こんばんは、茅野です。
先日の World Ballet Day (WBD) で、シュトゥットガルト・バレエさんの『オネーギン』を堪能し、やはりこの作品が至高だな……と改めて感じました。
↑ レビュー記事。相変わらず無駄に細かい。
さて、わたくしがこの「世界観警察」なるブログを立ち上げてから5年弱。はてなブログさんには大変お世話になっております。そんなはてなブログさんが10周年ということで、初めて「お題記事」に挑戦したいと思います。
こちらは定期的にはてなブログ公式さんが「このようなお題で書きませんか」と提案して下さるものなのですが、今までは自分で決めた書きたい内容に溢れているものですから、悉くスルーしておりました。しかし、今回は特別企画ということで、フォローしている先生方が書いていたり、このお題の中で弊ブログに言及して下さった方がいらっしゃったので、珍しくやる気になりまして。
お題は四つあり、「好きな◯◯10選」、「はてなブロガーに10の質問」、「10年で変わったこと・変わらなかったこと」、「私が◯◯にハマる10の理由」です。この中から最も書きやすいもの、それは勿論、オタク語りに他なりませんね。
というわけで今回は、はてなブログ10周年特別お題「私が◯◯にハマる10の理由」から、「私が «オネーギン» にハマる10の理由」を書いていこうと思います。1オタクの推し作品語りであるに同時に、『オネーギン』についてまだよく知らない方に魅力が伝われば良いなと思っています。もちろん、同志には共感を賜れれば幸いです。
それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します。
『エヴゲーニー・オネーギン』
弊ブログをご存じの方ならこちらも百もご承知でしょうが、『エヴゲーニー・オネーギン』はロシアの詩聖アレクサンドル・プーシキンの手になる韻文小説です。そこから派生した、チャイコフスキーによるオペラ(叙情的情景)版、ジョン・クランコによるバレエ版などもあります。
↑ オペラ版、バレエ版の簡単な解説。
わたしはこの原作、オペラ版、バレエ版を分け隔て無く愛好しており、それぞれ各分野の最高傑作だと確信しています。同題の好きな作品が複数ある状態で、それがこの作品への愛を更に特別なものにしています。謂わば、単純に他の作品の3倍好き、という状態なのです。
『オネーギン』という題が指し示すものとして、この三つを切り離すことはできません。従って、今回は、「10の理由」を挙げなければならないので、原作より3つ、オペラより3つ、バレエより3つ、最後に総括1つ、この作品を愛好する理由を述べたいと思います。
1. 風俗描写がいい!
まずは原作から。原作の素晴らしいところはもう数え切れないほどありますが、今回は「私が好きな理由」という主観的な感想でも許されるのが有り難いところです。
原作『エヴゲーニー・オネーギン』は、評論家ヴィッサリオン・ベリンスキーが「ロシア生活のエンサイクロペディア」と評したほど、1820年代の帝政ロシアが細かく、そして美しく描写されています。こちらはメインストーリーだけを追う舞台では味わえない、原作ならではの魅力です。
手元に『オネーギン』さえあれば、急に何かの間違いで帝政ロシアにタイムスリップしてしまっても大丈夫です。そのとき、あなたが都会に飛ばされようと、田舎に飛ばされようと、貴族であろうと、農奴であろうと、この一冊が助けてくれるでしょう。
朝は何の音で目覚めるか? 牛乳はどこで買えば良いのか? 人々から愛される振る舞い方は? 流行の本は、ファッションは? 客人が来たときに皿を出す順番は? 酒蔵に貯蔵すべきワインの銘柄は? 能の無い農奴はどのような折檻を受かるのか?……すべてこの作品が教えてくれます。
「世界観警察」なるブログ名からも察せられる通り、わたしはキャラクターなどよりも、「世界そのもの」を愛好するオタクです。『オネーギン』を通して、1820年代の帝政ロシアそのものに恋しました。確かに、帝政ロシアは政治的に抑圧されており、人権意識もなく、住み心地の良い土地とは言い難いかもしれません。しかし、プーシキンが賞揚し、描写する帝政ロシアの美しさには、時代や地域、価値観を越えて魅了されます。これは、「国民詩人」として素晴らしい業績なのではないでしょうか。少なくとも、その筆に心底魅せられたオタクがいいます。ここに。
2. 韻律がいい!
