世界観警察

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タチヤーナ、オネーギンの恋の解釈 - Eugene Onegin 考察

 こんばんは、茅野です。

松本オネーギンが幕を下ろしました。とにかく寂しいです。千秋楽お疲れ様で御座いました。感想を拾っている感じ、素晴らしい舞台だったようで1オタクとしても非常に嬉しいです!

 さて、個人的なことを言えば明日から研究会の全国大会運営が始まるのですが、松本『オネーギン』の感想を見ていたらうずうずしてきたのでこれは単なる息抜きだと自分を騙し、ザッと一記事書いてみました。ずっと書いてみたかったトピックでもあります。

 

 そのトピックとは、「タチヤーナ、オネーギンの恋心に関する解釈」です。

この『エヴゲーニー・オネーギン』という作品は、非常に多様な解釈が可能で、事実色々な人が様々な解釈を行っています。

それを一度見易い形で分類してみよう、というのが今回の趣旨です。皆様はどのような解釈をされているのでしょうか。心底気になります。その議論の土台となればよいなと思い、一筆やってみようとおもいます。

 

 

タチヤーナからオネーギンへの恋

 まず、タチヤーナがオネーギンについてどう考えていたのか、という解釈を分類し、時系列順にみていきたいとおもいます。

分け方としては、第2章~第3章(第1幕第1場・第2場)、第4章~第6章(第1幕第3場~第2幕)、第7章(第2幕後~第3幕始めの空白)、第8章(第3幕)の四つです。それでは行ってみましょう!

 

第2章~第3章時点 / 第1幕第1場・第2場時点

1-a タチヤーナ夢女子派

―――オネーギンは、ただそこに現れるだけでよかったのだ。彼女が待っていたのは、"彼"ではなく、白馬の王子様だったのだから。

 タチヤーナは、「エヴゲーニー本人」ではなく、「突如田舎に立ち現れた年頃の青年」に惚れちゃったんだよ、とする派閥です。

 彼女はエヴゲーニーを見ていない。恋文に書いたように、片田舎で誰にも理解されず、独り読書と空想の世界に生きる彼女は、若い乙女を救ってくれる白馬の王子様を夢見て、彼にその役目を押しつけている。だから、彼が現れた瞬間、一目で恋に落ちる。そこには会話も要らない。ただその偶像に恋しているのだから。

 

根拠:オネーギンが現れた瞬間恋に落ちる、余りにもはやい一目惚れ。彼女が『クラリッサ』、『新エロイーズ』などを読み、ロマン主義的な恋愛に憧れているという伏線。

反証:であれば、第8章(第3幕)までずっとオネーギンを恋い慕っているということは不自然なのではないか。

 

筆者コメント:非常に説得力のある説です。多く拡まっている解釈でもあります。タチヤーナがオネーギン本人を見られていないのだとしたら、オネーギンの返答についてもオネーギンに同情の余地が生まれるとおもいます。

 チャイコフスキーは弟に宛てた手紙から、この説を取っていることがわかっています。オペラではこの解釈を正解としてよいと考えられます

 

1-b タチヤーナはちゃんとオネーギンのこと好きなんだよ派

 一方 1-a と対になるのは、タチヤーナはちゃんとエヴゲーニー本人を見ているんだよ、とする派閥です。

 容姿、佇まい、会話、それらを総合的に判断して普通に「彼に恋した」。エヴゲーニーは田舎の乙女からしたら酷く魅力的な男性だ。

 

根拠:一目惚れはふつうにできる(特にオネーギンは容姿端麗という設定なので)。第8章(第3幕)までずっとタチヤーナは恋い慕っている、これはオネーギン自身に恋している証左である。

反証:第7章と矛盾が発生する。この説を取るならば、タチヤーナはオネーギンの屋敷で彼の何を理解したというのか。

 

筆者コメント:原作を何も考えず読むとこの解釈になります。よって、否定しづらい説でもありますが、よく考えると色々怪しく思えてくる説です。

 

第4章~第6章時点 / 第1幕第3場~第2幕時点

2-a タチヤーナは超情熱的な愛に燃えていたよ派

 オネーギンに退けられたにも関わらず、タチヤーナは愛に燃えていた。オネーギンのことを諦めることができず、恋の進展を願い続けていた。

 

