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きっとあなたが世界を変える - 歴史政治雑記

 こんばんは、茅野です。

今年は珍しく友人と初詣に出掛けるなど、新年らしい行事も行いました。皆様は如何お過ごしでしょうか。

 

 さて、今回は、いつもお世話になっているはてなブログさんの特別お題に乗っかる形で一筆やってみようとおもいます。なんと今回のテーマは「わたしの推し

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 既に弊ブログでは散々推しの魅力をご紹介しておりますので、今更何を纏めることがあろうかとも思ったのですが、折角ですから便乗したいところ。しかし、わたくしがただ単に推しへの愛を叫んでいても気持ちが悪いだけなので、推し関連の記事にはなりますが、お題に沿わせる形ではなく、今回は「きっとあなたが世界を変える」と題しまして、推しと「同じ属性」な人々をピックアップしてご紹介してゆきたいと思います

 わたくしの推しとは誰か、それは勿論ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下です。今回取り上げる「同じ属性」とは何かと申せば、「次期統治者になることが決まっていたが、その座に就く前に急逝してしまった人」とします。個人的な興味が19世紀に偏っているので、今回は19-20世紀から。

誰もがその人の統治を期待していたのに、その未来は訪れない。絶たれた希望は空しいものですが、しかし今、過去を振り返って、その統治について一考加えることはできます。もしも、その不慮の事故や病がその身に降り掛からなかったとしたならば? ―――きっとあなたが世界を変える。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

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仏:ナポレオン2世、ナポレオン4世

 まずはフランス帝国ボナパルト朝から。「ナポレオン2世」ことライヒシュタット公、「ナポレオン4世」ことナポレオン・ウジェーヌ・ルイ皇太子殿下です。

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↑ まだ写真がなかった時代。画風からも時代(19世紀前半)を感じますね。

ナポレオン2世は、皇帝ナポレオン1世の実子です。肖像画を見る限りだと、父には全然似ないので、恐らくは母マリー・ルイーズ似なのでしょう。お誕生日は1811年3月20日、忌日は1832年7月22日です。

 

 そしてこちらがナポレオン4世です。

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↑ 残っている最も有名なお写真が軍服ではなく燕尾というのが第二帝政っぽくて良いですね……。

お誕生日は1856年3月16日、忌日は1879年6月1日です。父はフランス皇帝ナポレオン3世

 

 「ナポレオン」といえば、奇数代です。革命と共に颯爽と現れ、全ヨーロッパをも支配するやと思われた偉大なる皇帝、ナポレオン1世。再びフランスを帝政とし、その版図を拡大させ、美しいパリを創り上げたナポレオン3世

しかしながら、2世と4世についてはほぼ全く知られていません。何故ならば、不運な運命に見舞われ、二人とも早逝してしまったからです。

 尤も、奇数代の息子が成長する頃には、第一帝政第二帝政も落陽の時頃であり、仮に彼らが逞しく成長していたとしても、帝位を継承できたかどうかについてはわかりません。それこそ、ナポレオン3世のように、クーデターの一つでも成し遂げなければならないかもしれません。

 とはいえ、偉大なる皇帝の子息の存在はとても重要なもの。特に、フランスではボナパルティストたちも大勢いましたから、担ぎ出され、帝位に!……という可能性も十二分にあります。

 

 ナポレオン2世は、幼少期に父ナポレオン1世が退位した為、フランス帝国の皇太子でありながら、オーストリア帝国で育ちました。母の祖国ではありながら、フランスとの関係は複雑であり、公も幼いながらにそれを感じ、孤独な幼年期を過ごしたといいます。オーストリアでは、彼をできるだけフランスから引き離すよう養育され、称号も「フランス帝国皇太子」ではなく、「ライヒシュタット公」となります。尤も、父ナポレオンに対する憧れは非常に強く、フランスを快く思わない周囲に父のことを尋ねては閉口されていたといいます。