この作品のとんでもないところは、言わずもがな、韻です。ほんの少しだけ専門的なことを述べますね。
『エヴゲーニー・オネーギン』は、「14行四脚弱強格」という韻律で書かれています。噛み砕いて言うと、1スタンザ(塊)が14行からなっていて、行末で韻を踏んでいるのです。14行の行末は、「aBaB/ccDD/eFFe/GG」という形になっています。わかりづらいとおもうので、試しに1スタンザ見てみましょう。
«Мой дядя самых честных правил,
Когда не в шутку занемог,
Он уважать себя заставил
И лучше выдумать не мог.
Его пример другим наука;
Но, боже мой, какая скука
С больным сидеть и день и ночь,
Не отходя ни шагу прочь!
Какое низкое коварство
Полуживого забавлять,
Ему подушки поправлять,
Печально подносить лекарство,
Вздыхать и думать про себя:
Когда же черт возьмет тебя!»
「aBaB/ccDD/eFFe/GG」の意味、お分かり頂けたでしょうか。ロシア語とご縁がなくても、同じ色で強調した部分が全く同じだということは明白でしょう。
このうち、小文字のa, c, e は「女性韻」で、 B, D, F, G が「男性韻」と呼ばれています。女性韻とは、簡単に言うと、行の最後から2つ目の音節(母音)にアクセントがあるもので、男性韻は行の最後の音節(母音)にアクセントがあるものです。つまり、例えば、 a であれば、アクセントは пр"а"вил、заст"а"вил に、B であれば、занем"о"г、 не м"о"г にアクセントがある、というわけです。
この韻律が、「タチヤーナの手紙」などのごく一部の例外を除いて、この作品を通じてずっと続くのです! 丸々文庫本一冊分、全てです!! これがどれほどの偉業であることか! 日本語話者向けにわかりやすく例えるなら、字余りや字足らずすら許されず、全て5・7・5で小説を一本書くようなものです。
翻訳されてしまうと、非常に勿体ないことに、この「偉業」が全く伝わらなくなってしまいます。しかし、これは他の追随を許さない、恐ろしく精密で、高度な技術の結晶なのです。何度読んでも、恐ろしい作品だなと感じます。
3. ストーリーがいい!
美しい韻律に乗せ、雄大なロシアの文化と社会を詠う『エヴゲーニー・オネーギン』。この時点で大盤振る舞いなのに、それだけではありません。更なる魅力がまだあります。ストーリーです。
『オネーギン』のストーリーは、「余計者小説」と呼ばれる物語群に分類されます。主人公の青年貴族オネーギンは、教育を受け、才能がありながらも、それを世の役に立てることなく、所謂「高等遊民」として、無為な日々を送っています。このことが、当時帝政ロシアでは社会問題となっていました。『オネーギン』は、前述のように当時の文化社会を克明に描写した作品ですから、この問題を取り上げたわけです。
主人公オネーギンは、特にオペラ版やバレエ版のファンから、よく「いやなやつ」だと言われてしまいます。果たしてほんとうにそうなのでしょうか?
このことについては、過去に詳しく取り上げていますし、オネーギンのような境遇の人が幸福を感じるためには? ということを考えたこともあります。
↑ オネーギンはほんとうにイヤな奴なのか? ということを様々な角度から考察します。
↑ 才能や金銭に恵まれた人は、本当に「幸福」なのか? について考えます。
結論から言わせて貰えば、わたしの考えでは、オネーギンさんこそ当時の情勢に最も翻弄された被害者である、と言えると思っています。勿論、悪意はなかったにせよ、純情な乙女の心を傷つけたり、殺意はなかったにせよ、親友を殺害した彼が、一人被害者面をすることは許されません。しかしながら、彼をスカルピアやロットバルトのように扱うことには反対します。
それと同様に、ヒロインのタチヤーナを聖女のように崇めたり、詩人レンスキーを悲劇の英雄のように仕立てることにもわたしは反対です。
何が言いたいのかと言うと、『オネーギン』は地に足の付いた、現実的な日常の情景を描写したものだ、ということです。登場人物は皆、根からの悪人でもないし、聖人君子でもありません。自分の能力を少し鼻に掛けるお茶目さがあり、皮肉っぽい冗談を飛ばしてみたり、ちょっかいを出されれば腹を立て、恋心を拒絶されれば傷つき、時には自分の選択に後悔し、涙を流す、そんな等身大の人物が描写されていること、そのすれ違い、それがこの物語の魅力だと思っています。
4. チャイコフスキーの音楽がいい!
