こんばんは、茅野です。
先日、イタリア映画を観に行きまして、ついでに積んでたイタリア文学を消費することに。
↑ レビュー記事。現在公開中なので、今のうちに!
その中で、初っぱなから「大正解」を引き当ててしまいまして……。なんと、わたくしが趣味で研究している推しロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下の創作物(?)を見つけてしまう、という大発掘を成し遂げました。
というわけで今回は、イタリア人作家イッポリト・ニエーヴォの描いた「ニコライ2世」について検討します。それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します。
↑ 原語版の表紙。
ニエーヴォの「ニコライ2世」
始めに、問題の記述をご紹介し、その後検討を加えていくことと致しましょう。
件の描写のある作品、イッポリト・ニエーヴォの『未來世紀の哲学的物語』の邦訳は、光文社古典新訳文庫さんの『19世紀イタリア怪奇幻想短篇集』に含まれております。
↑ 一読してひっくり返りました。買いましょう。
長くなりますが、問題の箇所を引用します。イタリア語には明るくないので、前掲書から邦訳も併記しますが、引用がかなり長くなってしまったことをお詫び申し上げます。
Nicolò II, czar di quel tempo, non somigliava per nulla al paziente Alessandro II vincitore del Caucaso ed emancipatore dei servi; egli era di quelli che vogliono rubar il mestiere al tempo e far soli durante il loro regno quello che può forse menar a termine soltanto una lunga e fortunata dinastia. Aver il capo nelle nebbie ghiacciate della Neva e del mar Bianco, i piedi sulle sabbie dorate del Bosforo, una mano sulla China e un'altra sull'Italia, padroneggiar i due mondi e le due Rome, e imporre all'universo intero lo stampo cosacco: era un disegno che non dispiaceva all'erede di Pietro il grande e del primo Nicolò.
I due sovrani, i due papi si scontrarono sul lito della Tauride : Giovanni XXIII, il despota del passato, e Nicolò Il, il dominatore presente, s'intesero con uno sguardo, e le parole che si tennero dopo furono a gratuito schiarimento.« Che volete, Santità ? » chiese il Tartaro incivilito.
« Quello che volete voi, Maestà », rispose il Gran Sacerdote latino.« Vale a dire? »
« Vale a dire che io voglio il dominio del mondo, come me ne danno diritto le bolle de' miei santi predecessori. »
« Per conquistar il mondo, m'immagino che vorrete cominciare da qualche parte »
« Voglio cominciare da Roma! voglio cacciare dalla sede degli Apostoli quegli scomunicati che vi si sono intrusi per consacrarvi l'empietà e la menzogna. »
« Bene; io v'aiuterò a riprender Roma: ma, patti chiari che la mia parte di mondo la voglio conservar io. »
« Ah Maestà, se voleste convertirvi! se... »
« Basta! a questo penseremo poi. Intanto io vi assegno a residenza le ruine di Sebastopoli, e là potrete pontificare a mie spese finche le navi dell'Inghilterra e le mie truppe abbiano aperto la foce del Tevere e le porte della città eterna. Dio sia con voi! »
« E che il cielo benedica le armi di vostra Maestà! » Da quel giorno Sebastopoli diventò la terza Roma o la seconda Avignone, e di colà partivano ogni domenica molti carichi di scomuniche ad uso degli Occidentali.