語弊を恐れずに言えば、彼は「自分の立場をよく知らず、幼少より敵国で育てられた皇太子」。「現実は小説よりも奇なり」な彼の人生は非常に物語的であり、今でも一部の歴史愛好家に深く愛されています。

 

 ナポレオン2世は身体が弱く、出生に際しても最初は死産かと思われたほど。気品ある王子として成長したものの、その病弱さを克服できず、21歳で結核の為薨御します。既にフランス帝国は瓦解していましたが、これを再興せんとする志があり、またその能力にも恵まれていた為、結核にさえ罹患しなければ、現在の世界史とは違った未来が展開されたことでしょう。

 

 続いてナポレオン4世について。彼はナポレオン3世の長子であり、フランス第二帝政の皇太子でもありました。14歳の頃、第二帝政は崩壊しますが、ライヒシュタット公同様、ボナパルティストからは期待の篭もった眼差しを向けられていました。

 ナポレオン4世もまた、優秀な頭脳の持ち主でしたが、温厚で寡黙な人物であり、父のように大胆にもクーデターをするような性格ではありませんでした。帝位を継がないとしても、その将来を嘱望されましたが、23歳の頃、アフリカ出征に参加し、なんと戦死。皇太子自らが最前線に乗り込むことの危険性がよくわかります。

 

 ナポレオン偶数代については、その知名度に応じて資料も少ないですが、日本語で入手も容易に読める名著があるのでご紹介しておきますね。

↑ 新書で読みやすいですし、めちゃくちゃ面白いので是非。

 

露:ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子

 続いてご紹介するのが、我らが殿下、ロシア帝国ロマノフ朝)の皇太子、ニコライ(ニクサ)・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下です。

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お誕生日は1843年9月20日ユリウス暦8日)、忌日が1865年4月24日(ユリウス暦12日)です。父は「改革者皇帝」アレクサンドル2世。

 

 殿下の一番の特徴は、その非凡な才能です。同時代人や研究者の評では、「優れた君主に必要な素質を全て備え」ており、名は体を表すと申しましょうか、付いた渾名は「完成の極致」。天才的に聡明で、真面目でありながら快活な性格、美しい相貌と体躯、祖国と国民に対する深い愛があり、統治に対する熱意も十二分、老若男女・身分・国籍等問わず誰からも愛されたという、正に非の打ち所の無い人物です。「もし彼が帝位に就いていたならば、ロシアの歴史は100年進んだ」とさえ言われております。

実際、同時代のイタリア人作家イッポリト・ニエーヴォは、もし彼が帝位に就いていたならば、世界征服だって成し遂げかねない、と考えていたようです。

↑ まさかの「推し生存if」。能力が高すぎるので、フィクションには向かないだろうとおもっていたら、更に強くなって登場。オタクもビックリ。

 

 当時としては大変開明的な思想を持っており、女性も含む全階級への無償教育の徹底や、体罰の禁止などが主な信条で、必ずや父の大改革を引き継ぐと考えられていました。一方で、祖国ロシアに敵対的な諸外国には容赦がなく、ポーランドオスマン帝国に対しては好戦的な態度も取りました。

 殿下の美点は星の数ほどありますが、一番恐ろしいのはその対人スキル。政敵や、諸外国の王・官僚まで魅了し、自分の味方に付けてしまうという特殊能力を持っており、自分に惹き付けることで敵を無力化します。その現実離れした威力の高さにはライトノベルだって青くなって逃げ出すことでしょう。

事実、政敵ドン・コサックの将軍を懐柔してしまったばかりか、後のプロイセン国王ヴィルヘルムには孫の如く可愛がられ、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレも彼の才能に驚嘆しています。バイエルンルートヴィヒ2世に至っては、彼に会うとべったりくっついて離れなかったとか。側近や友人など身近な人々に至っては、皆彼への愛を拗らせまくっており、今風に言えば「メンヘラ」や「ヤンデレ」と言っても全く過言ではありません。

↑ 殿下への愛を拗らせすぎた人々をご紹介した「限界同担列伝」シリーズ、全7話です。現代にも通ずる、笑える面白エピソード集となっておりますので、良かったら!

