おはようございます、茅野です。
夏休みに入りました! が、色々やってます。ただ、学校行っている時よりは流石に時間に余裕があるので、趣味のほうも頑張っていこう! ということで、資料翻訳記事を書いてみようとおもいます。今回はクランコ版『オネーギン』についてです。
『Theatre in my Blood - A biography of John Cranko』という書籍をご存じでしょうか? わたしも教えて頂いて知ったのですが、副題通り、振付家ジョン・クランコの伝記本です。邦訳はまだ無し。
↑ こちら。ドロシー・ジッペル画のクランコが表紙。暗闇で見るとちょっと怖い。
結構前に手に入れていたのですが、学業とサークルと両立させながらハードカバーで248ページもある英文を読む体力がなかった……。ということは、つまり、訳す体力もなかった……。
ということで、夏休みとなった今、オネーギンに纏わるところだけ抽出して訳していこう、というのが本記事の趣旨になります。長いので、第一回は作品概要編です。次なる第二回は作品上演編になるとおもいます。
全文が気になる人は自分で買って読んでください。
邦訳を所望の方はプロにお仕事依頼してください。
それでは始めたいと思います。抜き出しで訳すので、直訳というより、訳す箇所の前に書かれた情報などを織り込みながら書いていきます。アンダーライン箇所は、文末に灰色で訳注を付けています。誤訳ばっかりだったらすみません。
90p - オペラ版の振付
クランコは多くの野心的な事業に関わっていたが、当初彼は別のオペラ作品内のバレエに興味を持っていた。 1952年5月22日にサドラーズウェールズ劇場で上演予定のチャイコフスキーの『エヴゲーニー・オネーギン』である。
第一幕の農民の踊りは、必ずしも本場ロシアの伝統的なものではなかったが、活気に溢れていて、特に観客に愛された。第二幕では、タチヤーナの誕生日パーティーを一幕に続いて活気に溢れさせた。しかし第三幕の壮大な舞踏会では、形式張っていて、堅苦しい雰囲気を演出した。クランコはこのオペラ作品を愛しており、それは最も成功したバレエの一つに繋がる―――それまでに13年もの年月が必要であったが。
92p - 構想
ヘンリー・オン・テムズでは、クランコはケネス・マクミランを振付の世界へと誘った。(中略)
ここでの最も野心的な作品は『忘れられた部屋』だった。シューベルトの幻想曲ヘ長調を使った、ロマンティックな作品である。 (訳注: へ短調の間違い?)
オズバート・ランカスターは、ヒロインの若い女性が、本に夢中になるあまりその本の世界の住人となり、本の主人公と踊るというストーリーを創作した。話の最後では、彼女の姉妹か友人が、彼女を呼ぶためにやってきて、椅子の上で彼女の死体を見つける。
この作品はマーガレット・スコットとピーター・ライトの為に創られた。また、『オネーギン』でのタチヤーナが手紙を書くシーンに影響を与えたと考えられる。 (訳注: 第一幕第二場。鏡の中からオネーギンが現れてタチヤーナと踊る"鏡のPDD"が上記作品の内容と合致する。)
173-5p - 構想と編曲について
クランコは、『カルタ遊び』を創作したのち、新しい3幕バレエ『オネーギン』に取りかかった。サドラーズ・ウェールズ劇場でチャイコフスキーのオペラの中のバレエを手がけた時から、何年もの間彼はこのプーシキンの長詩をバレエ化するという考えを温めていた。
シュトゥットガルト・バレエのアメリカツアーの際、彼はボストンのインタビュアーに「わたしはこの作品がとてもバレエに適していると感じた」と語っている。彼は各幕で対照的なダンスを振り付けられることを好んだ。「農民の踊りから始まり、タチヤーナの誕生日パーティで中産階級を描き、最後には貴族たちの宴となる。第二幕では、非常に凝ったPas de Quatreを挿入した」。 (訳注:正しくは名の日の祝い)