Intanto lo czar e l'Inghilterra non perdevano tempo. Col pretesto del papa essi erano d'accordo di invadere l'Italia, prender di colà l'abbrivo per rovesciare in Francia il nuovo ordine di cose, e rivolgersi poi naturalmente a dominar l' Alemagna, che, serva abitudinaria della Russia e presa tra due fuochi, non avrebbe pensato a resistere. Lo czar diventava allora l'imperatore universale, il papa di Roma restava un suo vassallo e l'Inghilterra la sua berroviera!当時のロシア皇帝(ツァーリ)であったニコライ二世は、コーカサスの勝利者であり農奴を解放した辛抱強いアレクサンドル二世とは似ても似つかなかった。彼は時間をかけずに、長い幸運な王朝が達成しうることを、自分の支配下で自分の力だけでやってのけようと望む人間であった。黒海とネヴァ川の凍りつく霧に頭をつっこみ、ボスポラス海峡の金色の砂に足を置き、片手は中国に、もう片手はイタリアに伸ばし、両世界と両ローマをひけらかし、宇宙全体にコサックの印を刻みつけることは、ピョートル大帝大王とニコライ一世の後継者として悪くないことであった。
ふたりの君主、ふたりの教皇はタウリカの海岸で顔を合わせた。ヨハネス二十三世は過去の家長であり、ニコライ二世は現在の支配者として、一目で相手の意図を理解した。その後交わしたことばは、とりたてて理由のない解説にすぎなかった。
「皇帝陛下、あなたがお望みになられていることです」ラテン人の偉大な司祭は答えた。
「つまり、どういうことでしょう?」
「つまりわたしは世界を支配したいのです。我が聖なる先達の勅書によってその権利を保障されているのですから」
「世界を征服するために、どこから手を付けたいのでしょうか」
「ローマから始めたい! ローマに入りこんで無信仰と虚偽を祭りあげたあの背教者どもを、使徒の座であるローマから追いだしたい」
「よろしい。ローマをとりもどすお手伝いをいたしましょう。ただし、はっきり決めておきたいのですが、わたしの世界は自分の手に残しておきたいのです」
「陛下、もし改宗なされたいのでしたら、もし……」
「いや結構! そのことは後ほど考えましょう。とりあえずお住まいとしてセヴァストポリの廃墟をお使いください。わが国とイギリスの軍がテヴェレ川の河口と永遠の都の門を開けるまで、そこでわたしの金でミサを執行してください。神があなたと共にあらんことを!」
「そして陛下の軍隊に天の御加護がありますように!」 この日からセヴァストポリは第三のローマあるいは第二のアヴィニョンとなり、そこから毎週日曜日、西欧諸国の生活風俗に対して多数の破門状が発せられた。
その間ツァーリと英国がぐずぐずしていたわけではない。教皇を口実に二国は合意して、イタリアを侵略して、そこから勢いをつけてフランスの新体制を転覆させ、当然ドイツを支配下に置こうとした。ドイツはつねにロシアの従僕であり、前後から挟み撃ちにされては、抵抗など考えられないだろう。そうなれば、ツァーリは全世界の皇帝となり、ローマ教皇はその家来のひとり、英国は衛兵となるだろう!
『未來世紀に関する哲学的物語』橋本勝雄訳 207-9p.
この「ニコライ2世」、強すぎないか……?
しかし、「ニコライ2世」は "強くていい" のです。検討を始めましょう。
『未来世紀に関する哲学的物語』
そもそも、この『未來世紀に関する哲学的物語』とはどのような小説なのでしょうか。
『西暦二二二二年、世界の終末前夜まで』という副題が示す通り、未來を描いたサイエンス・フィクションです。最終的には、フランスの文豪ヴィリエ・ド・リラダンの『未來のイヴ』のように、人造人間が登場したりします。
この物語では、ヴィンチェンツォ・ベルナルディ・ディ・ゴルゴンゾーラという2222年を生きる人物が、この時代に至るまでの歴史を語る、という形式を取っています。「枠」や、オチについては言及を避けます。是非ご自身で読んでお確かめください!
