世界観警察

架空の世界を護るために

柳田邦男『犠牲』を読みながら考えたこと

 ひとは自分が生まれた季節を好きになるというが、その根拠とはなんなのだろう。私は真夏の生まれだが、夏を好きになる気配は一向に訪れないまま、二十と余年を生きている。

尤も、この酷暑を好くとあらば、それは相当に肝の据わった人物ではなかろうか。

 

 日本では、夏は死を想う季節である。夏にはお盆があるし、第二次大戦に於ける原爆投下や終戦も夏だ。「未知の恐ろしいもの」を考える時に背筋を走る感覚は、納涼にも向くのだろう。

 

 個人的にも、夏は昏い事項に思いを馳せ、内省する季節だ。昔から大好きな蘇生譚の舞台も夏だったし、何の因果か、研究の対象としていた死生観の狂った某文学者の命日は、私の誕生日と同じだった。八月十九日、それが私達の記念日だ。

その他にも、個人的な忌まわしい出来事もあり、夏はその暑さと共に私を滅入らせる。

 

 そうしていつの間にか今年も八月半ばとなっている。思索の旅に出掛ける夏だ。

思索の旅は、切符ではなく、書籍を買うところから始まる。今年は、「読むのが辛い」と噂の、柳田邦男先生の『犠牲』を読んだ。

 この本は、尊敬している小坂井敏晶先生が紹介していて、今考えたいテーマにも即していたので、今年の旅の足掛かりとした。

 

 『犠牲』は、日本が誇る大作家である柳田邦男先生の実体験が綴られている、ノンフィクション作品である。次男の洋二郎氏が二十五歳で自死を図り、一命を取り留めたものの脳死状態となってしまい、その時の父や家族の苦悩、葛藤、そして展望を語った、重量感ある名著である。

 

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 私は自分のことを、幸運で恵まれた人間だと思う。争いのない平和な地域に生まれ落ちたこと、理解ある友人がいることなど、様々な意味に於いて。

だからこそ、「悩むのは自分ではない」状況に置かれることが多いと、最近特に思う。苦悩するのは私ではなく、身近な周囲の人々であって、私は彼らの心境の吐露を、できる限り正面から受け止めようと努めるのみだ。

手助けこそ可能でも、内的な苦悩の抜本的解決は、結局は当人にしか為し得ない。だから私は、結局のところ、やきもきして、隣で手をこまねいていることしかできない。

 

 それは、ある意味で、「悩まない者の悩み」であると思う。字義的には矛盾するけれど。

愛する人が一人悩む姿を、ガラス越しに眺めるような感覚は、それはそれで辛いものがある。そのガラスを打ち破ろうにも、やり方がよくわからない。乱雑に叩き壊せば、相手に破片が刺さって余計に苦しむかもしれないし、自分の手を血塗れにするかも知れない。或いは、強く叩き続けようと、ガラスが硬すぎて、ヒビ一つ入らないかも知れない。そこに副次的な苦悩が生じる。

『犠牲』は、そのガラスの内側と外側の双方の苦悩を克明に描き出していると感じた。

 

 柳田先生も、悩める者を身近に持つ「ガラスの外側の者」で、その「悩み」に私は深く共感した。

勿論、この内側・外側の喩えは、問題によってどちら側に立つことになるのかが異なる。柳田先生は、ご子息を喪って、内側に入ることになったわけだが、洋二郎氏の前では、外側の立ち位置だったのではないかと私には思える。

 

 柳田先生は、医学や心理学に造詣が深い。「外側の者」、即ち「悩む者を支える側」の人が持ち得る知識や能力という意味では、言うなれば最強格の方だ。

そのような方でも、とても言い方が悪くて恐縮だが、大切な家族を「救えない」ことがあるのだと、私は強く衝撃を受けた。

助けとなれるか否かは、それぞれの関係性の中で決定されることではあるけれども、柳田先生にできないことが我々にできるのか、という不安が生じたことは否めなかった。

 

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 私は本来は、恐がりな人間なのだろう、と思うことがある。人一倍アドレナリンを出しやすい体質のようで、呼吸を忘れるほどに過集中して物事にのめり込むことができるのは、短所となり得る要素もありながらも、一つ明確な長所であると言える。