まだまだ原作の魅力を語りたいところではありますが、次いでオペラ版について述べたいと思います。
オペラ版、何が良いって、当たり前に、音楽ですよ! これがなければ始まりません。なんと芳醇でふくよかな響きでしょう! なんと耳に残る、官能的で鮮やかな旋律でしょうか! これが傑作でないのなら、何が傑作なんですか!?
当然、全曲を通して満遍なく愛していますが、特にチャイコフスキーらしい甘く切ない旋律が美しい第1幕第2場序曲は傑出しています。いやもう何でも良いので取り敢えず聴いて下さい。譜面付きの動画を出しておくので、譜面も見て下さい。
↑ 聴いたことがある方もない方も、数分でいいのでお付き合い下さい!
何度聴いても飽きません。寧ろ、一向に飽きる気配がなさすぎて困るくらいに飽きません。もう何百何千聴いたか全然わかりません。
わたしは収集癖もあるオタクなので、古いものから新しいもの、果てはロシア語以外の歌唱のものなど、色々な音源を集めていますが(全曲版は現在15種類ほど、抜粋版も含めるともう少し手元にあります)、勿論演奏や録音の質の善し悪しはあるものの、どれも解釈が違って、聴く度に新たな発見があります。
わたしが『オネーギン』を知ったのは高校一年の2月半ばです。当時は国際高校の英語科に在籍していたので、翌月からアメリカ研修に飛ばされ、テネシー州で過ごしていたのですが、アメリカで空いた時間、文字通り延ッ々オペラ版を聴いていたことが思い返されます。アメリカでロシア・オペラを聴くとはこれ如何に……という感じですが、わたしは生まれも育ちも東京のコンクリートジャングルなので、テネシー州のほんとになんにもない広大な自然と、『オネーギン』第一幕の風景を重ね合わせていたものです。
一部の音楽評論家に言わせると、「チャイコフスキーはオペラよりも断然バレエ」「『オネーギン』は地味」「オペラを彼の最高傑作だと言う人はまずいないだろう」などと酷評されることが多いこともまた事実。とんでもない! 何を言っているのですか? 何を聴いているのですか?? 彼らはきっと、チャイコフスキー自身が、己の作品について、「自分の最高傑作は『スペードの女王』、『眠りの森の美女』、そして『エヴゲーニー・オネーギン』だ」と述べていることを知らないのでしょうね。
ちなみに、便宜的に「オペラ版」と呼びますが、チャイコフスキー作曲の『エヴゲーニー・オネーギン』は、作曲者によれば、「叙情的情景」と呼ばれています。これは、当時チャイコフスキーが、ヴェルディの『アイーダ』のようなスペクタクルに満ちた「超大作」を嫌い、もっと身近で、慎ましいものを描きたい、という願いから名付けられたものでした。その意味では、素晴らしい題材を選んだものだな、と思います。
5. リブレットがいい!
オペラの話を続けます。『オネーギン』のリブレットは、作曲家チャイコフスキー自身と、コンスタンティン・シロフスキーの手になる、と言われています。実は、後者のシロフスキーがどこまで助力したのか、そして彼がどのような人物なのか、ということはほとんど知られていませんし、研究者の間でも意見が分かれています。
『オネーギン』の歌詞は、ほぼそっくりそのまま原作を使っていることが特徴です。無論、たとえば、「彼は○○だと思っていた」という原文を、「僕は○○だと思う!」という台詞にするような形で、大半が台詞に合うような改変自体は為されています。勿論、舞台映えするように改変した点、付け足した点、削った点もあります。しかしながら、見比べてみると、驚くほど原作に忠実であることがわかります。これには原作オタクもニッコリです。「タチヤーナの手紙」などに至っては、一字一句そのまま使われています。
現代のポップスなどではその傾向も薄れてしまっていますが、歌詞は、その字からもわかるように、「詩」です。オペラの歌詞も、仮に原作が散文小説だったとしても、基本的には韻を踏むよう書き直されています。
前述のように、原作の『オネーギン』は恐ろしく精巧な作品で、見事に脚韻が踏まれています。それを踏襲しない手はありません。チャイコフスキーは、この韻にぴたりと当て嵌り、それが生きる音楽を付けました。
また、他の作品と比較し、歌詞以外の指示(舞台セットについてや、演者が取るべき動作など)がかなり簡素であることも特徴です。前述のように、チャイコフスキーはこの作品を簡素で慎ましやかなものにしたいと思っていました。そのこともあって、余計なものは一切省いたのです。特にゴテゴテと設定を書き連ねたワーグナー作品などと比べると、その差は一目瞭然。『オネーギン』は、精巧な詩と、ロマンティックな音楽に彩られつつも、あくまで「シンプル・イズ・ベスト」な作品なのです。
6. 様々な解釈があるのがいい!