ゴルゴンゾーラの物語に、「第二巻 リュブリャナの講和からワルシャワ連合(一九六〇)まで」という章があり、この中に先程の引用部が含まれています。
この『未来世紀の哲学的物語』が発表されたのは1860年です。つまり、本当の著者イッポリト・ニエーヴォは、1860年以降の歴史は知り得ていないことになります。従って、この物語で描かれる大部分は、史実に基づかない創作、ということになります。
しかし、先程の引用部は1860年から1960年を物語る巻の一部であり、彼にとっては数日後の未來から予想した「近未来」ということになります。従って、この時代の描写に関しては、史実からの逸脱が少なく、時代考証を行うに値すると考えられる為、検討を進めます。
年代の推定
引用部の具体的な年代について考えます。
引用部の直前に、「フランスの皇帝が亡くなった(Le cose stavano in questo modo quando l'imperatore dei Francesi venne a morire, )」という描写があります。普通に考えれば、1852年に即位していたフランス皇帝ナポレオン3世を指すでしょう。
一方、その「フランス皇帝」が亡くなった後に即位するのが「ナポレオン5世(Napoleone V usci in Alemagna ad attendervi la rivincita)」とあるので、実際には23歳という若さで戦死してしまうナポレオン4世である可能性が高いと考えられます。
実際のナポレオン3世が亡くなるのは1873年、64歳の頃です。当時の平均寿命などを考えても、特段驚くような年齢ではありません。
また、描写を読むに、先程の引用部は、この直後の «Venti anni durò questo nuovo diluvio» «Verso il 1920 due potenze troviamo colossali in Europa» などの描写から、遅くとも1900年よりも前であることを特定できます(掻い摘まんで説明すると、1920年に至るまでの20年の話が直後に来るので、1900年よりも前である、と特定できます)。
このことから、未來を知り得なかったニエーヴォとしても、ナポレオン4世は早逝する運命にある、と踏んでいたのかもしれません。大した未来予知です! 唯一の差異は、彼が子さえ成すことなく早逝してしまったということだけでしょうか。
「ニコライ2世」
ニエーヴォが書いた「フランス皇帝」が誰を指し、どのような死を遂げたのかは、はっきりとはわかりませんが、一方でロシアに関しては確定的なことが言えます。何故ならば、1860年当時、既に「ニコライ2世」と呼ばれるべき人物が実在していたからです。
我々がよく知るニコライ2世……ではありません。彼は1868年の生まれで、この当時は生まれておりませんし、ニエーヴォがそのことを知るはずもないからです。
ではその「ニコライ2世」とは誰なのか。それが、ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下です。
↑ 殿下って誰? という方はこちらから。
殿下は1843年生まれ。従って、1860年には17歳と花の盛りにあります。引用部にも出て来るアレクサンドル2世は殿下の父にあたり、彼の長男です。帝位継承者であり、皇太子でしたから、アレクサンドル2世が崩御した際には、彼が即位し、「ニコライ2世」を名乗ることになるはずでした。
前節にて、「引用部の舞台はどんなに遅くとも1900年」と記しましたが、殿下はもし存命なのであれば、1900年に57歳となるので、存命であってもなんらおかしくはない年齢です。
従って、ニエーヴォが『未来世紀の哲学的物語』で描いた「ニコライ2世」とはニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下のことである、と考えることができるわけです。
ニエーヴォが実際に殿下をどれくらい知っていたのか、ということについてはよくわかっていません。殿下は実際にイタリアの各地(ヴェネツィア、ミラノ、トリノ、フィレンツェ)を訪れますが、それは1864年のことで、ニエーヴォは知り得ませんでした。
しかしながら、ニエーヴォは彼の性格や能力について、ほんの少しは知っていたのではないか、とわたしは推測するものです。
ニエーヴォは、この「ニコライ2世」を、自らの意志と能力をもって全世界を統べる、とんでもなく「強い」人間として描写しました。そして、我らが殿下、実際のニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下は、それができてしまいそうなほど、恐ろしく有能な人物であったからです。