 何か嫌なことがある。それに不安や恐怖を覚えて、副腎はアドレナリンを分泌する。アドレナリンが出ているのだから、その時の気分は好戦的だ。

好戦的な気分のまま、じっとはしていられない。何かしなければ。前に進まなければ。身体がそれを求めている。睡眠欲と食欲が完全に失せる。

 私は、そんな時、そのトラウマと積極的に向き合って、自らそれを破壊する、或いはそうしようとすることだけが唯一の対処法だと信じている。その出来事についての情報を集積し、統合して、深く考え続ける。現実逃避はしない。何か再チャレンジができるものならば、積極的にそうする。そうして上書きをしなければ、一生トラウマのままだ。私はそう考えている。可能なら、アドレナリンを出している間に破壊したい。

そうして、私は世間から「好戦的な人間」、或いは「マゾヒストだ」という評を得てきた。それが良いことなのかどうかはさておき、私はこの考えを未だ崩していない。

 

 私のその哲学を、柳田先生はもっと美しく表現している。

 そのとき同時に、科学知識によって自己をコントロールするには、いまどのようにすべきかについても、やっと明確な解答が得られたような気がした。それは、こういうことだった。

―――医師の説明を聞き、洋二郎の容態をただ見つめているだけでは、あまりにも受け身で、自己コントロールにはならない。洋二郎のために何をしてやれるかという積極的な思考をしてはじめて、主体的に自分を律することができるはずだ。

インフォームド・コンセントにしても、その目指すところは、ただ頷いて同意するだけでなく、インフォームド・チョイス(選択)であり、インフォームド・デシジョン(決断)であると論じられるようになっている。

どう対処すべきかを選択して行動に移すことが、父親である自分に求められているはずだ。―――

                       『犠牲』. 柳田邦男. p.60-1

「自己コントロール」「積極的」「主体的」「選択」「決断」―――これらの語は、私の考えに合致すると感じた。柳田先生のような方が、自分と同じ、或いは似た考えであると知れたことは嬉しかった。

 

 一方で、その後に「後悔」についても述べられている。

これは私の思想だが、「後悔」とは、「自分で何かを選択し決断した、という確信がある時にのみ起こる感情」だと考えている。乗り越える為に必要とされたものが、ここでは仇となる可能性があるのだ。

 その上で、私は「絶対に後悔しない」ことにしている。

その時納得のいく決断を下せているのなら、翻って考えた時にそれが最悪の選択だと思えても、後悔しない。

 私の考えではこうだ。

仮に、記憶を失って同じ地点に戻ったとき、同じ行動をするだろうと確信をするならば、私にどのような if の可能性が存在したとしても、私はその行動を "絶対にしない"。

 そんなに大層な状況では無くても、例えば、「眠気に負けて、二度寝をした」、なんて状況でもそうだ。遅刻が確定した電車の中で幾ら焦ろうとも、後悔はしない。どんなに遡ってやり直しても、私はそこで起き上がらないからだ。私は惰眠という甘美を味わった、その時仕合わせだった。それで満足したはずだろう。その天秤が全く釣り合わないものだったとしても。

 従って、それは私が取り得た唯一の行動、或いは当時の自分にとって最良の行動なのであって、別の選択肢は存在しない。別の行動が「不可能」なら、悔やんだって致し方がないのだ。少なくとも私には、救える運命になかったということになる。

 だから、その時その時に常に自分が納得のいく決断をすること、それが肝要だと思っている。その結果、最悪の未来が待っていたとしても、「当時の自分にはこれが最大限の行動だった」と、胸を張って言えるような。

 

 私のこの思想は、ある種運命論的なものだと思う。条件が出揃った段階で、行動、未来が確定する、ということになるのだから。21世紀の予定説だ。

しかしそれでも、「自分でそれを選び取る」という「実感」は大切だと感じている。「自分で自分を律している」という感覚、それは精神を安定させる。

 意識的で積極的な行動・選択・決断そのものが、「胸を張れる選択」であるように思う。その過去の勇気と挑戦を、未来の自分は祝福したい。その行動が、実のところパンドラの箱を開けたというものであったとしても。

字面だと矛盾するようだが、「モラトリアムをする」「怠ける」といった「決断」も、それが納得のいく積極的な決断ならば、最良のものだと私は思う。

 

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 私は大学でフランス文学を学び、頽廃主義に濃密に触れてきた。卒論で扱った作品も、自死を賞揚するような内容であって、私は冗談めかして「自殺教唆戯曲」と呼んでいた。

私はガラスの外側の、悩まない人間だ。だから、彼らの苦悩に理解は示せても、共感はできない。そして、私はそれでいいと思っている。それこそが真の多様性ではあるまいか?

