こんにちは、茅野です。
一回『オネーギン』の記事を書いたらもう『オネーギン』のことしか考えられなくなりました。厄介ですね。これが合法ドラッグか……。
というわけで今回は、オペラ・バレエ『エヴゲーニー・オネーギン』の第一幕の「季節」について、挿絵・各演出を確認し、考察していきたいとおもいます。
- オネーギンの季節
- 真相
- 挿絵・ティモシェンコの場合
- 挿絵・サモキッシュ=スドコフスカヤの場合
- 挿絵・クシェフスキーの場合
- 挿絵・ベリューキンの場合
- バレエ・クランコ版の場合
- オペラ・カーセン演出の場合
- オペラ・スタニスラフスキー演出の場合
- オペラ・ポクロフスキー演出の場合
- オペラ・ワーナー演出の場合
- オペラ・ステパニュク演出の場合
- 何故オペラの演出は「秋っぽい」のか?
- 最後に
オネーギンの季節
早速ですがクイズです。
オペラ版でもバレエ版でも構いませんが、「オネーギン第1幕」と言われた際、貴方が思い浮かべる季節はどちらですか?
夏 ▽
秋
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恐らくですが、バレエ版に親しい方は「夏」、オペラ版に親しい方は「秋」を連想したのではないかと推察します。どうでしょうか?
検証を行う前に、先に答え合わせをしてしまいましょう。
当方の考えでは、これは「夏」が正しいと言うことが出来るとおもいます。
しかし、「あれ?」と思う方も多いのではないでしょうか。ではどうしてそうなったのか、確認してみましょう。
真相
原作の表現を確認してみましょう。
まず、第3章ですが、季節を特定出来るものとしては、「ベリーの収穫」があります。オペラだと第三場で女声合唱がありますね。
ベリー類の収穫時期は大体6月~7月だそうです。ロシアの一部は寒いので7月下旬になることもあるそうな。こちらは勿論現在我々が使っているグレゴリオ暦での換算ですが、プーシキン及びチャイコフスキーが用いたユリウス暦で考えると、19世紀は12日前に倒す必要があることは留意しましょう(当記事では以下グレゴリオ暦)。
このベリーの収穫が行われているのはオネーギンがタチヤーナからの手紙を受け取り、再びラーリン邸に訪れる日(オペラ版第3場冒頭)。その数日~数週間前に「熱狂の夜」、つまり、タチヤーナが手紙を書いた夜があるはずです。つまり、第3章の出来事は基本的に6月~7月の「夏」の出来事と言えるとおもいます。
次いで第4章を見てみましょう。こちらはもっとわかりやすいです。
第4章の冒頭は第3章から引き継いでタチヤーナとオネーギンの邂逅があります(オペラでいう「オネーギンのアリア」)。
その後、オペラやバレエにはなっていませんが、この日の後のタチヤーナとレンスキーの様子が描かれ、次いでオネーギンになります。
ここではオネーギンの「夏の生活」が出てきますから、第3章が6~7月であるということにも信憑性がありそうです。それから、その描写の末には「もう11月が門先にいた。」とあり、次なる第5章では1月になっていますから、第4章の間に「夏」から「秋」を越え「冬」へと移行したということがわかりそうです。
しかし、演出によって一幕の季節が迷子になってしまっている事実は確かに存在します。それでは、各挿絵・クランコ版・オペラ演出を見比べながら、オネーギン第1幕(3章・4章)の季節について確認してみましょう。
挿絵・ティモシェンコの場合
まずはリディア・ティモシェンコ(1903-1976)から。『オネーギン』の挿絵といえば、イリヤ・レーピン(1844 -1930)ですが、彼は第3章・第4章に合致する絵は描いていないので、ここでは割愛します。
ティモシェンコ画の『オネーギン』は、タチヤーナが滅法可愛いんですよね……。というわけで、原作第4章・オペラ版第1幕第3場に該当する挿絵がこちら。
↑ 首筋のラインが官能的。
語りかけるオネーギンと、項垂れるタチヤーナ。まさに「オネーギンのアリア」というところ。