オペラ篇、最後の項になります。オペラの魅力の一つが、数々の「演出」。名作と謳われるものから、中には怪作まで、バラエティに富みます。
個人的には、前述のように、『オネーギン』の魅力は1820年代ロシアの描写に依るところが大きいと考えていますし、原作も大好きなので、できるだけ原作やリブレットに忠実なものが好きです。「再現度」で言うと、やはりポクロフスキー演出でしょうか。
↑ 第一幕第一場。
ポクロフスキー演出版は、現在は入手困難となってしまっていますが、「名演出」として非常に高名で、少なくともわたしの周囲では、「ポクロフスキー演出から『オネーギン』を観た人は絶対にこの作品が好きになる」というジンクスまであります。そう、何を隠そう、このわたくしも、はじめてのオペラ版『オネーギン』はこのポクロフスキー演出だったのである!! 須く、この作品が、そしてこの演出が好きです!
一方、演出家ポクロフスキー自身は、己の作品に満足がいっていなかったと言います。こんなにも素晴らしいのにも関わらず、です! 何が彼の気に召さなかったのか。彼は言います。「私の演出は、あまりにも豪奢で、華美だ」と。
帝政ロシアの自然や建物、衣服や小道具の再現は非常に素晴らしいのですが、それゆえに、ポクロフスキー演出は大がかりなセットを用いた、大規模なものとなっています。確かに、それは、チャイコフスキーが求める像とは合致しなかったかもしれません。わたしは好きですけれどもね。
そこで、寧ろミニマムに纏めたのが、みんな大好きカーセン演出。
↑ 冒頭。
これ以上の簡素さが望めますか!? 落ち葉、椅子、おしまいです!!! 勿論、話が進む中で、最小限の机やベッドなど、幾つかのセットや小道具も登場しますが、原則的にほんとうに「落ち葉」「椅子」、それだけなんです! それなのに、この画像からもおわかりでしょう、この哀愁、美しさが。簡素なのに、手抜きには思われない、絶妙なバランス。そう、『オネーギン』はシンプル・イズ・ベスト。それを思い起こさせてくれるのがカーセン演出です。ポクロフスキー演出も大好きなのですが、カーセン演出も大好きなのです。選べない、いや選ぶ必要などありません。好意の比較は無益です。全部すき!
前述のように、わたくしはコレクターなので、映像版も10種ほど円盤を持っています。中には、わたくしとしても「流石にそれはどうなの?」と眉をひそめるものもありますが、それも含めて、『オネーギン』読解の多様性です。わたくしも人間ですから、当然好き嫌いがあります。しかし、特にこの舞台の上には、表現の自由があります。奇抜な演出さえ惹起する、この『オネーギン』という作品を、わたしは愛して止みません。
7. クランコの振付がいい!
次に、バレエ版についてお話します。
わたくしが初めて『オネーギン』に触れたのは高校一年生の頃だとは既にお話しましたね。意外かもしれませんが、実は、一番最初に触れたのは、原作でもオペラ版でもなく、バレエ版でした。
ここで、余談にはなりますが、わたくしが『オネーギン』に辿り着いた経緯を説明したいと思います。わたしは中学生の頃、神話学や民族学のようなものの愛好家で、もちろん中学生ですから、厨二病を拗らせた結果のものでしたし、入手しやすい書籍を読む程度で大したことはしていないのですが、とにかく当時は当時なりにそれが好きでした。
一方、父が趣味でチェロを弾くのですが、オペラの愛好家でもあって、自宅には沢山の映像やCDがありました。彼はわたしと違って布教に関心が無く、わたしにオペラを勧めてくることはなく、勝手に一人で楽しんでいたのですが、その様子を見ているうち、次第に、「随分と楽しそうだけど、それ、そんなに面白いの?」と気になるようになりました。
というわけで、「では、そのオペラとやらをひとつ観てみようじゃないか!」と思い立ったわけです。当時は神話学が好きだったので、それに関連するものがよいと思い、グルックの某オペラの映像を一人で観ました。これが失敗でした。
わたしは、特に当時は、拗らせた「原作厨」で、特に悲劇を喜劇に無理矢理変えられたりするのは我慢なりません。オタク用語で言うところの「地雷」でした。そう、その地雷を、思いっっっきり踏み抜かれたわけですね。
「えっ、オペラ、無理!(拒否反応)」となったわたしは、数年の間オペラを封印。今のわたくしだけを知る人には信じられないかもしれませんが、そう、昔はオペラ嫌いだったのですよ。今思えば、作品一つを観ただけでオペラ全体を忌み嫌うなど愚の骨頂ですし、主語がデカすぎる話なのですが、とにかく、初めて観たオペラが「地雷」を踏み抜いてきたことで、わたしはオペラにかなりの苦手意識を覚えていました。