 だからこそ、自分はこの分野に向いていると思った。どんなに醜悪であったり、どんなに心に訴えかけるものであっても、それに引き摺り込まれないという自信があったからだ。

そんな折、口頭試問で、「君と同じ題材を研究していた先駆者たる優秀な研究者が、自ら命を絶ったので、日本でこの分野を研究しているのは君一人になった」と教官に告げられたとき、私は言葉に詰まってしまった。

 

 私が常に疑問に思っているのは、こころを病んでいる人に、暗い文学作品を薦めてもよいのだろうか、ということである。

ガラスの内側に引き摺り込まれない自信のある私は、友人たちからすると、ある種心強く映るようで、そのせいか、かなり重い相談を受けることが多々ある。

 彼らは、私が文学をやっていることを知っているので、「こんな時にオススメの本とかってありませんか」と訊いてくることがある。そんな時、私は救いとなる図書を挙げることが多い。

その一例を紹介する記事を先日書いたので、関心があれば目を通して頂きたい。

 

 「そうではなくて、いつも茅野さんがやっているような……」と食い下がられることもある。そんなとき、私はいつも悩むのである。共感できる文学上のヒーローがいた方が支えとなるのか、それとも……?

 洋二郎氏の愛読書や既読本に、カフカカミュヘンリー・ミラー……と挙がっていくのを読みながら、どこか納得している自分を見つける。そうして、またわからなくなるのだ。

 

 『犠牲』の後半では、ジャンケレヴィチ哲学の「人称の死」が紹介されている。私も強く影響を受けた思想である。

一方で、ジャンケレヴィチは「フィクションの死」なんていう、ナイーヴな問題には立ち入らなかった。

 

 文学は、音楽と共に、「時間芸術」に属し、それは「再生芸術」と言い換えることもできよう。生死の問題を扱うのに、「再生」とは、言い得て妙ではないか。

読書は、作家や登場人物の感情を、読者が頭の中で再生するから、その感情移入はとても強固なものとなる。その感情は、読書という行為の中で、読者が自らが創り上げたものだからだ。

事実、洋二郎氏の日記にはこのような言葉がある。

92年3月30日(月)
(前略)
活字が立ち上がってきて、読書を実感した。

                       『犠牲』. 柳田邦男. p. 190

 とても美しい文章で、これだけで詩のようだ。このような美しい文章が書けるのなら、私ならば自分のことが大好きになってしまうだろうに、なんて、余計なことを考えながら。

 

 私も、バルザックの『幻滅』三部作、特に最終話の『娼婦たちの栄光と悲惨』を読んだ時などは、夕べから早朝に掛けて一気読みして、感情移入に感情移入を重ねながら、ぼろぼろ泣いたことを覚えている。

ただ、その時も、どちらかといえばリュシアンよりもジャックに強く感情移入した私は、やはり基本的に「外側の人間」なのだろうと思う。

 

 この「一人称」と「三人称」の狭間のような空白地帯を、今私は興味深く感じていて、今後思考を深めていく必要性があるだろうと認識した。この点に関して、何かご存じのこと、自分の哲学を持っている方がいらっしゃれば、是非とも話を伺いたいと思う。

 

 グリーフワークには「書く」ことが良い、という意見にも強く賛同できる。それは、私がこのように文字書きだからかもしれないとは思いつつも。

事実、私もこうやって、頭の中のものをぶちまけて、すっきりしていることには違いないのだから。私にとって紙面とは、我が子のように愛しい成果物であると同時に、ゴミ箱でもある。

普段あまり文章を書かない人は、書くことも苦痛なのであろうか。

 

 先日の暗殺事件などの報道を見ても、「文学やゲームが凶悪犯罪の足掛かりとなる」という思想は世に多いようである。私は、それらを愛好する者として、それらから娯楽のみならず知識や思想など沢山の恩恵を受けてきた身として、「だからそれらを禁止すべきだ」という主張には強く反対の立場だ。

