世界観警察

架空の世界を護るために

新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』二日目2019/10/3 - レビュー

 こんばんは、茅野です。

無限にオネーギン聴いてます。予習で聴いて本公演聴いて復習に聴いてるので無限に聴いてます。そういう訳で二日目公演お邪魔してきました~。

今日は音楽評論家の平岡拓也先生とご一緒してました。先生のレビューはここから連ツイになってますのでどうぞ↓

 

 席は一回後方(ほぼ最後列)の少し上手寄り。めっちゃ良い席じゃないですか?! U25凄い。感動した(はやい)。

それに、先生とご一緒出来てすぐに意見交換出来るっていうのが一番大きいんですけれどもね。特等席では……。ありがとうございます。

 わたくしもなんか、こう、頭良い感想書きたいものですね!(フラグ) うん、がんばります。

今回もガッツリネタバレ含みますので、ご容赦下さいませ。それでは始めまーす。

 

 当方の書いた初日のレビューはこちらから↓

sylphes.hatenablog.com

 

 

キャスト

エヴゲーニー・オネーギン:ワシリー・ラデューク

タチヤーナ・ラーリナ:エフゲニア・ムラーヴェワ

ヴラジーミル・レンスキー:パーヴェル・コルガーティン

オリガ・ラーリナ:鳥木弥生

グレーミン公爵:アレクセイ・ティホミーロフ

ラーリナ夫人:森山京

フィリピエヴナ:竹本節子

トリケ:升島唯博

大尉:細岡雅哉

ザレツキー:成田博之

指揮:アンドリー・ユルケヴィチ

合唱:新国立劇場合唱団

演奏:東京フィルハーモニー交響楽団

演出:ドミトリー・ベルトマン

 

第一幕 第一場

 オケなんですけど、今日は鳴りが弱いかなあっていう気がしました。新国立劇場ってオケピの高さを調節できるんですけど(ハイテク……)、そんなに低くしているようにも見えませんでしたが……。歌手陣もいいので、そこまで控えめに鳴らす必要ないんだけどな~、とおもいつつ……。

 

 二重唱。ターニャ、相変わらず声が澄んでいて非常にきれいです。ただ、重唱でも結構たっぷり溜める傾向があるので、オリガやオケとズレがちなのが微妙に気になるっちゃ気になるかも。オリガも声がよく響いて、寧ろターニャをかき消すまであるような印象でした。


 うーん、先唱、合唱共に昨日の方が調子よかった印象を受けました。初日がめっちゃ良かったという記憶が強いので、もしかしたら期待バイアス掛かってただけかもしれませんが……。あとバイニュやってください(2回目)

 

 今日観やすい席からしっかり観て、最初からオリガはオネーギン狙いなんだなってことがよくわかりました()。その解釈は面白いし、アリだとおもいます。余談ですが、初日一緒に来てくれた可愛い後輩(オペラ、オネーギン共に初見)は「オリガはレンスキーが好きなんじゃないんですか!? なんでですか!?」ってレンスキーに感情移入しまくってブチ切れてました()。演技として大成功だとおもいます()。

 

 今日は後方の席だったので、中央奥で何やっているのかがよく見えました。気になったのは、オネーギンとフィリピエヴナの動きです。

最後の歌唱が終わったあと、フィリピエヴナが既に主要人物が集まっている後方へと向かうのですが、そこで座っているオネーギンが立ち上がってフィリピエヴナに席を譲るんです。

 現代の感覚でいうと、「お年寄りに席を譲る好青年」みたいな目で見ちゃいそうなものですが、ちょっと待って下さい! フィリピエヴナは農奴、オネーギンは若旦那様です。時代考証的に言って、普通だったらちょっと有り得ないです。

でも、わたしちゃんとそれで解釈出来ないかちょっと考えてみたんですよ。つまり、オネーギンって自由主義者なわけでしょう。ということは、農奴解放というか、人権の尊重というか、人類皆平等みたいな思想を持っているわけじゃないですか。だからオネーギンは若旦那にして年老いた農奴に席を譲った、って考えられませんか? だからこそ、周りの地主貴族たちに「あいつは変人だ」って言われるのではないでしょうか? えっこれ、割といい読みじゃないですか?