 

 そんなニクサ殿下ですが、17歳になる頃、軍事演習中の事故で背中を強打し、外傷が原因で脊椎結核に罹患。鋼の意志で痛みを克服し、病を隠し続けますが、病が進行して脳に達し、結核髄膜炎を併発して倒れてしまいます。酷く苦しんだ後、フランスのニースにて、21歳の若さで薨御されます。21歳で結核による死、というのは前述のライヒシュタット公とも共通します。

殿下の死は事故を切っ掛けとするものであり、生来身体が弱かったわけではないため、「もしその事故さえ無ければ……」とするだけで「生存if」が成立してしまうのも魅力の一つですね。

 

 ニエーヴォは「世界征服だってやり遂げかねない」と考え、研究者も「100年歴史が動く」と言うニクサ殿下。その治世は必ずやロシア帝国の未来を輝かしいものとし、世界一の偉大な皇帝としてその名を遺したことでしょう。

 

 殿下については、資料が少なく、日本語で読めるものは希少です。そんなわけで、不肖わたくし、資料を翻訳したりご紹介したりと、色々記事を書いているので、もしご興味を抱いて頂けましたら一読ください。共に同担になりましょう(?)。

↑ 殿下……すきだ……昨年は色々書けて幸せでした。今年も書きたいです!!

 

墺:ルドルフ皇太子

 次いで、この記事の中では恐らく最も知名度が高いであろう、オーストリア=ハンガリー帝国ハプスブルク家ルドルフ皇太子殿下です。

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お誕生日は1858年8月21日、忌日は1889年1月30日です。父は皇帝フランツ=ヨーゼフ1世。前述のニクサ殿下とは15歳差、ナポレオン4世とは2歳差です。

 

 あの高名なハプスブルク家の皇太子ですが、一番有名なのはその謎に満ちた死について。彼もまた「現実は小説よりも奇なり」な人生を送った一人であり、その数奇な運命は芸術家の心をも動かし、『Mayerling(うたかたの恋)』として、小説化、映画化、バレエ化、ミュージカル化などを果たしております

 

 父フランツ=ヨーゼフの治世は非常に長く、また保守的でした。隣国ロシアのクリミア戦争などを見れば明らかなように、19世紀に於いて保守政策を取ることは敗戦を意味しましたし、国民の教育レベルも低迷しました。それにも関わらず、フランツ=ヨーゼフはその保守政策を崩すことはしませんでした。

 ルドルフ皇太子は、そのことを気に揉んでおり、幾度も父に働きかけますが、全く相手にされません。祖国の破滅が見えているのにそれに従わされる生活、望まぬ結婚、……と心労が重なり、逃避して放蕩生活を送るもそこで梅毒に罹患……と悪循環。病の痛みから逃れるためにモルヒネを常用し、薬物中毒にもなってしまいます。

 

 ルドルフ皇太子はそんな人生を倦んでいましたが、臆病な性格で、一人で死ぬことはできませんでした。そんななか出逢ったのが、「運命の女性」マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢。彼女は皇太子に破滅的な恋をしますが、一方の皇太子は、研究では、彼女に惹かれつつも、第一の目的は心中の相手を得るために近づいたのだと考えられています。

30歳になった或日、彼はヴェッツェラ令嬢を伴い、ウィーン郊外のマイヤーリンクに赴きます。深夜、遺書を認め、彼女を銃殺した後、自らの頭蓋にも銃弾を食らわせて命を絶ちます。

 

 ルドルフ皇太子は取り立てて優秀な人物ではありませんでしたが(個人的な意見を述べさせて貰えば、それは教育カリキュラムに依るところも大きいと感じます。オーストリア帝国のカリキュラムは、帝王教育に際してでさえ、あまりにも保守的すぎるのです)、国民からの人気は高く、尊敬の念を集めていました。

 思想も開明的であり、プロイセン及びドイツ帝国に頼り切る形ではなく、フランスやロシアとももっと接近し、自律した帝国になるよう構想していたとも言われています。尤も、そうですね、生存ifを考えるならば、その親露思想や、持て余していたハンガリーを交渉材料に、ニクサ殿下に攻勢を仕掛けられるかもしれませんが……(殿下が存命なら本当にやりかねないと思います)、それは見た過ぎるif、ですね!