前掲の記事や、殿下に纏わる記事群で詳しくご紹介していますが、殿下は大ロシア帝国の皇太子という出自もさることながら、あらゆる分野での才能に恵まれ、見目麗しく、人柄もよく、誰からも愛されたという非の打ち所の無さで、同時代人からは「完成の極致」とまで呼ばれていた伝説的人物です。勿論、そんな殿下ですから、イタリアを含む諸外国の王家からも尊敬の念を勝ち得ていました。
殿下は啓蒙主義的な思想を持ち合わせていた人物で、力によって全てを征服する、という野心を持っていたわけではありません。しかし、自国ロシアに対して反乱を起こしたポーランドや、同胞スラヴ民族を「隷属」させていたオスマン帝国に対しては激しい怒りを抱いており、彼らに対しては好戦的であったこともわかっています。
クリミア戦争を敗退したロシアは、当時軍事力に特段優れていた、というわけではありませんでした。しかし、そのことを誰よりもよく理解していたのは、勿論殿下です。殿下は軍事学を修め、少将の位を持っていた歴とした軍人でもあり、皇太子・皇帝として「机上」で行うような統制のみならず、城塞建築や砲学など、実践的なことまで造詣が深かったことがわかっています。
その殿下が、その才能を持ってして、仮に、全世界を征服しようという大きな野望を抱いたとしたならば。もしかすると、不可能ではないのかもしれません。ニエーヴォの『未来世紀の哲学的物語』は、そんな「殿下の生存if」の一つとして読むことができるかもしれない、そんな作品なのです。
つい「生存if」だなどと口を滑らせてしまいました。現実ではどうであったか。
1864年にイタリアを訪れた殿下は、フィレンツェの地で倒れてしまい、療養地として高名であったフランスのニースに搬送されます。しかし、回復することなく、翌年1865年の4月に21歳の若さで薨御してしまうのです。結核性髄膜炎でした。ニエーヴォも、彼がこんなにも早く亡くなってしまうこと、しかもよりによって祖国イタリアの地で卒倒してしまうことを知ったら驚くことでしょう。
そのことすらニエーヴォは知り得なかったのです。何故なら、彼自身、1861年に事故死してしまうからです。もしあと3年長く生きていたら! 実際の殿下を見る機会があったかもしれませんし、そこから新たなる物語が生まれた可能性だってあります。二つの才能が早くに失われたことを、後世の我々は惜しむことしかできません。
『未来世紀の哲学的物語』で描かれる「未來」は、現実とはかなりかけ離れたものですが、現実とは異なるが「有り得そうだった未來」を描く近未来と、SF色が濃くなっていく遠未来、どちらも大変楽しめる作品となっています。
「ナポレオン5世」など、近未来編でも実在すらしない人物が登場したりはしますが、「ロシア皇帝ニコライ2世」に関しては、我らが殿下の未来の姿、と考えることができます。
是非とも、どこまでが史実、どこまでが「有り得そうな未来」で、どこからが明確なフィクションなのかと、考えながら読んで頂きたい作品です。
最後に
通読ありがとうございました! 突発・単発記事、そして一気書きにもかかわらず、殿下関連ということで熱が入ってしまい、8000字というボリュームに。
しっかし、57歳の殿下、かあ……。全然想像つきませんね。いえ、寧ろ全世界を統べる殿下、というのは想像がつきます。殿下ならやりかねません。というか寧ろ、殿下の統治下にある人々が羨ましいと申しますか、どの時代のどの国のどの君主よりも、殿下の支配下は一番安心できる場所なのではないかとすら思います。ニエーヴォの創作というのが悔やまれるレベルです。この物語が当時受容されていたということは、イタリア人たちとしても「殿下ならやりかねない」とおもっていたのでしょうか……。その思いは実際の彼のイタリア訪問で強化されることでしょう。相変わらず本当に恐ろしいお方だ、殿下……。
たまたま手にとった小説で、いきなり殿下らしき人の創作が出て来るので、ひっくり返ってしまいました。なんという運命でしょうか! これもマニアックな点まで掘り下げてずっと殿下のリサーチをしてきたオタ活の賜物……ということなのでしょうか!?(※偶然です)。嬉しい出逢いに狂喜しています。読んで良かった……。
懲りずにまた殿下関連の記事を書きたいと思います。好きなので……。その際はお付き合い頂けると幸いです。
それではお開きとしたいと思います。また別記事でお目にかかれれば幸いです!