いい加減にその「封印」を解こう、と勇気を出したのが高校の頃。もうお分かりですね、ここで人生を狂わす「沼」に墜ちるのです。
わたしは今では腰痛に悩む身体がガチゴチに凝り固まった猫背野郎ですが、幼少期は約9年ほどバレエを習っていました。当時はバレエ自体にもさほど関心がなく、「母親にやらされている」感覚だったのですが、高校に上がった辺りで、「そういえば、一部の作品はとても面白かったなあ」と思い、「今こそバレエを勉強し直したら楽しいのではないか?」と思い立ったのでした。2月の半ば、アメリカ研修を控え前倒しされた春休み中で、暇を持て余してリビングでパソコンを開いた時の、一瞬の閃きでした。
その際、「折角ならば」と、あることを思いつきました。「もし、オペラとバレエで、同じ題材の作品があるならば、見較べて楽しむことによって、オペラ嫌いを克服できるのではないか? もし克服できなかったとしても、バレエの方くらいは楽しめるだろう」と。この単なる思いつきが人生を変えたわけです。
当時のオペラもバレエもまるで知らない高校一年生のわたしが、ごく簡単に調べたところ、オペラにもバレエにもなっている作品は『椿姫』と『オネーギン』だ、ということがわかりました。もちろん、実際にはもっともっと沢山あるのですが、最初に見つけたのがこの二つだったのです。さて、どちらにしよう?
ご承知の通り、わたくしはかなり捻くれた性格。当時は通して観たことすらなかったくせに、『椿姫』がオペラを代表する超有名作だということは流石に知っていました。であれば。「『オネーギン』? なんか聞き慣れないタイトルだなぁ。フーン……。あ、でも、そういえば親のラックにオペラ版があったかも……」。実に、ありました! そう、それが前述のポクロフスキー演出のものだったのです。
更に、運命がわたしに味方しました。ご存じの通り、クランコ版(バレエ版)は著作権が厳しく、当時はDVDが一つも発売されていませんでしたし、インターネット上に録画を投稿しようものなら、一瞬で消されていました。当時はそのようなことを知る由もありませんでしたけどね。ところが、これを思い立った日、あったのです。YouTubeに。『オネーギン』の、全幕が。
一目惚れでした(直球)。初見の頃は作曲者すら知らなかった(※チャイコフスキーです)、音楽にまず魅了されました。更に、落ち着いた色調の美術に、ラーリナ姉妹の愛らしい衣装。わたしは当時ドラマティック・バレエにまるでご縁がなかったので、オネーギンとレンスキーのフロックコートを模した衣装を初めて見て、とても素敵だと感じました。それに、勿論、全く知らなかった物語も、振付も。
昔バレエを習っていたときに感じていた、「こういうところ、わたしはあんまり好きじゃないなあ」という点が『オネーギン』では悉く解消していました。今でこそ好きですが、幼少期は非現実的な形状をしていて何を模したいのかが不明確に思えたチュチュが嫌いでしたし、物語が進まないディベルティスマン(余興)も冗長で嫌いでした。『オネーギン』の衣装は全て現実の19世紀の衣服を模していましたし、ディベルティスマンは全カットして、コンパクトに纏まっていました。古典バレエにありがちな、動作の意味を知らないと何を表現したいのかまるでわからない演技もなく、ストーリーを全く知らない初見でも、何を表したいのかが明確に伝わる振付にも大変心惹かれました。他にも諸々、沢山……。
最初は、「苦手なものを好きになろう」という消極的な気持ちから入ったので、ポルカ(農奴の娘の群舞)くらいまでは、「あ、これは結構優れた作品かもしれない。好みかも」くらいに思っていました。オネーギンのヴァリエーションが終わったあと、暫く映像を止めて、考え込みました。「なんだこれは……?」。二幕が終わった後、「わたしはとんでもないことをしてしまったのかもしれない」と立ち上がってその場をうろつきながら、逸る心を抑え付けるのに必死になりました。全幕を観終わって、どうしようもない興奮に挙動不審になりながら、確信をしました。「これだ」と。間違いない。茅野は、子供のように『オネーギン』に恋をしたのである。
そこからは早かった。まず、繰り返して全幕をもう一度観て、初見時と同じように打ちのめされました。その後、親の書斎に走って行って、ポクロフスキー演出のオペラ版『オネーギン』を借り、その日中に観ました。流石に、「バレエ版が素晴らしく、それと幾ら物語が同じでも、オペラの方も好きになれるとは限らない」と身構えていましたが、そこでもまたチャイコフスキーの甘美な旋律と、ポクロフスキーの優美な演出に、再びバレエ版と同等の強いショックを受けました。あの日は間違いなく、作品への狂信的なまでの好意に酩酊していました。一晩中バレエとオペラの『オネーギン』を観て、翌日にはそのまま徹夜で神保町に急行して、原作を買いました。当時のわたしにとって原作は大層難しかったのですが、それでも当時なりにのめり込みました。わたしにとって、初めての岩波文庫でした。
