調したいんだ。気持ちはわかる。
政治的な意見が合わなかろうと、親しくなかろうと、この記述。いつも通りですね。
犬派皇帝
最初にハープサル(現エストニア)での狩りの様子が描かれていますが、犬とハイエナの描写は印象的です。
実は、皇帝アレクサンドル2世は大変な犬好きとして知られています。ロマノフ家では、馬や犬は沢山飼育されており、歴代愛されていました。特にアレクサンドル2世は熱狂的な愛好家で、常に犬と一緒にいたことで知られています。
↑ 写真でも、犬と映っているものは多いです。
↑ 1867年時点で皇帝が飼っていた犬たち。この絵画の舞台はズボフスキー棟の自室とのことなので、描かれたのは殿下の没後ではありますが、彼のお部屋の傍ということになります。
ハイエナのことが嫌いだったのかどうかはわかりませんが、このエピソードは、とにかく犬を愛でたいという犬好きの皇帝の心が見えるような気が致します。
バルト諸県と改革の関係
政治とは常に斯くあるものですが、バルト諸県(オストゼー)とロシア皇帝政府との関係もなかなか複雑です。当項では、19世紀の中頃の関係についてザックリ解説します。
現在バルト三国として知られる、バルト沿岸の地方は、当時からドイツ人(通称「バルト・ドイツ人」)が住んでいました。彼らは優秀で、且つバルト諸県がロシアに帰属していることを好意的に捉えていたため、政府高官にまで上り詰める人も少なくありませんでした。
例えば、あのセルゲイ・ウィッテもバルト・ドイツ系の家柄ですし、ロシア帝国の高官でドイツ系の苗字であれば、バルト諸県の出身、或いは何かしらの関係がある可能性が高いです。
皇帝アレクサンドル2世は「改革者皇帝」「解放者皇帝」という二つ名がありますが、これは主に1860年代前半に「大改革」を行ったことを意味しています。
農奴の解放、行政面の効率化などを目指した大改革は、様々な分野、地域に影響を及ぼしました。
一方、バルト諸県は、ロシア帝国内のドイツ人居住地ということもあり、しばしば特権的な扱いを受けていました。前述のように、官僚が多く輩出されているということも原因の一つです。
例えば、1861年に適用された一般農民法は、バルト諸県には適用されていません。また、当時はロシア語教育も義務化されていませんでした。
1860年代は、ドイツ(プロイセン)が強大化していく過程にあり、ロシアはドイツとの関係を注視する段階にありました。ビスマルクらが台頭する中、当時は無闇に刺激する理由や必要もなく、バルト・ドイツには文字通り「指を触れない」状況が続きます。
しかしながら、1871年にドイツ帝国が誕生すると、「バルト諸県はロシアではなくドイツに帰属すべきなのではないか」という議論が生まれ、当該地域の情勢が不安定化します。この時期になると、皇帝政府は方向を転換させ、同地でロシア化政策を推し進めるようになります。
1860年代後半以降、大改革を継ぐはずだった帝位継承者である殿下が亡くなり、自身を対象にした暗殺未遂事件が続発するなど、アレクサンドル2世は精神的に完全に参っていました。「今まで自分がやってきたことは全部間違っていたのか?」と苦悩し、時計の針を戻そうとするような傾向が顕著になります。ロシア帝国は専制君主制ですから、皇帝のこのような気分も影響していると考えられます。
当時の政治家の捉えられ方
本文中には、スヴォーロフ総督などの話がでてきますが、例えば、以前連載していた連載で、メシチェルスキー公爵や殿下は彼を酷評しています。
↑ 当該記述がある部分。
彼らはスヴォーロフ総督を「放火犯を逮捕する気のない、怠惰な人間」と捉えていますが、若きゴロヴィーンは「革命家に同情している優しい騎士」と評しています。思想の差異によって、ここまで評価が分かれるものか……と驚きますね。
殿下の友人
殿下の御友人として、三人紹介されているので、それぞれこちらでも簡単にご紹介しておきます。
最初に名前が挙がるアドレルベルク伯は、「皇帝の助言者」とも本文中にある、寵臣アレクサンドル・ヴラジーミロヴィチ・アドレルベルク伯爵の息子の、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・アドレルベルク伯爵を指します。殿下と同名・同父称ですね。
若い頃のお写真は見つからず。1844年生まれで、殿下の一歳年下です。
ゴロヴィーンが親しくなったのが、ヤコヴ・イオシフォヴィチ・ランベルト伯爵。本文中にもあるように、17歳で夭折してしまっているので、全然情報がでてきません。死因もわかりません。1844年生まれ、1861年没で、殿下の一歳年下。
もう一人が、セルゲイ・ドミトリエヴィチ・シェレメチェフ伯爵です。
わたくしの記事をよく追って下さっている方は、名前に聞き覚えがあるかもしれません。そう、この人です。
↑ 恋敵……かと思いきや!?