別のアメリカのインタビュアーに、彼はオペラ制作の際に原作の長詩を読んだこと、そして「『オネーギン』がわたしを魅了したのは、それが神話的であり、物語に感情的妥当性があるからです。退屈しきって世界に何の興味も持てない一人の男は、"醜いアヒルの子"を見逃してしまいます。それが"白鳥"へ変わったとき、彼は突如彼女に戻ってきて欲しいと願いますが、彼女はその男がほんとうは空虚で退屈であることに気がつくのです。彼女の感情は『彼と共に生きたい!』と訴えますが、彼女の理性はその要求を撥ね除けます」と語った。
クランコは、私(本の著者)にチャイコフスキーのオペラで最も魅了されたのはグレーミンのアリアであると教えてくれた。彼は、最初の構想でこのアリアを愛のデュエットのバレエにしようと考えていた。
彼はオペラの曲をバレエで使おうと考えていた。また、コヴェント・ガーデンのマーゴ・フォンテインとルドルフ・ヌレエフの為に振り付けるという話も出ていた。しかし、コヴェント・ガーデンの理事会はオペラの曲をバレエに使うことについて一切聞き入れなかった。それはシュトゥットガルト・バレエ団のワルター・シェーファー総合監督も同様だった。そこで、クルト=ハインツ・シュトルツェは、オペラからは一小節も用いず、同じチャイコフスキーのあまり知られていない曲から全く新しいスコアを作り出すと約束した。
彼はこの事業をどのように行ったのかを次のように説明した。
「私の仕事は大規模な音楽を作り上げることでした。ドラマティックな物語に対応させなければならない一方で、踊りの為に短い曲を組み合わせる必要がありました……踊りを解しての物語の再解釈のためにです。
よって、チャイコフスキーのピアノの小品を多く使用しました。この試みは上手くいったと感じています。実際、このバレエ組曲の3/4がピアノの小品です。『四季 op.37』は特に使いやすく、『オクサーナの気まぐれ』からはアリアを2曲、合唱を1曲と器楽曲を幾つか用いた為、これらが作品の大部分になりました。(訳注:チャイコフスキーのオペラ『チェレヴィチキ』の一部のこと)
『ロミオとジュリエットの二重唱』は、第一幕第二場でのタチヤーナとオネーギンのPDDの主題となり、『フランチェスカ・ダ・リミニ』の第二楽章を第三幕第二場のPDDの主題として用いています。
ワルツ、マズルカ、ポロネーズなどは、ピアノ作品が元になっています。
バレエの特性として、連続性を持たせねばならなかったため、異なる曲を繋ぎ合わせ、幾つかの曲はライトモティーフのように使用しました。人物が再登場する際、ハーモニーとリズムを少し変化させています。幾つかのシーンでは、作品の冒頭で用いられた楽曲を変化させて使っています。わたしは、チャイコフスキーのオーケストレーションから離れすぎないことが重要であると感じました。 (訳注: 主導動機。特定の人物や状況を表す短い主題のこと)
それと同時に、トゥッティ効果に頼りすぎないことも重要であると思いました。この作品には、チャイコフスキーが手がけたバレエ音楽のような壮麗なものよりも、基本は室内楽のような編成でオーケストレーションを行い、曲のクライマックスや最後にフルオーケストラで奏でることの方が合っていると感じました。 (訳注: 全体合奏。全演奏者が演奏すること)
その結果、熟練の音楽家たちのもとで、全く新しいチャイコフスキーのバレエ組曲が再現されたのです。作曲家の意図が尊重されている、『くるみ割り人形』や『眠りの森の美女』と同等の質とは言えませんが(『白鳥の湖』は自称 "改良者" の手でねじ曲げられています)、それでも他のほとんどの現代のバレエ組曲よりも遙かに良質で、ジョン(・クランコ)の目的のために創られた理想的な作品になったと自負しています」