 一番びっくりしたのは、ヤジです。はじめて日本の劇場でヤジ飛んでるの見ました。第一幕第一場が終わったときに、一階下手前方ですかね?(声の方角から、たぶん昨日わたしが居た辺りだとおもいます)から、「しっかり演奏しなさい!」なる叫びが聞こえました。劇場ではお静かに。

 

第一幕 第二場

 序曲。チェロがちょっとフライングしたのが気になりました。あそこの弦の響きは決まるとほんっっとうに気持ちいいので……。わたしはオネーギンの中で、というかチャイコフスキーの中でオネーギン第一幕第二場の序曲が一番美しいと思ってます……。めちゃめちゃ好きです……。ですので色々言いたいことも出てくるというもの()。「孤独の動機」の最高音のところはもうちょっと溜めて聴かせて欲しいかもです。切羽詰まりすぎな感じがします。


 フィリピエヴナなんですけど、毎度一番最初の出のところの音程が揺れている気がします。フィリピエヴナは語りのような台詞が多いし、特に第二場の入りは寝ているところから飛び起きて歌い始める、という演技付きなので難しいのはわかるのですが、やっぱりちょっと気になるかも。

ここでのフィリピエヴナの語りの冒頭は、

Ну, заболталась я! Пора уж, Таня!

まあ 喋りすぎてしまいました。お時間ですよ、お嬢様!

です。「喋りすぎた」って言ってるのに寝てるっていう()。寝ぼけてるという設定だとおもうんですけど、面白いなぁっておもってます。フィリピエヴナのボケ具合? はこの演出が一番かもしれません。

 

手紙の場。

 恒例の細かすぎて伝わってるのかとても不安選手権はじまります。今回、ここの音程が凄いブレてたのが気になったのがまず一点。

f:id:sylphes:20191004011443p:plain↑書きかけの手紙を破り捨てるところ

 

 で、問題の轟音ですよ。上手窓からの扇風機……。正直 め ちゃ め ちゃ うるさいです。こればっかりは早急に改善すべきでしょう。誰も得しません。初日も、今日も、同行者も他の観客の声を聞いても、もう十人が十人「うるさい、気になる」って言ってるのでマジで直した方がいいとおもいます。

 しかもよりによって一番盛り上がるところですからね! そんな訳ですから、オケもガンガン鳴らしてくる訳ですよ。扇風機の轟音+オケの爆音で全然聴こえません。

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↑「考えてもみてください! わたしはここにたった独り!」

 きょう、「手紙の場、点数付けるとしたら100点満点中、何点?」という質問を頂いたのですが、「(歌手が悪いわけじゃないけど)この一番の魅せ場が全然聴こえなかったので、最高点70点スタートです」とお答えしました……。

 

 又、オネーギンのアリアもなんですけど、アリアの一番最後はもうちょっと強く聴かせてくれてもいいかなっておもいます。手紙のアリアの場合、最後は消え入るように歌う人も多いんですが(松本のネチャーエヴァ氏もそうでしたね)、わたし個人としては力強いほうが好みっていうのと()、手紙のアリアの場合は最後めっちゃオケが激しくなるので聴こえないという問題があるのです。

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↑この譜面を見て頂ければ一目瞭然でしょう。上段に金管もいますからね。

 

第一幕 第三場

 オネーギンのアリア。

オネーギン、声いいんですよ。聴かせどころはしっかり聴かせてくれるし、よく響くんですけど、なんかその響きがピンポイント過ぎる気もするんですよね。全体的にもっと鳴らしてきてほしいです。いや、アリオーソとか、終幕とか、めちゃめちゃいいんですけど、あのフルパワーをアリアでも聴きたい。最初から全力でかっ飛ばすのは大変だとおもうんですけど(特にオネーギンはタイトルロールで出ずっぱりですし)、でもあの美しい響きを恒常的に堪能したいので頑張って欲しい。あの響きを味わいたいです。すきです。

