こんばんは、茅野です。
大幅改筆に際して軽く改めてご挨拶を。こちらは2017/2/9に書いた記事に大幅改筆を行ったものです。(2017/7/28現在)
色々追記したので是非改めてお楽しみ下さい。では。
原語主義とはなにか
折角なので、真面目な話をしましょう。
原語主義とはなんでしょうか。クルアーンなんかの話題で耳にしますでしょうか。
原語主義とは、その名の通り、「それが書かれた言語で楽しもう」ということです。
多言語主義との重複する部分があるでしょうか。
"世界観警察"は間違いなく、それです。世界各国の言葉をマスターしないとやっていけない、原語主義者の気質がある。
でも、こんなお堅い言葉じゃなくとも、例えば映画を見ているとき、「吹き替え版のコレジャナイ感」みたいなのにブチ当たったり……なんて経験はないですか?
それがまさしく原語主義です。
私はオネーギンの映画版で、オネーギンが英語で"I love you."って言っているのを聞くことに著しい違和感を覚えますし、『Everybody's Gone to the Rapture 幸福な消失』でスティーブンが「わからないのか!?」って言っているのもしんどい。「なんかちがう、そうじゃないんだよ……」と思ってしまいます。
世界観的原語主義とはなにか
こちらはお察しの通り、私が作った造語です。
そもそも、「世界観」とはなにか?という方はこちらを参照してください。↓
簡単に述べると、当ブログでわたしが再定義した「世界観」は、「世界の成り立ちや歴史、文化、大衆的な思想や生き方など、その世界における総体的な事柄を客観的に捉えていう言葉」です。
厳密な原語主義については、先ほど述べたとおりです。では、こちらはどうでしょう。
例を出しましょう。
例えば、屍者の帝国という書籍があります。伊藤計劃氏と円城塔氏の共作で、勿論日本語で書かれています。
しかし、登場人物はイギリス人、ロシア人、アメリカ人らが主であり、作中で話される言語は英語であると言及があります。
この場合、従来の原語主義者が好むのは何語でしょう? そうです、日本語です。
しかし、この「世界観的原語主義者」は違います。彼らはこの作品を英語で楽しむことを好むのです。
わたしは、どうもこの世界観的原語主義のきらいがあります。書かれた言語が何であれ、その世界に没頭する為には舞台となる国の言葉で楽しむのがよい、と考えています。
あなたは如何でしょう。原語主義と世界観的原語主義、どちらがよりあなたの考えに近いでしょうか。
しかし、最近はやはり厳密な原語主義に立ち返るべきではないか、と考えることがよくあります。というのは、誤訳の問題です。
弊ブログ『世界観警察』では、多言語対応を目指し、翻訳された資料を載せることがあります。
わたしは決して語学力が高いわけではありませんが、それでも目に付くミスは沢山あります。
例えば、『Armored Core Verdict Day』の死神部隊リーダー、J。彼は日本語ではかなりぶっきらぼうな口調ですが、フランス語ではまさかの敬語表記。
これは確信を持って言えますが、恐らくACのラテン語派生言語は、日本語からではなく英語からの翻訳を行っています。確かに、日本語からやるよりは楽かと思いますが、原作とニュアンスがまるで違うようでは……。(ちなみに、フランス語はともかく英語の翻訳はとても精度が高く、自然で素晴らしいことを報告致します。)
このように、ひとたび翻訳に失敗すると「公式の翻訳でキャラ崩壊」のような悲劇が起こりかねません。翻訳は難しい事業なのです。
言語というのは、一つ一つに、その国や地域の歴史や文化と強く影響しあった切っても切れない縁があります。
ですから、世界の言語を統一しようとか、そういうのは無謀だし、ナンセンスだということなのですね。
言語が別れている以上、結局頭の中で母国語に置き換えるとしても、それは別によいことなのです。だってそんなこと言ってたら、それは即ち「海外の作品はやるな」ってことになるではないですか。問題は、"その作品"が"その言語"であるということなのです。
当方は、なんだかんだ語学の道を歩んでいるので、翻訳とかそういうのものに大変興味があります。各国の言語の違いとか、そういうのを比較して遊ぶのが大好きです。
前述の通り、原語主義者だからといって、他国に輸出しちゃいけないということではないのです。ただ、理解出来るように、そしてなるべく原語に近くなるように落とし込むのも立派なことです。
原語主義はやはり宗教や国際関係が絡むこともあり、結構複雑な問題を抱えています。
ですから、我々に求められているのは、正しい理解なのです。
そもそもこの言葉は、比較的言語同士が似ている西洋で出現した言葉なのであって、他のどの国の言語にも似つかない日本語がどうこうするような問題じゃないのです。もう日本語が母国語である時点で諦めるしかないのです。日本語万歳!だから翻訳しよう!
日本の原語主義者にとっても、そう言うしかないのです。英語や中国語など、まだ親しみのある原語ならともかく、チェコ語とか出てきたら適わないじゃないですか。日本語訳は理解するのに必要、でも、それより原語の方がよいと。
思うに、原語主義者の翻訳家というのはきっと存在すると思います。「だからこそ」という意味合いで、です。その気概はとても大事だと思うし、わたしもゆくゆくはそうありたいと思っています。
最後に
先の話と絡めますと、他言語で書かれた作品を母国語に直すことは、原語主義という観点で見ても必要である。
原語主義とは別に、世界観的原語主義という考え方が存在する。これは、物語の舞台となる世界の言語を尊重する思想である。
如何でしょうか。これらの考えにご理解頂けるとわたしはとても嬉しいです。
それでは、あなたに良き邦訳文のあらんことを。