根拠:「慰めを知らぬ情熱に一層めらめらと燃え立った」(第4章・オネーギンの返答後、第5章・名の日の祝いにオネーギンが現れた際)、「エヴゲーニーの不思議なくらい優しげな眼差しにターニャの心は蘇った」(第5章・名の日の祝いにて)、という記述から、タチヤーナが継続してオネーギンに恋していたのは明らかである。

反証:かといって具体的な行動には何も落とし込めていない。(→オネーギン邸に向かうことを考えると論破可能)。

 

筆者コメント:正直これは正解としてよいと思っています。しかし、クランコ版のみ、第4章(オペラ版第1幕第3場)が第5章中(第2幕第1場)に組み込まれる為、他の解釈も可能です。

 

2-b タチヤーナはもうオネーギンを諦めたよ派

 真剣にしたためた熱烈な恋文、その心を無碍にされたのだ。これ以上彼のことなんか考えていられない。

 

根拠:(クランコ版)あの恋文を引き裂かれる。余りにも酷い。事実タチヤーナも顔を覆って泣いているではないか。

反証: 3-a根拠参照。

 

筆者コメント:クランコ版でのみ有力な解釈だとは思います。

オペラ版でもこの解釈をすることは可能ではありますが、この後辻褄を合わせるのが難しくなります。しかし、クランコ版でもその後タチヤーナが延々とオネーギンを注視していることを鑑みるに、 3-a 説も充分に有り得ます。どちらでも解釈可能。

 

第7章時点 / 第2幕後~第3幕始めの空白

3-a タチヤーナは遅まきの愛によって生まれ変わるんだよ派

 1-a説から継続する説です。

 第7章に於いて、タチヤーナはオネーギンの屋敷に赴き、彼の書斎を物色する。そこで、読了本や、メモ書きから、彼の性格を「理解」する。そこで、はじめて彼女はオネーギンの真の姿を見て、オネーギン自身に恋をするようになったのだ。彼女はずっと彼に恋している。最初は偶像を思い描き、夢見ていた。しかし、ここで彼の姿を知り、恋は真実の愛へと変質した。

 

根拠:ただの白馬の王子様ではない、「真の姿」を知っても彼女はオネーギンを好いている(少なくともそう発言している)。その辻褄を合わせるには一番都合がいい。

反証:オネーギンの「真の姿」を、筆者プーシキンも、タチヤーナ自身も好意的に捉えていない。であるのに、ここで惚れるのはおかしいのではないか。

 

筆者コメント:わたし個人としては凄く好きな説です。が、主流ではないかも。

 

3-b タチヤーナは真のオネーギンの姿を知って幻滅したんだよ派

 第7章でオネーギンを「理解」するというところは 3-a と同じです。が、ここで彼を否定的に捉えた、とするのが 3-b の説です。

 ただのチャイルド・ハロルドのパロディであるオネーギンを、何故好きになるのか。彼女は何に恋していたというのか。

 

根拠:第7章のテクストを言葉通りに解釈するとこの説に辿り着く。決闘で妹の婚約者を殺した男の何がいいのか。

反証:では何故第8章(第3幕)でタチヤーナはオネーギンへの愛を告白するのか。

 

筆者コメント:この説を取った場合、第8章段階での辻褄を合わせるのに苦労します。不可能ではありませんが。

 

3-c そもそもタチヤーナはオネーギンのストーキングなんてしないよ派

 これはオペラ、クランコ版のみで成り立つ解釈です。原作第7章が省かれていることを良いことに、そもそもオネーギン邸になんて行っていないとする派閥。

 

根拠:舞台化に於いてはオネーギン邸に行った描写がないのでそもそも行っていないとする方が自然だ。

反証:原作に書かれている以上行っていると解釈するべきだ。又、特にクランコ版の場合、タチヤーナはレンスキー殺害(決闘)に立ち会っていて、オネーギンへの心証は限りなく低くなっているのに、どこで挽回するというのか(2-aの立場)。

 

筆者コメント:原作を読んでいない人は寧ろこの説にしか辿り着かないとおもいます。

 

第8章時点 / 第3幕時点

4-a タチヤーナはロシアの聖女だよ派

 タチヤーナはオネーギンを愛していた。それでも尚、好きでも無い夫との高尚な義務を守ったのだ。彼女は信仰心に厚く、誠実で、美しい魂を持った女性だ。

 

根拠:第8章を素直に読むとそう取れる。後の評価を見てもこの解釈は普遍的だ。タチヤーナは信心深く、結婚の絆を尊重している。

反証:では何故最後にオネーギンに愛を告白したのか。

 