親しい友人……本当か……? ……、じゃあまあそういうことにしておきましょう……はい……。
フランス革命のアルバム
何度か指摘しているように、航海や舟遊びが好きな殿下。今回は、同い年の友人を航海に連れ出しています。
船室にての一幕。体制派中の体制派、帝位継承者である皇太子に、「革命の英雄に憧れる?」と訊かれる、これ以上に恐ろしいことはありません。そこで首肯でもしようものなら、逮捕されてもおかしくありません。何故なら、自分の命が脅かされていると捉えられてもおかしくはないからです。
全力で否定するゴロヴィーンですが、相手が革命家に同情していることを恐らく悟っている殿下はまるでお構いなし。含みのある言動で相手を翻弄します。15歳同士ながら、緊張の走る対話です。
その引き金を引いたフランス革命に関するアルバムですが、調べても詳しくはわかりませんでした。何か判明し次第、追記します。
表紙を描いたと思われるトニー・ジョアノの絵は、該当のラ・ロシュジャクランのものは見つけられなかったものの、一連のフランス革命の様子について描いているようです。
ちょっとグロテスクなものしか見つからず恐縮なのですが、例えばこのようなものがあります。
↑ 首を斬られた遺体と、今正に男性を刺そうとする若者、それを止めようとする娘。怖……。
しかし、何故そんなアルバムを船室の机の上に置いていたのか。たまたま殿下が当時それを読んでいたのか、それとも新しい友人を試そうとしたのか。自分とは相容れない者がいる世界の方が面白いと豪語する、肝の据わった帝位継承者。それは驕りからか、それとも敵を愛せと教えるキリスト教徒としての信仰心なのか、はたまた本気で同情していたのか?
非常に興味深いエピソードです。
それでは、次に第七章の一部を読んでいこうと思います。引き続きお付き合い宜しくお願い致します。
第七章
(前略)
64年の夏、私達家族は国外へ出掛けた。しかし、私にとって、ホテルやら鉄道やらの全てを手配するのは簡単なことではなかった。
列車の遅延、ホテルの値段、或いは設備の不足……ありとあらゆる責任を負わねばならなかった。
旅の始まりは、最も厳粛で、殆ど歴史的瞬間でさえあった。
母が休養していたキッシンゲンでは、真の会議が開催されていた。
我が国の皇帝と皇后、オーストリアの皇帝夫妻、プロイセン、ザクセン、バイエルン、そしてヴュルテンベルクの王たち―――最後の二人は王位に就いたばかりだった―――が集まっていた。
大臣、大使、外交官の群れは駆けずり回り、ほんの僅かな政治的微風のそよぎすら見逃すまいと躍起になっていた。
皇太子も来ていた。彼は若きバイエルン王と大変親密になり、二人で近郷の山々を長く散策していた。
しかし、彼の顔には既に、恐ろしき死の影が忍び寄っているように見えた。彼は異常なほど蒼白で、その見開かれた目は、当惑しながら何かを見つめているように見えた――――それはきっと、差し迫った、避けられ得ぬ破滅であっただろうか。
次の春、彼は世を去った。
一方、飛び切り美男の国王ルートヴィヒ2世は、大学を出たばかりで、若々しい力と知性の息吹を感じさせた。その時は、彼の悲惨な運命を感じさせるものは何もなかった。
彼は背が高かったので、お辞儀をしたり、話し掛けたりするときに無意識に頭が横に傾くのだが、それが非常に愛らしいのだ。
二人がそのことについて話したかはわからないが、その時議論に値する材料は出揃っていた。
小さなデンマークでの戦争で、二つの強国が戦勝したことは憂慮すべき事態だった。
フランスとイギリスは、半ば強引にデンマーク王を救済しようとした。前者はドイツに対する根源的な嫌悪感から、そして後者はデンマーク海峡が遅かれ早かれプロイセンの手に落ちるのではないかという恐怖感からだった。
後者の懸念は、ロシアの介入も促すことになった。
我が国もまた、デンマークと、エルベの公爵領(恐らくシュレースヴィヒ・ホルシュタインを指す)の完全な独立への不可侵を約す51年の条約に調印していたからである。
解説
お疲れ様で御座いました! 5年後、偶然キッシンゲンで殿下を見かけたゴロヴィーンの記録でした。
また、簡単に注釈を付けます。
64年首脳会談(カイザークーア)
1864年7月、保養地でもあるキッシンゲンにて、首脳会談が開かれます。といっても、会談が目的というより、ロシア及びオーストリアの皇后の療養目的で、結果的に……という側面の方が強いようですが。
↑ 全員集合……というわけではありませんが、各国皇族・王族の皆様。集合写真とかは特に撮らなかった模様。