 ハプスブルク家皇太子という立場上、場合によっては、その死さえなければWW1開戦を回避できたかもしれません。大きく変動する未来を思い描くのもまた、一興でしょう。

 

 ルドルフ皇太子についてよく纏まっている書籍といえばこちら。

↑ 大変読みやすいです!

 また、バレエ化作品が傑作で、特にこのスティーヴン・マクレイ主演のものは素晴らしいの一言に尽きるので、是非ご鑑賞ください。全く情報なくいきなりBlu-rayを買っても後悔させない自信があります。

↑ 大傑作。特に音楽が素晴らしく、こちらで解説しています。ご興味あれば参考にして下さい。

 

米:ロバート・ケネディジョー・ケネディ

 時代は飛んで20世紀。わたくしも一推しの政治家、新大陸アメリカ合衆国より、ロバート・フランシス・ケネディ(RFK, ボビー)をご紹介します。

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ご存じのように、アメリカは王制や帝政ではありません。従って王家も存在しないのですが、ケネディ家は超名門として知られ、アメリカの王家」と喩えられることも少なくありません。ロバートは司法長官や上院議員を歴任し、大統領選に出馬、当選も確実かと思われた矢先に亡くなりました。お誕生日は1925年11月20日、忌日は1968年6月6日です。

 

 ケネディ家、といえば、もちろん第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディJFK)です。ロバートは彼の弟にあたり、約7歳ほど離れています。兄弟揃って優秀で、アメリカ政界で活躍しました。

ロバートはかの「キューバ危機」のExComm(国家安全保障会議執行委員会)に参加し解決に尽力した他、当時苛烈を極めていた人種差別を撤廃するよう働きかけたり、ベトナム戦争終結に向けて動くなど、その功績は偉大です。次は大統領として、必ずやアメリカをより良い国にしてくれる!……はず……だったのですが……。

 

 兄ジョンは大統領任期中に狙撃され暗殺されてしまいますが、ロバートは大統領になる前、選挙活動中に暗殺されてしまいます。彼は、一説には兄よりも優秀であるという声もあり、反対派はそんな彼が国のトップに立つことを恐れたのでしょう。

 熱心に問題に取り組む熱意と、冷静さを兼ね備えた性格で、見方によってはストイックすぎるとさえ言えます。タフで体力もあり、正に政治家向きな性格と言えるでしょう。

 

 アメリカの政治家といえば、演説の上手さ。勿論ロバートも演説上手でした。過去に彼の演説について取り上げたことがあるので、宜しければ5分間、是非お付き合い下さい!

↑ 胸を打つ言葉、美しいテノール声に聞き取りやすいアメリカ英語……。「完璧」です。

 

 ちなみに、ロバートは三男。あまり知られていませんが、実は兄ジョンも次男です。この代のケネディ家の長男はジョセフ(ジョー)で、ジョンの二歳上です。

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ジョーはケネディ家の長男として正に「帝王教育」を受け、非常に優秀だったと言われていますが、WW2で戦死してしまいます。お誕生日は1915年7月25日、忌日は1944年8月12日です。無事に帰還していれば、第35代アメリカ大統領は、間違いなく、ジョンではなく兄ジョーだったことでしょう。彼の統治も心底気になるところです。

 今では知らない人のいない偉大なる大統領ジョン・F・ケネディですが、生来より酷く病弱で、両親からは期待されずに育ち、酷く劣等感を抱えて生きていたと言います。そこには勿論、優秀な兄と比較されて育ったことも大きく影響していました。兄の急死により、突然その「代役」を求められたジョンの心中は如何ばかりだったでしょうか。

 

 そんなケネディ家については、また中公新書よりわかりやすく纏まっているものがあるので、良ければどうぞ。

↑ ジョンのみならず、この時代の一家に焦点が当たっている一冊です!