 

 これ完全に余談なんですけど、予習に、っておもってベルトマン演出の2016年のものをちょっと見てたんですよ。で、見て下さいよこのオネーギンの表情!ww

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↑「え、何コイツ……(ドン引き)」って顔

 ラデューク氏のオネーギンもこんなかんじです!() (写真上がってないので比較出来ませんけど)。

この演出、オネーギンのアリアの時のターニャ圧倒的に夢ボケしてますからね……。

 

第二幕 第一場

 序曲。ワルツは凄いアップテンポです。それは全然良いんですけど、金管がついて行けてないのでもうちょっとスピードダウンしてもよいのでは? とおもわなくもない。

f:id:sylphes:20191004015026p:plain

↑ここ。なんか凄いわかりづらい気がするんですけど伝わります?

 オネーギンがオリガをダンスに誘うときの、

Прошу вас!

一緒に踊って頂けますか?

は、大西宇宙さん最強説なんですよね……。ここ絶対優しく語りかけるべきなんだって~! ラデューク氏はここかなり怒り気味に言っていて、その言い方じゃオリガもビビっちゃうよ~! って毎度思ってます。まあ結構ここ怒り気味に行っちゃう人多いんですけどね……。わたし対オリガ台詞の大西オネーギンのファンなんですよね……。

 オネーギンがオリガを誘う、

Прошу вас!

(一緒に)踊って頂けますか?

の紳士感やばくないですか。結構ここでその前の独白の怒りを含んだままいっちゃう人多いんですけど、大西氏のオネーギンはとにかくオリガに話かける時は紳士なんですよね……。

↑これは松本のオネーギンでここの話をしたときのもののコピペです。

 

 トリケのクプレ、一番全部ロシア語でしたね~! きょうはしっかり追えました。わたしはロシア語出来ないんで、まさかディクテーションまでは無理でしたけど。

 それにしても、ぶっ倒れるの上手すぎませんか? プロか?(プロです)。当方中高時代演劇部だったので真面目に尊敬します……。

 

 オネーギンとレンスキーのオリガを巡っての掛け合いでの、レンスキーの

Со мной? Ничего.

僕が? 別に……

がめっっちゃめちゃよかったんですけど、わかります??? いやたぶん今日聴いてた人わかってくれると思うんですけど、「いやそんなまた細かいこと言って……」ってお思いかもしれませんが、なんか知らないけどここが一番声出てたんだって。レンスキーのアリアより出てたまである、この一言。仰け反った。真剣に共感を得たい。


 巷で「吉本新喜劇」と言われている群衆の動き()。いや、正直わたし「吉本新喜劇」がどんなかんじかよく知らないのでピンと来てないんですけど(カミングアウト)。

やりたいことは伝わるんですよ。田舎の下品な感じとか、視線を誘導させたいこととか、わかるんですけど、新国合唱団の演技のレベルが高すぎて逆に違和感っていう……。ぴたっと止まるときはぴたっと止まる、という演技やダンスで最も難しい「静止」が美しいので、なんか、ちょっと……不思議なかんじしますよね。うん。

 それにしても、なんで一番最後は這いつくばっちゃうんだろう。「田舎の下品な感じ」とはいえ、彼ら、一応貴族のはずなんだけどな……。

 

第二幕 第二場

 レンスキーのアリアはめっちゃいいんですよ。ほんとに。その分、音楽以外のところが気になっちゃうんですよね。ちょっと勿体ないっていうか。

まず、冒頭の

Куда, куда, куда вы удалились,
Весны моей златые дни?

どこへ どこへ去ったのか

我が青春の黄金の日々よ

なんですけど、 дни?の辺りから手で顔を覆い始めてしまうので、声が篭もっちゃってます。ここの高音めちゃくちゃ綺麗だし、歌は最高なので、勿体ない。もっと後方まで声届けて欲しいです。

 

 あと、歌い終わりのところなんですけど、レンスキーが嗚咽するんですが、なんか今日改めて聞いてみて、それは要らないんじゃないかな~っておもいました。いや、シーン的に正しいと思いますし、演技の解釈として何も間違ってないんですけど、幾分レンスキーのアリアの最後の音楽がめちゃくちゃ綺麗なんですよ。だから雑音無しで聴きたいんですよね。しかも旋律がアリアと同じじゃないですか。音楽的余韻ってものがあるんですよここには。この美しすぎる余韻を楽しみたいので、嗚咽は邪魔かなって思う次第です。

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↑譜面だけでも(たぶん)わかる美しさ!