当時、アメリカ研修まであと1ヶ月しかありませんでした。だからなんだと言うのだ。暇を持て余した春休み、わたしはゲームもせず、友達と外に出掛けたりもせず、一ヶ月ただひたすらに『オネーギン』を観ていました。わたしにしては珍しく、情報を調べるとか、作品について考えるとか、友達に話すとか、そういうことを一切せず、ただ単にそう、見惚れていたわけです。誇張抜きに、一日に最低でも2,3 回は通して観ました。テネシーに発つ前に、CDやDVDを幾つか購入していたので、全てWalkmanに収め、渡米後もずっと『オネーギン』を聴いていました。勿論原作も持って行って、よく読み返していました。寮が丘の上にあったのですが、その傍の草むらに一人で座り込んで、木立に吹き抜ける風と擦れる葉の音と共に«Слыхали ль вы...(※オペラの冒頭)» を聴いたときの心の高揚をなんと表現すべきか。嵐の夜に『August(※バレエ版の決闘シーンの曲)』を流した夜を忘れることなどあるのか。わたしがテネシーに居た頃、メトロポリタン歌劇場では、天下のオネーギン役であるディミトリ・ホロストフスキー様主演のカーセン演出オペラ版『オネーギン』が上演されていました。どれほど行き先がテネシーではなくニューヨークであったら、と思ったことか!!
……以上が、わたくしが『オネーギン』にハマることになった経緯です。当時は、『オネーギン』を切っ掛けに、他のバレエ・オペラ作品を色々好きになりたいな! と思っていました。バレエやオペラについて、全面的に詳しい知的な大人になりたかったのです。そこまでべた惚れしておきながら、この愛は一時的なものだと勘違いしていました。それが、どうでしょう。初めてこの作品触れてから、既に6年半も経っているではないですか。それから大学に進学して、色々な作品に触れましたが、未だに『オネーギン』が一番好きじゃないですか。一番好きどころか、ちょっと形容のしようがないくらい、抜きん出て好きじゃないですか。このブログの約半数が『オネーギン』関係の記事なんですよ。どうなってるんですかほんとに。こんな記事を書いているわたし自身が一番驚いているのですからね。もう間違いなく一生推してます、この作品。
……話が盛大に逸れた上に、熱が入って長々と書いてしまいました。失礼しました。まあ、この記事は「何故わたしが『オネーギン』を愛しているか」を書く記事だからいいですよね! はてなブログ先生も「熱く語ろう!」と仰っていますからね! そのご要望は果たしました。
↑ 証拠。
さて、改めて、バレエ版『オネーギン』の何がいいか。第一は勿論、奇才ジョン・クランコの手になる振付でしょう。『オネーギン』は「ドラマティック・バレエ」に分類され、演劇性のつよい作品となっています。一方で、勿論演者の演技力にも依存しますが、ここは演技パート! ここは踊り! と区別するような「わざとらしさ」がないのが特徴で、コンスタンティン・スタニスラフスキーのメソッド演技法を彷彿とさせる、自然なものであることが演技・解釈の幅を生み、より豊かな表現が可能な作品となっています。ダンサーの数だけ解釈が生まれます。見較べる愉しみが特に強いのもこの作品の特徴です。
振りの一つ一つに意味があり、例えば鏡のPDDで超絶技巧的な高く上げるリフトが多いのは、ターニャの心の高揚を表しているとか、逆に終幕の手紙のPDDで地を這うような低姿勢が続くのは重く苦しい二人の心情を表しているといったような対比も見事です。
振付のみならず、演出もとても素敵です。特に第1幕・第3幕で用いられる鏡。第1幕第1場では、姉妹が「鏡占い」を行います。鏡を覗いたときに後ろに映った男性と結婚する、というものです。オリガはレンスキーを、タチヤーナはオネーギンを背後に見ますが、結果はご承知の通りです。また、こちらは忘れられがちですが、第3幕第2場でもタチヤーナは鏡を覗いています。後ろに映るのはグレーミンです。
また、第1幕第2場の大鏡の演出ほど優れたものはないでしょう。眠りに落ちたタチヤーナが、夢で鏡から出て来るオネーギンと踊るのが最大の魅せ場のひとつ、「鏡のPDD」ですが、ここでは、鏡の枠だけを置いておき、背格好の近しい人が枠の裏側に入って同じ動作をすることで、鏡があるように見せかけるのです! このトリックを初見で見抜けない人は多いでしょうし、ほんとうに鏡の中からオネーギンが出てきたように見えることでしょう。余りにも上手すぎます。
↑ 更に詳しく知りたい方はこちらなどをどうぞ。
8. シュトルツェの編曲がいい!