 しかしながら、程度の差はあれど、容疑者の行動には、それらの作品からの「影響」自体は認められるだろう、とも思う。人は、自分が触れてきたものだけを頼りに思想や行動を創り上げてゆくからだ。

だから一筋縄ではいかないのだが、最近は特に、「白か、黒か」という明確で絶対的な区分けが好まれる傾向にあると感じ、私は懸念を抱いている。

 人はわかりやすい物語を好む。絶対善、絶対悪。そんなものがあれば、それが一番わかりやすいに決まっている。しかし、そうではない。そうではないものを、無理矢理当て嵌めようとするから間違うのだ。世の中の色彩はもっと多様だ。

 

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 「犠牲」という考え方について考えたい。

 私はあまり映画を観ないので、タルコフスキー監督の『犠牲』は観たことがない。今作を読んで、とても観てみたいと思ったのだが、観る手段がかなり限られているようだ。

 観たことがないにも関わらず憶測で語るのは恐縮だが、きっとこれはロシア正教の古儀式派と深く結びついているのではないかと推測をした。ドストエフスキーなどのロシア文学にはよく登場するので、文学好きには知られた存在かもしれない。

 古儀式派は、自らの犠牲を尊び、果ては、それこそ生け贄のように、集団焼身自殺をしたりする。中世では、2万人近くの古儀式派信徒がそれを行ったとも言われる。

洋二郎氏が、この教義について何かを書き残しているのなら、私はそれを知りたいと思う。

 

 「犠牲」という考え自体は、私には馴染まない。それこそ、ジャンケレヴィチ思想に沿うなら、私が自らを投げ出すとき、私を大切に思う人も同時に犠牲に供すことになる。私は、それを良いことだとはとても思えない。

 

 私には、敬愛している恩師がいる。彼は国際政治学の教授だが、とても情熱的な人で、苦境にある人を想い、人目を憚らず涙することもあるような人だ。

私は彼に影響されて、善性を活性化された実感が強くある。それは、同級生たちも同じようだった。

あるとき、同級生の一人が彼に訊いた。「世界を平和にする為には?」。無邪気で大きな質問だったが、確かに、彼なら一笑に付すことなく真剣に応えてくれるだろうとも思った。

 恩師は、一瞬少し困ったようにはにかんでから、いつも通り力強い言葉で語り出した。彼は、マザー・テレサマハトマ・ガンジーの言葉を引用しながら、「身近な周囲の人を大切にすること。それを全員が行うことができるのなら、それが一番だ」と結論付けた。

加えて、こうも話してくれた。「サダム・フセインは、義理の父親から虐待されていた。サダム少年は、それにとても苦しんで、まだ幼いある日に家出をして、一人で何十キロも歩いて首都バグダッドへ向かった。幼い少年が、当時首都で認められる為にやったことは、バアス党で汚れ仕事を引き受けることだった。サダムはその求めに従って、誰よりも残酷になった。そうして、バアス党で昇進を重ねていったんだ。

…………、サダムの父が、幼い息子を虐待していなかったら? 誰かがそれを止めることができていたなら? 困窮した幼い日のサダムに手を差し伸べられたなら? ……もしかしたら、今のイラクはこうはなっていなかったかもしれないね」。

 当時、イラクの政治を研究していた私は、経済が、外交関係が、と頭を悩ませていたものの、そんな考えは思い浮かびさえもしなかった。

 

 「身近な周囲の人を大切にする」ということは、翻って、「自分も大切にすること」だと思う。苦悩は伝播する。何らかの理由で自分を大切にすることができない人は、一人苦悩し、壁を生んで、我々を「外側に閉じ込める」。

一度障壁が生まれると、外側の我々も悩みながら、それを取り除こうと懸命に努力するものの、今回の洋二郎氏のように、残酷な「タイムリミット」が設定されている場合もある。

私は、全人類が、自らと周囲を大切にすることができればよいのに、と、子供じみた、けれども重要な性善説を想う。

 

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 『犠牲』の終盤では、死の定義について論じられている。この「死はプロセスである」という思想に、私は共感する。