 

 問題のトリケ先生です。長くなっちゃったので、どうでもいい人は読み飛ばしてください。

一応、わたしなりにちょっと考えてみたんですよ。ここでトリケが出て来る意義について。

 まず、時代考証的側面から検討しましょう。ここでトリケが徴用されている一番の理由としては、「オネーギンが決闘のルールを守っていないということを強調したい」だとおもうんですよね。さて、オネーギンは、原作やオペラの歌詞を見てみると、自身の召使いであるムッシュー・ギヨーを介添人に選んでいます。これはもう既に「オネーギンが決闘のルールを守っていない」ことを示しています。一応確認しますが、ここでの「ルール」とは、「介添人は同じ貴族でなくてはならない」ということです。

確かに、このルールについては歌詞でも一行分くらいしか出てこないので、帝政ロシア文化をわかっていないと分かりづらいかとは思います。ですので、「強調したい」という思惑は成功していると思います

 次に、物語解釈の側面から検討します。何故オネーギンはムッシュー・ギヨーを介添人に選んだのでしょうか。まあ、先程の「決闘をやる気がそもそもない」というのが一番でしょう。それから、これは推測になりますが、わたしはもう一つ理由があると考えています。それは、「この決闘沙汰を大事にしたくない」というオネーギンの意図です。オペラはともかく、原作では当時の決闘規範に則り、レンスキーは後日手紙でオネーギンに果たし状を送りつけています。つまり、この決闘は本来レンスキー、オネーギン、ザレツキーしか知り得ないのです。オネーギンはそもそもやる気がない決闘に、更に他人を巻き込みたくなかったのではないでしょうか。だからこそ、わたしはオネーギンが身内のムッシュー・ギヨーを選んだのでは無いかと考えています。

 最後に、「何故トリケか」、です。正直言うと、わたしは不自然だと考えています。上記2つの理由もそうですが、一番はなんといっても第二幕第一場の台詞、

ОЛЬГА: Глядите-ка!
              Все барышни идут сюда с Triquet.

オリガ「見て! 女の子たちがトリケさんと一緒に居るわ」

ОНЕГИН: Кто он?

オネーギン「誰?」

ОЛЬГА: Француз, живет у Харликова.

オリガ「フランス人よ、ハルリコフさんのところの……」

です。オネーギンとムッシュー・トリケは、ターニャの名の日の祝いが初対面であることがここで示されます。そして、決闘はこの名の日の祝いの一日半後(27日早朝)ですから、この日の後に彼らが仲良くなる期間というのはほぼゼロと言って良い。

一曲詠い、酔っ払って倒れた人物をオネーギンがそんなに信頼するものでしょうか? 寧ろ、オネーギンとトリケは一言も言葉を交わしていない可能性が高いです。

オネーギンは本気ではないとはいえ、一応命を賭けた勝負を挑むときに、ほぼ初対面のふざけた男を介添人に選ぶでしょうか? 介添人というのは、沢山の仕事があります

まず、力の限り和平を目指して仲介することです。この演出のトリケは、間違ってもザレツキーと議論出来ないんじゃないでしょうか。本来なら、舞台化されていないところで、武器種やら、銃だとして何歩の距離で撃ち合うかとか、そういうことを決めているのです。当演出のトリケには過ぎた仕事ではないでしょうか。

次に、もしものことがあった場合の対処です。決闘には医者が同行することが多かったのですが、オネーギンの場合は医者は同行しませんね。その場合は、決闘で軽重に関わらず怪我をした場合は医者を呼びに行ったりする役目があります。