バレエ版『オネーギン』の音楽は、「ポプリ形式」と呼ばれる形で編集されています。元の楽曲は全てチャイコフスキーの手になるものなのですが、それを組み合わせ、編集して一つの組曲に落とし込んでいます。
↑ もっと詳しく知りたい方はこちらから。
これがほんっっとうに天才的で! 全く違和感がないのです。元からこういう組曲だったと信じて疑う余地がありません。違和感がないどころか、チャイコフスキーの良さを生かし、またピアノ曲へのオーケストレーションもチャイコフスキーが手掛けたかのように豊かな響きに富んでいます。そればかりか、当然、振付との相性も抜群です。一部の曲はキャラクターに合わせライトモティーフのように使い(例えば、オネーギンのライトモティーフは『Impromptu(即興曲)』がベースになっていて、チェロなど低音域の弦楽器で表されますし、タチヤーナの恋心は「オクサーナのアリア」で表現されます)、物語と噛み合うように調整されています。
バレエ版では、紆余曲折あり、オペラの曲を使うことが許されませんでした。苦肉の策で始めたポプリ形式ですが、これ以上はないと断言できる仕上がりです。また、余計なイメージに引っ張られないよう、名旋律に富むチャイコフスキーの中でも知名度の低い曲をベースに選曲されていることも特徴。事実、皆様も『フランチェスカ・ダ・リミニ』を聴いたとき、なによりもまず「手紙のPDDだ!」と思うのではないでしょうか?
しかし、このバレエ版『オネーギン』組曲、実はスコア譜もピアノ譜も非公開。クランコ財団はもう秘密主義とさえ言ってもよいでしょう。頼むから売ってくれ~~!! 課金させてください。心底欲しい。毎日譜面と睨めっこしたい。宜しくお願いします。数年以内に! 頼みます。
9. ローゼの美術がいい!
バレエ版最後の項です。『オネーギン』、美術がこれまた妙です。見て下さい、このスケッチを。
↑ 第1幕第1場の舞台スケッチ。
スッ……と一瞬にして観客を帝政ロシアに連れて行ってくれる、素朴で落ち着いた色合いの美しいセットと衣装です。ロシアらしい白樺の林や、第一幕の夏らしい緑の明るい色調に、涼しげな衣装。
尤も、ソ連で初演が行われた際には、特に美術に対してのブーイングも多くありました。「原作から逸脱している」「時代考証がまるでなっていない」という点からです。例えば、第三幕でオネーギンは口髭メイクをしますが、当時の帝政ロシアの貴族青年は髭を生やしませんでした。このことから、現ロシアのボリショイ劇場で『オネーギン』を上演する際には口髭は付けないことが慣習となっています。
↑ 詳しくはこちらから。
確かに、時代考証をしていると気になる点がないわけではないのですが、美しく、パフォーマンスを引き立てる素晴らしい美術だと思います。同じく舞踏会が開かれる第2幕と第3幕の対比や、成長したタチヤーナの「人妻感」のある落ち着いた色調のドレスなど、演出の妙を感じますし、素朴さを特徴とする『オネーギン』によく合った調度品も素晴らしい。一方で、「魅せるところは魅せる」華美さもあります。大変素敵です。
ちなみに、『オネーギン』はジョン・クランコのみならず、沢山の人がバレエ化しています。有名どころでは、ジョン・ノイマイヤーやボリス・エイフマン振付のものがあります。しかし、最も有名なものがクランコ版で、「バレエ版」としては原則こちらを指す、ということを付け加えさせて頂きます。
10. わたしを幸せにしてくれるのがいい!