筆者コメント:ドストエフスキーが提示した説です。チャイコフスキーもこの説を信頼している節が見受けられます。よって、かなり知名度が高く、ロシア本国でも浸透している説です。しかし、タチヤーナを美化しすぎているという見方も存在します。

 

4-b タチヤーナはN公爵(グレーミン公爵)とラブラブだよ派

 特に原作の場合、グレーミン公爵はまだ若く、権力と財力があり、優しいことがわかる。オペラの場合でも、老年だが、タチヤーナを深く愛している。タチヤーナは実はこの公爵に絆されているのではないか。結婚生活を楽しんでいるのではないか。

 又、穿った解釈をすると、N公爵(グレーミン公爵)とオネーギンは血縁関係である可能性が高く、容姿もオネーギンに似ているかもしれない。仮にオネーギンを愛していたとしても、公爵が彼に似ていて、天秤に掛け、公爵を取った可能性があるのではないか。

 

論拠:タチヤーナは公爵との道を選んでいる。20歳の乙女がこの選択をするにはそれなりに公爵との関係性がよくないと説得力がないのではないか。

反証:では何故最後にオネーギンに「愛しています」と告げたのか。矛盾する。

 

筆者コメント:完全にこの説を取ってしまうと、反証に挙げた通り矛盾が発生します。しかし、全く公爵を嫌っているというのにも説得力がないので、割合的にはこの解釈は成り立つとおもいます。

 

4-c タチヤーナは社交界の奴隷になったんだよ派

 タチヤーナは自分の「社交界の女王」としての立場を失うことを恐れたのだ。二年も帝都の花形として君臨した彼女は、気の弱い乙女の姿はもう完全に失ってしまった。確かに若い頃には彼に恋した。今でも彼のことは良いなと思う。しかし、帝都にはオネーギンのような伊達男も腐るほどいる。今更彼に着いて行って何になる?

 

根拠:ヴィッサリオン・ベリンスキーが提示した説。ジョルジュ・サンドをはじめとする、高名な賛同者がかなり多くいる。作中の情報から否定するのはかなり難しい、論理的な説。

反証:筆者プーシキンが「タチヤーナを好きになった」とわざわざ告白しているのに、そんな想定をしているとは思えない。

 

筆者コメント:こちらも部分的に同意できる説ではあります。

 

4-d タチヤーナは恋愛遊戯マスターになったよ派

 帝都の社交界に君臨するうち、タチヤーナは社交界での恋愛の仕方を覚えた。タチヤーナは過去にオネーギンに退けられたことに恨みを抱いており、彼に復讐心を抱いていた。彼の恋心を弄び、突き放した。最後の告白は全て演技だ。

 

根拠:帝政ロシアではよくあることだ。

反証:あまりにも飛躍しすぎだ。根拠に乏しい。

 

筆者コメント:実に夢がない説ですが、ロシア文学という点を鑑みると有り得なくはない説でもあります(当時のペテルブルグ社交界では「サディスティックな恋愛遊戯」が流行していた為)。

 

4-e タチヤーナは「青春の想い出」に恋をしているよ派

 3-b 、或いは 3-c 説から継続する説。オネーギンの「真の姿」には幻滅した。或いは、彼の真の姿など知らない。しかし、青春時代、彼(の偶像)を恋したことは事実だ。久々に彼にあったら、そのことを想い出した。タチヤーナが恋しているのは最後まで「エヴゲーニー・オネーギン」ではない。彼の偶像、彼の思い出、それだけだ。

 

根拠:オネーギンの印象を上げる出来事がなさすぎる。タチヤーナが最後まで彼を恋しているなんて説得力がない。

反証:第7章と矛盾する。「真の姿」を知って尚、偶像に囚われるのか。(3-c 説を取る場合、反論不可)。

 

筆者コメント:3-c → 4-e という流れがクランコ版は一番近いのかな、という気がしています。オネーギンの印象を上げる出来事がなさすぎるので……。

又、この説は 4-d 以外のどの4の説とも両立可能です。

 

総合コメント / 筆者の考え

 個人的には、色々考えた結果、1-a→2-a→3-a→4はd以外全て混合という立場を取っています。

4に関しては、どれも部分的に正しくて、どれか一つということはないと考えています。4-d に関しては、そういう解釈も成り立たなくは無いのですが、個人的にはこの説ではないかな、とおもいます。