そして、守秘義務です。そもそも、帝政ロシア(というか欧州全体)では、当時決闘をやりまくっていたわけですが、こちら、当然違法でございます。決闘を行ったことが皇帝政府にバレると、仕事は左遷、酷い場合は戦地やシベリアに送られたりします。介添人に貴族を選ぶ理由は、何よりもこの守秘義務を守らせることにあります。それに、勿論介添人になったことがバレたら介添人も罰せられるわけですし。トリケに、その覚悟があるようには思えないんですよね。特にこのオペラ・オネーギンの場合、ほぼ決闘沙汰は公になっているわけですし、トリケ自身に介添人を引き受けるインセンティヴが全くない。というか、もっと言うと、雇い人のハルリコフさんが怒りそう()。

 最後に、演出という側面から見たわたしの主観です。わかりますよ、先程も述べましたが、「オネーギンが決闘規範を遵守する気がないということの強調」、「敢えてシリアスな場にコミカルな人物を投げ込むことで生まれるレンスキーの悲愴の強調」という意図があるのは大いにわかります。しかし、なんだろう、コレジャナイ感すごいんですよね。もっと他にやり方あったんじゃないかなあっておもってしまいます。

恐らく、一番そう思わせる原因として、音楽と合ってないことが一番じゃないかとおもいます。トリケがステップを踏むところとか、確かに音楽的にはかわいいです。

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↑ここのフルートですよね。

でも、基本的に第二幕第二場の音楽は下降旋律で、低音で、重たくて、メランコリックで、チャイコフスキーが悲劇的に描きたかったことは明白です。そこに敢えて……っていうのがたぶん、最大の違和感の原因なんじゃないでしょうか。

 以上の理由から、わたしはトリケが介添人になっていることに関しては疑問を覚えます。皆様はどうお考えでしょうか。是非お聞かせ下さい。議論も大歓迎です。

 

第三幕 第一場

 ポロネーズ、よい(語彙ゼロ)。アップテンポで。やっぱりたまに金管がちょっと危ないところあるきがするけど。

これは初日の同行者の感想ですが、ここでのダンスの動きが結構不思議なので、「あれはどういう意味なの?」って訊かれました。「知らん」とお答えしました(潔い)()。まあ、パンフレットとかを読み合わせるに、「オネーギンが帝都の社交界に馴染めない」ってことを強調するためにわざとよくわからん動きにしてるみたいですけど。いや、わたしはまあ良いんじゃ無いかなっておもいますけどね……カーセン演出のカクカクした動きとかも結構不思議ですからね……いっそのことダンサー使っちゃってもいいような気もしますけど……。


 第三幕第一場のダイジェスト:ターニャ先生、まさかの「エヴゲーニー!」を噛む。

えっ、Ев、でちょっと噛んで言い直しましたよね? わたし、ここで原作通り毅然として振る舞うのか、声の震えは抑えられないという解釈なのか、毎度楽しみに観てるのでズッコケましたよ!() がんばって~。ここの検証のお楽しみはまた6日に、ということになりました()。


 グレーミン公爵のアリア、安定していていいですね。いやもう文句つけるところとか全然ないです。ただ、舞台上の動きが少ないので音楽だけで持たせるのはちょっと大変そうかなって思いました。これ歌手のせいじゃないですけど。

ここでのグレーミン公爵がタチヤーナを凝視している問題、初日某音楽評論家の方と議論になったのですが、曰く、「グレーミン公爵がタチヤーナの浮気を疑っているのではないか?」という示唆を頂きました。なるほど! それは面白いかもしれないです。

だとすると、この舞台の後の後日談としては、「フランチェスカ・ダ・リミニ」ルートに突入しそうですね。わたしは原作の非常に気になる終わり方から、グレーミン公爵とオネーギンが鉢合わせたときにどういう結末を辿るのかっていうのを検討して遊ぶのが好きなんですけど、この解釈だとフランチェスカ・ダ・リミニ風になるのかな~っておもいました。バレエ・クランコ版では最後の二重唱にあたる部分がこの曲ですしね。