このバレエは、観客がプーシキンに精通していなくとも、物語を明確に伝える。重要な問題の一つである、タチヤーナが手紙を書くシーンは、彼女の夢という形で解決された。即ち、照明が変化し、タチヤーナの想像力がオネーギンを具現化させる。二人の踊りは実際に彼らが会ったときよりも、よりロマンティックで熱烈である。彼は夜明け前に立ち消えて、彼女は書き終えた手紙を乳母に手渡す。
尤も、この物語の筋は悲劇的であるが、クランコはプーシキンに続いて沢山のユーモラスな人物や場面を挿入した。それらは疲れ切って憂いを帯びたオネーギンのキャラクター性と対を為し、多くの人物、特にタチヤーナに喜びを与えている。
クランコが創造した劇的な手法の中には、タチヤーナとオリガの姉妹が鏡を用いた占いを行うというものもあった。これは将来恋人となる人を予見するもので、渋々これを行ったタチヤーナは、鏡の中に現れたオネーギンを鏡越しに覗き見るのである。
又、四人のプリンシパル(オネーギン、タチヤーナ、レンスキー、オリガ)以外にソロパートはほとんどない。その他は、乳母(フィリピエヴナ)とラーリナ夫人(タチヤーナとオリガの母親)―――貴重な年配のダンサーの為の役で、ヘラ・ハイムとルース・パペンディックの為に振付られた―――、そしてタチヤーナと結婚するグレーミン公爵のみである。しかし、彼らにも重要な役割があり、場を繋ぐ幕間の演技にも登場するため、このバレエ作品は決して小規模には見えない。
第二幕の最後は非常に劇的だ。ラーリン邸でのパーティでは、コール・ド・バレエはコミカルに描かれる。部屋の隅で、彼らの出逢い、戯れ、混乱、小さな冗談は盛り上がる。それらを背景にして、向こう見ずで非道徳的なオネーギンの行為はレンスキーとの口論を引き起こし、決闘の申し込みと共に一気に冷ややかな雰囲気が漂い始める。
決闘は、影絵効果を用いて、ぼんやりとした霧の中に二人の男がかすかに見えるような演出となった。この自然で劇的な挑戦と決闘の後、クランコは短く、だが熱狂的で悲嘆に暮れた二人の姉妹(タチヤーナとオリガ)の表現力豊かなシーンを挿入した。このシーンは何か別の場面とは全く違う雰囲気に満ちていて、この場面に完璧に合致している。
最大の盛り上がりは、勿論最終幕であり、オネーギンとタチヤーナのPDDが踊られる。彼らは役割を変えており、今ではオネーギンは哀れな嘆願者で、タチヤーナは高慢な拒絶者となっている。しかし彼女は感情と理性の二つの間で揺れ動き、最後の選択のその瞬間まで、行動を律することがどれほど難しく、悲劇的であるかを表現する。
このバレエは、特にマルシア・ハイデにとっての完璧なはまり役で、この作品を通して成長する大変説得力のあるキャラクター像を創り上げた。しかし、全ての役は大変作り込まれており、オリジナル・キャストとそれを何年も熱心に追いかけ続けた後年のダンサーの双方に素晴らしい機会を与えている。
『オネーギン』は、20世紀最大の物語バレエと言って過言ではないだろう。
終わりに
To be continued……ということで、ひとまず『オネーギン』の概要について触れられている箇所を訳出してみました。この間の文芸翻訳(物語詩)よりマシですが、やっぱり翻訳は疲れる……。
↑ 例の物語詩翻訳記事。しぬかとおもった。
クランコが特にグレーミンのアリアが好きだったとは初耳です。Любви все возрасты покорны...良いですよね……わかる……。
文中、クルト=ハインツ・シュトルツェの音楽に関する発言がありましたが、一応クランコ版オネーギンの使用楽曲一覧については過去に纏めているので、併せてご覧下さいませ。こちらを書いていたおかげで、訳しながら大分文意掴みやすかったです。
というわけで、5000字超えてしまったので一旦この記事は閉めたいと思います。
それでは、皆様クランコ版オネーギン、楽しんでください。
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