 

叙:バースィル・アサド

 更に時代を進めましょう。今回はアラブ世界、シリア共和国から、バースィル・アサド氏をご紹介します。

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↑ 父ハーフィズにそっくりな横顔……。

シリアも王制ではありませんが、大統領の座は最早アサド家の世襲制と化しており、アラブ政治の世界ではこれを「ジュムルーキーヤアラビア語で、"共和国" ジュムフリーヤ と "王制" マラキーヤ を掛け合わせた造語)」と呼びます。お誕生日は1962年3月23日、忌日は1994年1月21日です。父は「ダマスカスのスフィンクス」シリア大統領、ハーフィズ・アサド。

 

 今では「悪名高き」シリア。その大統領バッシャール・アサドは非人道的だと昼夜批判されていることはご承知の通りです。しかし、バッシャール自身も望んで大統領になったわけではありません。彼には兄がいて、それがバースィルでした。

彼は「次期大統領」として帝王教育を受けて育ち、軍人としても訓練を受けました。当時のシリアの知識階層の青年らしく、ソ連に留学に行っていた為、ロシア語も流暢に話しました。それもあって、ソ連的な思想を持っていたと考えられています

 

 そんなバースィルの趣味は自動車の運転。もうおわかりかもしれませんが、彼は31歳頃、自動車の運転中に衝突事故を起こし、即死したと言われています。イギリスで眼科医を営んでいた弟バッシャールは、兄の急死に際して祖国シリアに呼び戻され、付け焼き刃で教育を施された後、大統領となりました。一時は親アサド派の間でもその手腕を疑う声が強かった次男バッシャールですが、その統治はご覧の通りです。

 

 バースィルはこれまでご紹介してきた人物の中で最も近い時代の人物ですが、一方で、プロパガンダ的な報道も多く、その素顔を知ることは困難です。なんだかワーグナーの楽劇のようですが、「黄金の騎士」の渾名を持つ彼は、特に軍事面での指導力に優れたとも言われています。

少なくとも、偉大なる父ハーフィズ肝煎りの愛息ですから、現在のバッシャールの統治よりも、ハーフィズの血の濃い政策が実施されたであろうということはほぼ間違いありません

 

最後に

 通読お疲れ様で御座いました! 8000字強です。

今回は7人の「次期統治者」をご紹介しました。他にもドバイ首長国のラーシド王太子殿下など、ご紹介できていない人もおりますし、わたくしも存ぜぬ「次期統治者」もいらっしゃると思います。ご存じの方は是非ご紹介頂けると嬉しいです!

 

 元々「推し」(ニクサ殿下)を拗らせ、リサーチに邁進していたところ、「同じ属性」の方々は結構いるのだな……ということに気が付き、掘り始めたのが切っ掛けです。また、研究会でアラブ政治を勉強する中で、現代のアラブ世界にも「同じ属性」の方々が! と気が付きました。従って、知識が19世紀ヨーロッパと現代アラブに偏っている為、今後は他の地域や時代にも色々目を向けたいと思います。しかしやっぱり、推しがいちばん!

 

 このような「次期統治者」は、思想がある程度明らかになっているため、その現実には訪れなかった統治の未来を思い描き易いのが特徴です。また、死因が不慮の事故などであれば、「生存if」を考えやすいのも魅力的。歴史に浪漫を感じる方には、是非とも取り組んで頂きたい分野です! ご意見、妄想、作品等お待ち申し上げております。

 

 それでは今回はここでお開きとしたいと思います。また別記事でお目にかかれれば幸いです!