 個人的には、特に原作は、グレーミン公爵とオネーギンの仲がよいので、「ドルジェル伯の舞踏会」ルートになるんじゃないかな~っておもってたりします。個人的有力候補です。まあちょっと話が逸れすぎなので、この件については今度別記事で纏めましょう。

 

 オネーギンのアリオーソ。とてもよいです! オネーギンソロ、めちゃめちゃいいですね。特に盛り上がる場所を把握していて、メリハリついているのがいいです。……なんですけど、アリアの時にも述べましたが、メリハリもいいんですが折角綺麗なのでもっと全体的に響かせてもよいんじゃないかと……。

 

 細かいですが(今更)、最後初日と違って皇帝の肖像にお辞儀しなかったですね。連続した公演はこういうところの差異を見つけるのが何よりも楽しい。

 

第三幕 第二場

 二重唱。やっぱりターニャの声が軽いな~~~と改めて思いました。めっちゃ声は綺麗なのに嵌まり役じゃないからちょっとな~という評価になってしまうの、歌劇難しすぎるな……と。綺麗なんですけどね~~~……。

 

 ジャムにビビって逃げるオネーギンさん、完全にトラウマ化してて笑います()。今回の演出、とにかくジャムを多用するんですけど、なんでなんですかね。いや、いいんですけど……。物語を貫く重要食べ物になってます。良い宣伝になっている気がするのでグッズ展開しましょう!(?)


 最後、夢ボケ状態に戻った(?)ターニャはオネーギンにキスしてから立ち去ります。まさかのネトレプコスタイルです。いや、これ結構賛否両論だったので……(というかわたしの把握している範囲では否が圧倒的に多い)。でも、この演出では凄く合ってるんじゃないかなっておもいます! ターニャがオネーギンのことまだ愛しているのよくわかりますし……。

 逆に、ターニャが第一幕で夢ボケをキメているせいで、オネーギンが「幸福は手が届くところにあったのに……」って歌うのが不自然なくらいです。

いや、この話長くなるので辞めたいんですけど、わたしそもそもオネーギンがこの台詞を歌うの解釈違いなんですよね(原作にはオネーギンがこう思ったという描写はなく、タチヤーナの返答の台詞にチャイコフスキーが二重唱として同じ言葉を重ねている)。オネーギンさん、絶対そんなこと思ってないですもん。だって考えてみてください、あの時オネーギンがタチヤーナの求愛を受け入れていたらどうなっていたか? 彼自身が言っているじゃないですか、上手くいかない理由を。あの手紙に好意を持つような描写もありますから、全面的にターニャを嫌っているわけじゃないっていうのはその通りなんですけど、逆に全面的に虚栄心からだったわけでもないとおもうんです。そう考えると、あのアリアの内容というのは何かを隠して濁しているのではなくて、割と本心のことばなんじゃないかなっておもうわけです。最初から乗り気じゃない人間が、どうして幸せを掴めたというのでしょうか。まあでも、それオペラの歌詞になっちゃってる時点でしょうがないので、ちょっとモヤモヤを抱えつつ、黙りたいとおもいます。


 初日の記事でも書きましたが、やっぱり最後のオネーギンの独白めちゃくちゃ気持ちいいです!! 最高。これがあるからスッキリ終われる。胸の奥底まで響く感じがします。マジで素敵です。この最後の台詞を聴きに来て。

 

最後に

 通読お疲れ様でした~~!! 二日目はこんなかんじで許して頂けますか!

驚いて下さい、そろそろ1万字なんですよ。我ながらよく書いたなって感じなんですけど、皆様もよく読んで下さったなってかんじです。ありがとうございます。

 今回は、演出の解釈をベースに感想を細々と書いてみました。わたしはただのアマチュア門外漢限界オタクですので、当たり前ですがわたしの意見が必ずしも正しいとは限りませんし、それぞれ受け取り方も違うとおもいます。ですので、異論は大歓迎ですし、議論好きなので是非ぶつけて欲しいです。でも、ちょっと解釈の咀嚼に困ったときに何かしらの参考になればよいな~とはおもってます。

それでは、一旦締めたいとおもいます。次は6日に!