最後に、一番大切なことです。何よりも、『オネーギン』を読み、観て、調べ、考え、話し、書くとき、わたし自身が幸せだということです。
『オネーギン』のオタクを拗らせていたお陰で、素敵なご縁に沢山恵まれました。ただひたすら一作品だけを観ていた浅学な門外漢にわかのわたくしに優しくご教授くださる先達方。ただの成績低空飛行なフランス専攻学生のわたしが、ロシア文学会や音楽劇研究所に乗り込めたのは、100%この作品のお陰ですし、マニアックなレビュー記事を書き散らしていたせいで、出演者の方や研究者の方ともご縁ができました。
わたしのクソ長い作品語りを辛抱強く聞いてくれる友人たち。何故わたしのマシンガントークの猛攻に耐えられるのかわかりませんが、彼らはよくわたしの話を聞いて興味を示し、理解してくれ、公演がある際には共に出陣してくれます。なんと心強いことか。沢山の人に支えられておりますが、そこでは大抵この作品が仲介をしてくれました。
『オネーギン』のお陰で、それまで何も知らなかった帝政ロシアに関心を持ち、同時代の他の作家の作品を好きになったり、その文学に影響を及ぼした政治や法に関心を覚えて調べたりと、様々な知識を得ることもできました。
勿論、他のバレエ作品やオペラ作品を観たりするなかで、芸術史上のこの作品の立ち位置を確認したりだとか、他作品との比較をして、他の素晴らしい作品を色々知ることもできました。
まだまだ全然初学者なのですが、『オネーギン』のおかげでロシア語とのご縁もできて、最近は少しずつ勉強しています。そのなかで、他の邦訳されていない作品を無理矢理読んでみようと努力してみたりだとか、ちょっとした野心も生まれつつあります。
わたしは好きな作品が癒やしになるとは思いません。寧ろ観るとアドレナリンが大放出して、暫く寝れなくなって困るくらいなのですが、それを厭う気持ちは全くありません。ここまで自分の気持ちを高揚させてくれる作品はありませんし、感謝の気持ちでいっぱいです。
好きすぎてただ見惚れている時間も長いので、実はまだこの作品について知らないことも多いです。『オネーギン』、全然わかりません。しかし、だからこそ寧ろ知る楽しみがあって、これからも調べ、考え続けてゆくのが楽しみでたまりませんし、公演の度に追いかけていると思います。素晴らしく優れた作品ですし、特にわたしにとっては尚更です。
最後に一言。『オネーギン』はいいぞ。
最後に
通読お疲れ様でした!! 途中大暴走したこともあって、15000字です! 対訳でもなければ引用もないので、全て自分のことばで構成されていてこの文量。語りすぎ!! ちなみにこの記事は一晩で書きました。寝不足です。
『オネーギン』を全く知らない人には、この作品の魅力が、わたくしの筆から少しでも伝わればよいとおもいます。いや、わたくしの語りなど読むくらいなら原作読んで下さい、ほんとうに……という気持ちなのですが……。
他の方のこのお題での記事を全く読んでいないので、こういう書き方でよいのかよくわかっておりませんが、いつもお世話になっているはてなブログさんのご要望に応えられていたらいいなとおもいます。また、特別お題の記事を投稿すると「レッドスター」という、有料で付けられる希少な「いいね」のようなものを特別に頂けるそうなので、はてなブログで素晴らしい『オネーギン』の記事を書いてくださった方に押そうと思います。というわけで、皆様『オネーギン』の記事書いて下さいね。わたしが読みたいので。見逃すかもしれないので、書いたら教えて下さいね。わたしに『オネーギン』語り聞かせて下さいね。宜しくお願いします。
これからも色々と『オネーギン』関連の記事は執筆してゆく予定です。相変わらずマニアックな内容になるかとは思いますが、ご興味抱いて下さった方はお付き合い頂けると幸いです。
それでは長くなりましたので、いよいよお開きとさせて頂きたいと思います。長文語りに付き合って頂いて誠にありがとうございました。別記事でまたお目に掛かれれば幸いです!