さて、問題の季節ですが、青々と茂る緑はやはり夏っぽい印象ではないでしょうか。
挿絵・サモキッシュ=スドコフスカヤの場合
次にサモキッシュ=スドコフスカヤ(1863-1924)の絵を見てみましょう。
↑ 陰影のはっきりした画風が特徴的。
どこか遠くを見つめるタチヤーナが、挿絵だけで物語の内容を想起させます。
紫、白、桃色などの花が咲き乱れる様はこちらも夏らしいでしょうか。
挿絵・クシェフスキーの場合
次に、ユーリ・クシェフスキーの挿絵を見てみましょう。
↑ ちょっと印象派のようなタッチ。
こちらは上記2枚よりも後の光景で、オネーギンの "お説教" が終わったのち、手を差し伸べたオネーギンに「機械的に寄り添った」場面だとおもいます。
特に自然豊かなこちらも夏らしい印象でしょうか。当時のファッションなので致し方ないのですが、オネーギン(成人男性)とタチヤーナ(令嬢)の服装は、ほんとうに同じ季節か? って感じしますよね。
挿絵・ベリューキンの場合
最後に、ドミトリー・ベリューキン(1962-)の絵を見てみましょう。
ベリューキンは、恐らく最も多くの挿絵を描いたのではないでしょうか。とにかく物量が多い! なんと、中には「テレプシコラーの脚」の絵まであるんですよ。
↑ 唯一の見開き型。
いやもうこれは間違いなく夏でしょう。夏です(断言)。
バレエ・クランコ版の場合
さて、次にバレエ版をみていきたいとおもいます。といいつつ、クランコ版のみですが。
クランコ版では、第一幕は明らかに「夏」をイメージしてつくられています。そのことは美術のユルゲン・ローゼのスケッチからもわかります。
↑ 第1幕第2場のスケッチ。
鏡の横に、印象的なひまわりの花瓶があります。又、タチヤーナのネグリジェはロシアらしからぬとても薄手のもの。それから、青い照明で踊られる幻想的な鏡の PDD は、なんとなく「真夏の夜の夢」なんて語を連想しがちです。
これらから、クランコ版は第1幕を「夏」と設定しているといえそうです。
オペラ・カーセン演出の場合
最後にオペラをみていきます! オペラ版は多様な演出があるので、現代的であったり、季節を特定できなそうなものはここでは述べません。
トップバッターはみんな大好きカーセン演出。
松本の『オネーギン』めちゃめちゃ楽しみですね!!わくわく。
↑ この鮮やかな色彩を見よ。
文字通り「秋色」。落ち葉を巻き上げる様子はどうみても秋らしいです。
オペラ・スタニスラフスキー演出の場合
近々上演繋がりということで、新国『オネーギン』の演出を手がけるベルトマンにインスピレーションを与えたという、スタニスラフスキーの演出を見てみましょう。
スタニスラフスキー演出は、現在ではマスカト・ロイヤル・オペラハウスなどで観ることができます。
↑ カメラワークが天才。
柱の感じはポクロフスキー演出の第三幕を想起させつつ、落ち葉が撒き散らされているのはカーセン演出と共通です。というわけで、こちらも秋らしい印象を与えますね。
オペラ・ポクロフスキー演出の場合
ではお次は話に出たポクロフスキー演出を。
こちらは本当に、上記に述べた挿絵にそっくりなんですよ~! 素晴らしい……わたしはこの演出大好きです。かなり昔のボリショイ劇場などで上演されていました。ちなみにわたしが初めてみたオペラ版の『オネーギン』はポクロフスキー演出でした。
↑ 写実的に作り込んであるのがポクロフスキー演出の特徴。
どこからどう見てもベリューキンの挿絵そのままじゃないですか? 絵が現実になった……。
というわけで、ほぼ唯一と言っていいかもしれませんが、ポクロフスキー演出では夏らしい印象があります。
わたしの『オネーギン』経験はバレエ・クランコ版→オペラ・ポクロフスキー演出→原作→オペラ・カーセン演出……という順だったので、個人的には『オネーギン』1幕はずっと夏のイメージがつよかったのです。
オペラ・ワーナー演出の場合
さて、カーセン演出といえばMETというイメージがありますが、昨今のMETのオネーギンといえばワーナー演出です。見てみましょう!