殿下は両親である皇帝夫妻よりも一ヶ月遅れでキッシンゲンに到着し、6月後半~7月前半に掛けて滞在しました。1864年の国外旅行の最初の行き先でもありました。
キッシンゲンからオランダのスケフェニンフェンに療養に向かうことからもわかるように、そして本文中にも描写されている通り、当時殿下は体調が著しく悪かったのですが、外交行事も宮廷行事も欠かすことなく出席したようです。休んで欲しい。
ルートヴィヒ2世
本文では、悪名高きバイエルン王、ルートヴィヒ2世との交友が描かれています。
事実、殿下とルートヴィヒ2世は、この「カイザークーア」で相当親しくなったようで、若き王は殿下のことを一日中拘束して離さなかったといいます。
ルートヴィヒ2世は、本文中にもあるように、当時の王家の中でも頭一つ抜けた美男として高名でした。
↑ 即位当時のお写真。個人的な意見を言うと、13歳頃の少年時代が一番顔の良さ際立ってます。
ルートヴィヒ2世は1845年生まれで、殿下の弟アレクサンドル大公(後のアレクサンドル3世)と同い年。従って、殿下とは2歳弱離れていることになります。
当時、父である先王マクシミリアン2世が数ヶ月前に亡くなり、バイエルン王に即位したばかりでした。
キッシンゲンはバイエルン公国領なので、彼にとって64年の「カイザークーア」は、ロシア、オーストリア、プロイセンなど、多数の大国の皇族・王族のホストになるという、即位後初めての国際的な大仕事でもありました。
そのことについてやはり大きな不安を抱えていたらしく、同年代の殿下に会えることを心待ちにしていたとのことです。対面後は、我らが殿下のことですから、後は言わずもがな。
「長身」とあったので、興味本位で調べてみたところ、身長191cmとのこと。ちなみに、殿下の弟、アレクサンドル3世は193cm。
殿下の身長は精確な数値はわかりませんが、弟よりも少し低かったようなので、180後半~190cm程かと推測されます。ご参考までに。
会話の内容についての推測がありますが、別の資料によると、若い王は殿下に、自分の境遇についての愚痴とか、今後についての相談などをしていたようです。
王は殿下に何度も「あなたが羨ましい……」と言っていたようなのですが、本文中にもありますように、殿下は既に己の死期を悟ってしまっているので、彼がそれをどういう気持ちで聞いていたのかはわかりません。
ちなみに、会話はドイツ語で行ったとのことです。マルチリンガル殿下。
デンマークの戦争
最後に、デンマークでの戦争について触れられていますが、こちらは日本語だと「第2次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」と呼ばれているものです。
デンマーク対プロイセン、オーストリアの戦いでした。「二つの強国」というのは、後者二国を指します。
講和は1864年のウィーン条約で、同三国の国王によって調印されています。
この辺りでプロイセンが力を蓄えていったことに、他の大国が警戒していたのは本文中にもある通りです。
ロシア帝国は、プロイセン、ひいてはドイツ帝国がバルト海の出入り口を封鎖することを強く懸念しており、殿下がデンマークの王女であるダグマール姫と政略結婚をすることになったのも、この辺りに由来します。
この際、殿下を含め、ロシア側はデンマークの外交の杜撰さについて苦言を呈したりはしているのですが、ロシア帝国にとって海路を封鎖されることは絶対に避けたい事項であったので、デンマーク救済に動きました。
また、「51年の条約」は、恐らく「ロンドン議定書」を指していると想定されます。こちらは第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に関する条約で、ロシア帝国を含め、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセンなども承認しています。
最後に
通読お疲れ様で御座いました! 最終的に1万字程度に落ち着きました。
政治の話も書けて、個人的には満足致しました。
全然親しくもない、(当時は)左派の文筆家の記述とのことで、今回はかなり珍しいところを突いてみました。お楽しみ頂けていれば幸いです。誰が相手であろうと堕とすのはいつも通りの殿下でありました。
次は、また連載に立ち戻ろうと思っておりますので、そちらでお目に掛かることができれば嬉しいです。
それではお開きと致します。有り難う御座いました。