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映画『星の王子さまと私』(2015) - レビュー

 こんばんは、茅野です。

最近は『星の王子さま』マラソン(=派生作品全履修)の構えです。昨年はドストエフスキーの『罪と罰』で同じことをしていました。普段はマイナー作品にばかり慣れ親しんでいるわたくしですが、一度本腰を入れて勉強しようと構えると、有名作品も怖くない。きっと!

↑ 関連記事一覧。

 

 というわけで、今回は映画です。2015年に公開されたアニメーション映画『星の王子さまと私(原題: Le Petit Prince)』について一筆やりたいと思います

多大なネタバレを含むので、ご留意下さいませ。それではお付き合いの程、宜しくお願い致します。

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スタッフ

監督: マーク・オズボーン

脚本: イリーナ・ブリヌル

音楽: ハンス・ジマーリチャード・ハーヴェイ

キャラクター・デザイン: ピーター・デ・セヴ 
美術: ルー・ロマーノ

 

あらすじ

 いま、9歳の女の子が、星の王子さまに会いに行く——
よい学校に入るため、友だちもつくらず勉強漬けの毎日を送る9歳の女の子。名門校の学区内に引っ越してきたが、隣には風変わりなおじいさんが住んでいた。ある日、隣から飛んできた紙飛行機が気になって中をあけると、そこ書かれていたのは、小さな王子の物語。話の続きが知りたくてたまらず、女の子は隣家を訪ねた。王子の話を聞き、一緒に時を過ごすうちに、二人はかけがえのない友だちになっていく。しかし、ある日、おじいさんが病に倒れてしまう。女の子は、もう一度王子に会いたいと言っていた彼のために、プロペラ機に乗って、王子を探す旅に出た——!

                           (公式サイトより引用)

 

グラフィック

 まずは美点から。原作の挿絵を立体化させたかのような、原作パートのアニメーションは大変美しいです! 

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↑ 王子、ちんまりとしていてかわいい。

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↑ 雰囲気最高では……?

この絵柄で原作に忠実な短編映画だったら、もう120点だったんですが……。

 

 一方、「私」サイドの方は、最近のディズニー映画などでお馴染みのタッチです。

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↑ 結構好き嫌い別れるんじゃないでしょうか。慣れもあるかもしれませんね。

 

音楽

 映画音楽らしくドラマティックな展開もありますが、歌曲はカミーユ氏の少し気怠げでポップ調な音楽が愛らしいです。作中の音声は英語ですが、主題歌などはフランス語なのも嬉しいところ。少し前のフレンチ・ポップという趣きで、可愛いです。

 尤も、原作の持つミステリアスさのようなものは足りないような気もします。

 

ストーリー

 さて、最大の問題点と申しますか、最も重要な点について述べます。

映画『星の王子さまと私』は、恐らくサン=テックス(原作の「私」)がモデルと思われる飛行士と、教育ママの元で育つ勉強漬けの「女の子」を中心とした現代社会を描いた物語と、飛行士が過去の体験を元に書いた児童文学『星の王子様』(原作)が同時に展開する構成を取っています。

 原作と、それを受容する現代社会、という対比はよいと思いますし、皆が考える題材であると思います。それを踏まえ、わたくしからは3点、この映画に於ける問題点を指摘したいと思います。

 

星の王子さま』である必然性

 まず抱いた疑問は、「この物語のベースが『星の王子さま』である必然性」です。この映画に於ける核となるメッセージ性は、味気ない現代社会への糾弾にありますが、それは何も『星の王子さま』の名前を借りなくても描けることです。そして何より、「どこかで見たことあるような……」という既視感、二番煎じ感を受けます。

 

 例えば、『Mosaic』というノルウェーのゲームがありますが、こちらは正に同じメッセージ性を持ちます。規則で雁字搦めになったモノクロの世界を生きるサラリーマンが、自分が昔大好きだったギターを始めとする芸術や人の心の温かさに触れていき、自分と自由を取り戻していく、シンプルながらアーティスティックな作品です。

↑ レビュー記事。サクッと遊べて満足感が高いです。オススメ。

 このように、『星の王子さま』というビッグタイトルにもたれ掛からずとも成功している作品が存在している中、『星の王子さま』とこの主題を繋げる必然性、有名作品を笠に着た安易な現代社会批判には疑問が残ります。「この世界中で愛される大人気文学を組み込めば、売れるだろう」というような作り自体が、作中で批判しているはずのビジネスマンと同様の思考回路であると言うことができ、手の込んだ皮肉なのだろうか、と穿った思考をしてしまいます。

 

「大人になった王子さま」という使い古された題材

 二点目に移ります。「大人になった星の王子さま」という題材は、新規性があるわけではありません。寧ろ、多くの読者が考えてきた問題なのではないでしょうか。

 日本が誇る文豪、寺山修司もその一人です。映画『星の王子さまと私』では、大人になった王子さまは所謂3K労働(キツい・汚い・危険)である、高層ビルの屋上の清掃員をしています。一方、この映画よりも約50年も前に書かれた寺山修司版の戯曲『星の王子さま』では、以下のような記述が見られます。

だが、星の王子さまの大人になってしまった無残な姿はあちこちに見出される。浅草の銭湯の番台や、自衛隊宿舎や、大学の共闘会議や、ゲイバーの片隅に。

このように、「大人になった星の王子さまは、その空想的な理想を持つが故に、現代社会に全く溶け込むことができず、社会的地位を確立できないのではないか」という発想は、使い古された考えであり、新規性が全くないと言えます。

↑ 寺山版について考える記事。

 

 又、個人的には、原作『星の王子さま』の魅力の大きな一つは、「最後に王子さまがどうなったのか描写されないこと」にあると思っています。これは文学史研究の世界では「ローマン・インガルデンの不確定性」などと呼ばれる議論に結びつく問題で、個人的にも関心のある分野なのですが、映画『星の王子さまと私』では、王子さまの「その後」を描くことにより、原作が持つ独特の神秘性、ミステリアスさを全く蔑ろにしてしまっています。

著作権団体が認可したヒット映画」という「権威」が、一つの解答を示してしまうことにより、それこそサン=テックスが原作で重要性を強調した、読者 / 観客の想像力というものが損なわれるのでは無いか、と危惧してしまいます。

 

何も解決していない結末

 最後に、結末についてです。寺山修司は、自身の戯曲で、「原作『星の王子さま』は、夢を見てばかり、汚いものから目を背けてばかりで、汚れた現実と折り合いを付けようとしない」ことを批判しています。

映画『星の王子さまと私』では、大人になった王子さまが労働をする姿が描かれますが、その結末は首肯できるものではありません。彼が主張するのは、「童心に返ること」であり、それに伴って姿も子供のものに戻ってゆきます。又、「バラの元へ帰る」と言えば響きはいいですが、実際には「仕事をほっぽり出して自分の星へ帰って」いるわけです。これが、「現実逃避」「幼児退行」でなくて、何だと言うのでしょうか? 全く解決策は示されて居らず、寧ろ退行している、そのことを肯定的に捉えろ、と主張されても、首を傾げるばかりです。

 

総評

 ストーリーについては疑問が残る点が多く、個人的には評価することはできませんが、前述の通り、原作パートのアニメーションは大変愛らしいです。そこだけで必要充分であると感じます。逆に、原作のアニメーションと音楽だけであったなら、とても高い評価を得ただろうと感じました。

 

最後に

 通読ありがとうございました。3000字強です。

随分辛口評価となってしまいましたが、あくまで個人の見解でありますので、各自抱いた印象を大切にして頂ければと思います。

 それではお開きとさせて頂きます。ありがとうございました。