↑ 人気歌手ネトレプコとクヴィエチェン。
ワーナー演出では、「っぽい」どころではなく、明確に秋がイメージされていることがわかります。オネーギンは秋が収穫期である林檎を弄び、農民の合唱では麦が撒き散らされています。
オペラ・ステパニュク演出の場合
「オネーギン」「林檎」といえば? 勿論ステパニュク演出です!
こちらは現在マリインスキー劇場で上演されています。2016年の来日公演でご覧になられた方も多いのでは?(わたしも観ました!)。
↑ この陰鬱とした雰囲気はステパニュク演出ならでは!
モダンでシンプル、だがそれが芸術的! ステパニュク演出はとにかくお洒落ですよね。こちらもすき……。
林檎からわかるように、こちらも秋のイメージです。
……きりがないので、ここらへんで切り上げましょうか。各演出については今度また詳しくみていくことにしましょう。
何故オペラの演出は「秋っぽい」のか?
さて、こうやって見てみると、原作の挿絵・バレエが夏で統一されているのに対し、オペラの方では夏・秋と揺れがあり、秋の方が多いことがわかりました。何故でしょうか?
理由は明確です。第一幕の農民の合唱では、次のような歌詞があります。
Здравствуй, матушка-барыня!
Здравствуй, наша кормилица!
Вот мы пришли к твоей милости,
Сноп принесли разукрашенный!
С жатвой покончили мы!こんにちは、女主人さま!
こんにちは、わしらをお守りくださるお方!
こうして あなたさまのもとに参りました
飾り立てた麦束を持って!
刈り入れが終わりましたんでね!(オペラ対訳プロジェクト)
麦の刈り入れ。つまり、チャイコフスキーが想定したのは秋なのです。この歌詞に合わせるには、なるほど、オペラの舞台を秋色に染めねばなりません。
ということは、チャイコフスキーは原作から変えてでも秋にしたかったのだということになります(単なる勘違いの可能性も否めませんが……)。そこにはどのような意図があるのでしょうか。
まずは、勿論、チャイコフスキーの音楽が哀愁に満ちていて、「夏」よりも「秋」にイメージが合致した、ということは外せないでしょう。
例えば、彼の有名なピアノ小品集『四季 op.37』には『8月』という曲があり、作曲に際して意識した可能性があります。
これはバレエ版でも使われているので(第2幕第2場の Pas de Trois )。ここからクルト=ハインツ・シュトルツェの意向を読み解くことさえできるかもしれません。
ロシアのユリウス暦8月といえば、収穫の季節。この『四季』には曲ごとに詩がついているのですが、8月の詩はこうです。
人々は家ごとに 収穫の準備を
育ったライ麦を 借り入れる支度を始めた
ライ麦の束は 山積にされ
あちこちの荷馬車は一晩中
キーキーと音楽を奏でる
コリツォーフ『収穫』
チャイコフスキーが『四季』を手がけたのは1875-6年。『オネーギン』作曲よりも前のことです(『オネーギン』は1877-8年)。
このことから、彼の頭の中に、「収穫」、即ちこの『8月』のイメージがあったのではないかと考えるのです。
又、ワーナー演出やステパニュク演出にみられるように、収穫しているのがベリー類ではなく林檎なのは、この季節の矛盾を無くす為と考えられるとおもいます。
麦の収穫(9月)の後にベリー類の収穫(6-7月)がくるのはおかしい。だから木イチゴじゃなくて林檎の収穫(10月)に書き換えた……そう考えると、辻褄があう気がしませんか。
最後に
通読お疲れ様でした。意外にも長くなってしまいました!
「そんなこと気にしたこともないよ」という感じかもしれませんが、これで一つ疑問が解消されていたら幸いです。
改めて、オネーギン1幕の季節としてあなたが連想するのは夏でしょうか、それとも秋でしょうか?
それでは失礼します。迫り来る松本オネーギン成功を願って。