 私は、様々な立場の人間に扮して政治的な問題を議論する研究会に属していて、そこでの活動を心底楽しんでいるのだが、稀に特殊な議題を扱うこともある。そのなかの一つとして、「死の定義を策定する」という議題が出されたことがあった。通称「死の定義会議」である。

結局、議場が京都であったことや(私は東京に住んでいる)、日程的にも、私は参加することはできなかったのだが、とても興味深い設定であると感じた。

 参加者は、それぞれ「死亡していると判定され得る大切な人がいる」というロールプレイを行うことになる。その中には勿論、「心肺停止した親」や、「脳死患者の息子」などが含まれている。参加者は、その自分に与えられた役に従い、「自らの大切な人が "生きている" ことにする死の定義」を設定することが、今会議に於ける個人益、即ち「勝利条件」だ。

 特殊な設定、特殊な勝利条件だが、とても意義あるシミュレーションだと感じた。

 

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 最後に、身体の話をしたいと思う。

私はこれまで、あまり「脳死」について考える機会がなかったから、特に自分の考えを持っていなかった。そのことを反省し、今回『犠牲』を読みながら、自らの考えを統合した。以下は現段階での結論である。

 結論から言うと、私は脳を最重要の器官であると認識していない、ということだった。何を突飛なことを……、と思われそうなものだが。

 

 私は高校時代に、サイエンス・フィクション系のとある作品に入れ込んでいて、中でも特に AI のキャラクターが好きだった。よく話題になる、「 AI が感情を持つには」という議論も、よく行った。その中で私が出した結論は、「身体を持つこと」だった。「 "私" という自意識を持つには、"私" が必要だ」と。

 

 他にも、「脳は命令を発していない」という脳科学の研究もある。人は、例えば、「右手を挙げろ」という脳の命令に従って右手を動かしている、と錯覚しているが、実はそうではなく、身体の方が先に動いているのだという。脳はその行動を追認するのみだ。

 私はピアノを弾くが、暗譜をすると、全く頭で考えなくても指が勝手に動くという経験は何度もあったから、その事実に特に驚きはなく、実体験として納得した。先生には、「もっと頭で考えて弾きなさい」と何度も注意をされたものだ。

 

 以上のような経験や思考を踏まえると、我々は脳という器官を過大評価しているのではないか、という考えに至った。勿論、脳は生命維持や思考をするのに重要な器官なのだが、「脳が全て」という考えは、それこそ「白か、黒か」という二分法に依拠しすぎていると思う。

人は脳だけではなく、身体で動いている。身体はその人を構成する最重要の物体である。

よく考えれば、或いはよく考えなくともわかりそうなものなのに、我々は何に躓いていたというのだろう。

 

 私が本書を知る切っ掛けになった、小坂井敏晶先生の『神の亡霊』では、ラフェイ法やカイヤヴェ法など、フランスの臓器提供法について論じられている。

 私は、「フランス人は」、とか、「西欧人は」、というような主語は用いたくないのだが、確かに、日本の死生観とは多少異なる点があるように見受けられる。

 しかし一方で、マルグリットの墓を暴き、墓地で卒倒するアルマンを知る我々は、人類に普遍の畏怖や愛、身体への向き合い方も感ずるのである。

 

 前述のように、研究会で政治を討論する機会の多い私は、常に「国家」を主語とする政策について考えてきた。

しかし、「国家」という言葉自体に実体はない。それは個々の人間、生活の集合体である。個人個人であれば顔は見えるのに、集合体とした時にそれを見失うとは、どうしたことか。

 「国家のため」というのは、即ち「個人のため」でなければならない。実体の伴わない「国家」など、価値がないのだ。「国家」とは、個人がより生きやすくするために生み出した虚像だ。何故か我々はそれを忘れがちだ。

 「国家のため」「お国のため」というと、なんとなく高尚に聞こえる。しかし、そうではない。「国家」は、常に「個人」に言い換えられなくてはならない。

個人を救えない国家に、価値などない。

 

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 洋二郎氏の命日は八月二十日らしく、前日を記念日とする私は、虚脱感のような、納得をしたような、何とも言い難い気持ちになった。台風の雷雨の音を聞きながら、エアコンの気怠げな冷風を浴び、物思いに耽る八月の昼。今年も夏が来たようだった。

 

おしまい。(8890字)