信仰心に厚く、結婚を重く捉えており、公爵との仲も悪くはなく、自身や家族の名誉を守る必要がある、ということを総合的に判断して、タチヤーナはオネーギンを退けたのではないかと考えています。

3-a と4-eは矛盾しますが、わたしは 3-a が原作とオペラ、4-e がバレエ版だと納得しやすいのではないかとおもいます。

 皆様はどの解釈がより自分の考えに近いでしょうか。

 

オネーギンからタチヤーナへの恋

 次はオネーギンについて見てきます。こちらは時系列にではなく、第8章(第3幕)時のみで考えていきます。

 

I-A オネーギンは遅まきの愛によって生まれ変わるんだよ派

 オネーギンは今までタチヤーナの良さに気付かなかった。彼女が指摘するように、慎ましい少女の恋など珍しいものではなかった。しかし、彼はあの熱烈な恋文を読み、タチヤーナの良さを「知っていた」。彼女に再会し、彼女の本質、激情、美しさを「想い出した」。彼は最初からタチヤーナを不快にはおもっていなかった。ここで改めて、彼は、「タチヤーナ」に恋をしたのである。

 

根拠:ベリンスキーが提示した説。オネーギンはタチヤーナの良さを知っているはずだ。恋文を読んだ時ですら「思わずはっと胸を突かれた」のだから。

反証:ドストエフスキーチャイコフスキーはこれを否定している。

 

筆者コメント:わたしはこの説が一番好きですし、納得できると思っていますが、世の主流はこれではないらしい。

 

I-B オネーギンは「社交界の女王」に恋をしているよ派

 オネーギンが恋したのは「社交界の女王」であり、タチヤーナではない。タチヤーナが「白馬の王子様」という役をオネーギンに押しつけたように、今度はオネーギンがタチヤーナに「社交界の女王」という役を押しつけている。彼は「タチヤーナの真の姿」を知らず恋している。

 

根拠:チャイコフスキーが支持している説。

反証:「飽きるほどの恋愛を経験した大人の男」が「肺病みのように窶れるほどの恋」をしているのに、紛い物の恋だなんて言えるだろうか。又、彼がタチヤーナの美点としているのは彼女のステータスではなく、世間のしがらみを無視してまでも己の信念を貫くその性格ではないのか。

 

筆者コメント:チャイコフスキーは、第3幕で、オネーギンのアリオーゾにタチヤーナのアリアと同じ旋律を使っています。チャイコフスキーは、タチヤーナがオネーギンの「偶像」に恋している、という説を支持しているため、彼は確実に「オネーギンはタチヤーナの "偶像" に恋している」、というこの説を取っているはずです

 

I-C オネーギンはあくまでも社交界の奴隷なんだよ派

 オネーギンが恋したのは「社交界の女王」であり、タチヤーナではない、というのは I-B と同様。

オネーギンは元々帝都の伊達男で、社交界での地位については人一倍気を払ってきた。「変人」と揶揄される彼は、社交界での起死回生のチャンスを手にしたのだ。

 

根拠:ドストエフスキーが提示した説。推定4年弱も社交界を離れていて、しかも決闘で人を殺めたオネーギンが手っ取り早くのし上がるには有効な手段だ。

反証:「肺病みのように窶れるほどの恋」なのに、心の底からの恋ではないだなんて言えるだろうか。又、オネーギンは社交界自体を嫌っていたはずだ。今更ステータスなんか気にするだろうか。

 

筆者コメント:ドストエフスキーが提示したことから広く知られている説です。確かに、社交界には重きを置いていないとはいえ、流儀に従い、やりたくもない決闘を行ったりするように、社交界を全く捨て切れていないところがオネーギンにはあります。

 

 

総合コメント / 筆者の考え

 個人的には I-A 説を支持しています。プーシキンはこの説を念頭に置いたのではないかと考えていますが、他の説を取ることも不可能ではありません。但し、オペラではこの説が否定されているに等しいこともあり、なかなかメジャーにはなりきれない部分があります。

 皆様のお好きな説はどちらでしょうか。

 

最後に

 タチヤーナ、オネーギンの恋心に対する解釈を分類してみました。通読ありがとうございました。「もっと他にこういう解釈もあるよ!」というご意見がございましたら、コメントなどに残して頂けるととても参考になります。又、「自分はこう考えているよ!」というご意見も広く募集しています。非常に気になります。教えて下さい。宜しくお願い致します。

 それでは締めさせて頂きます。オネーギン解釈議論が盛り上がることを願って。