こんにちは、茅野です。
いつの間にか八月に突入していて震え上がっている今日この頃です。
書き損じているレビューが溜まってしまっているので、一気に消化してゆこうキャンペーン。
21/22シーズンの大トリ、新国立劇場の『ペレアスとメリザンド』にお邪魔しました。7月2日、初日の回です。
『ペレメリ』は好きな演目で、上演を心待ちにしておりました。観ることができてとても良かったです!
少し時間も経ってしまったので、今回は備忘の為にも雑感を簡単に纏めておこうと思います。
それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します。
キャスト
ペレアス:ベルナール・リヒター
メリザンド:カレン・ヴルシュ
ゴロー:ロラン・ナウリ
アルケル:妻屋秀和
ジュヌヴィエーヴ:浜田理恵
イニョルド:九嶋香奈枝
医師:河野鉄平
指揮:大野和士
合唱:新国立劇場合唱団
演出:ケイティ・ミッチェル
雑感
何と言って、今回一番話題を呼んだのが演出とセットです。
予算の影響か、シンプルで小規模なセットを組むことが増えた新国立劇場にしては珍しく、大規模で大掛かりなセットでした。5年ずつにしか上演されない、ゼフィレッリの『アイーダ』のような。来年上演がありますね!
オペラが総合芸術であるということを改めて認識させられました。これだからオペラは好きだ。
↑ 美しいがすぎる。
演出に関してですが、特徴的なのは「メリザンドの夢の世界」とされていることです。
実は、わたくし卒論が象徴主義戯曲に関してでして、『ペレメリ』に関しても何回か言及を致しました。
象徴主義芸術では、現実と精神世界の融合を図り、「目に見えない世界」を描くことが尊ばれました。わたくしが書いた説明の中では一番纏まっているとおもうので、卒論を引用しておきます。
象徴主義芸術では、19 世紀中頃に流行した自然主義を弾劾し、「理念」に感性的な形態を纏わせることを志した。それを実現するために、具体的には、神秘主義的な架空の世界、神話や古代の世界などを積極的に描き出してきた。現実世界に立脚する場合であっても、ロマン主義のように激情的に社会に働きかけるようなことはなく、あくまでも内省的に、個人の内部と向き合うことを趣旨とした。
美術の分野では、ギュスターヴ・モロー(1826 – 1898)や、ヴィリエとの親交も厚かったアンリ・ルニョー(1843 1871)らが、バルビゾン派などの写実的な「目に見える現実」 に対抗し、「目に見えない世界」を描くことを志し、神話や聖書をモティーフに作品を制作するようになる。ゴーギャンは 1888 年に「あまり自然に即して描いてはいけない。芸術とはひとつの抽象なのだ」と述べている。
更に、音楽の分野でも、クロード・ドビュッシー (1862 – 1918)を代表に、華やかな管弦楽法や技巧的な歌唱に重きを置くのではなく、音楽と詩をより密接に結びつけ、融合させる考えが生まれた。特に音楽劇に於ける、アリアとレチタティーヴォを明確に分けるのではなく、一幕を通じて流れるように進行し、音楽・詩・演出全てを以て一つの象徴を創り上げるという手法は、音楽に於ける象徴主義的作風と言える。
ともすると、象徴主義戯曲及びオペラの代表作である『ペレメリ』で、「夢の世界」とする演出はとても納得がゆきます。
一方で、何故、「メリザンドの夢」なのか? という疑問は抱きました。勿論、彼女がヒロインだから……、というのはそうなのですが。
わたくしは『ペレメリ』を読むとき、いつも思うのは、なんと申しますか、「ある意味でゴローが主人公だよな」、ということです。
タイトルロールたるペレアスもメリザンドも、お伽噺の住人のような挙動をします。天真爛漫で、言動に整合性がなく、時によっては支離滅裂。完全に達観の境地にある老王アルケルやジュヌヴィエーヴも然りで、あまり現実感がありません。
一方で、王子ゴローは、感覚がとても近代的で、合理的です。後半の、嫉妬にかられてペレアスを刺殺したり、メリザンドの髪を掴んで引き摺るような蛮行はさておき、基本的にその感情の動きに最も納得がいき、観客が共感しやすいのはゴローなのではないでしょうか。
それゆえに、わたくしには、近代の人間ゴローが、一人お伽噺の世界に迷い込んでしまった物語のように見えるのです。全く価値観の違う世界にいるからこそ、一人葛藤し悩む人間らしさが、逆に「浮く」。流行の言葉で言うならば、ゴローがお伽噺世界に異世界転生しているような。
従って、「誰かの夢」として描くなら、夢をみる主体は、自分ならばゴローにするだろうと思いながら鑑賞していました。
そんな王子ゴローは、非常に安定感のあるロラン・ナウリ氏で、冒頭から引き込んで下さいました。ゴローが安定していると安心感がありますよね。
フランスのバリトンということで、発話も自然で、正に『ペレメリ』向きです。
メリザンドはこれまた演出が凄まじかったですね。この演出でこの役ができる人は多くないのでは。わたくしはカーセン演出の『オネーギン』第三幕冒頭の生着替えを想起してしまいました。
メリザンドのカレン・ヴルシュ氏は、歌い方にかなりクセがあるように感じました。歌唱力は申し分ないのですが、音程が不安定であるような気がしました。しかし、それはあまり19世紀のオペラらしくないということでしかなく、恐らくは普段得意とされている現代物であればよく映えるのでしょう。
ペレアス役のベルナール・リヒター氏は、一際声量があり、明るく、若々しい王子という役に最適でした。
しっかし、この作品の題は『ペレアスとメリザンド』ですが、題の最初に来るほどペレアスって活躍しませんよね。いえ、リヒター氏は大活躍でしたが……。
せめて『メリザンドとペレアス』……というか、わたくしは『メリザンド』だけで良いのでは、と思います。
主役三人がとても安定していたので、歌唱面でも大変引き締まっていました。指揮・オケ共に素晴らしく、フランス語歌唱の良さを前面に引き出せていた印象を持ちました。
演奏・歌手・演出と三拍子揃っており、高水準で、新国立劇場のオペラ上演のなかでも「アタリ」であったのではないでしょうか。
しっかし、5幕のオペラだというのに、休憩が一回しかなかったので、非常にお尻が痛くなりました! 休憩は二回あってもよかったのではないかと思っておりますよ!
最後に
通読ありがとうございました。ごく簡単に3000字ほどです。
前述のように、卒論でも『ペレメリ』の話は書いていて、個人的にとても思い入れがあります。『ペレメリ』はドビュッシーの唯一のオペラ作品ですが、実は彼は、わたくしが卒論の題材としていたヴィリエ・ド・リラダンの『Axël(アクセル)』という戯曲をオペラ化しようとしていた時期があり、未完に終わってしまったことをとても寂しく思っています。
『アクセル』は大変にオペラ向きの戯曲であり、完成の暁には『ペレアス』に勝るとも劣らない名作になっていたことは疑いようがありません。今からでも遅くないので誰かオペラ化してくれまいか……といつも呻いておりますとも。
『ペレメリ』は、その知名度に反して、あまり上演機会がないので、今後増えるといいなあと願いつつ。フォーレやシベリウスの方ももっと上演して頂きたいですね。
それでは、今回はここでお開きと致します。また別記事でお目に掛かれれば幸いです。