世界観警察

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映画『サウルの息子』 - 考察雑記

 こんばんは、茅野です。

先日ソウルメイトとも言うべき友人と『サウルの息子』を観ました。わたしは結構前に一度観ていたのですが、どうしても彼女と観たかったので……。

サウルの息子』、イイ映画だ……すきです……(語彙力がない)。

 

 そこで、今回特に記事を書く予定はなかったのですが、備忘録的にメモを残しておこうかとおもったのでごく簡単に書きます。

ああいう映像、考察勢の血が騒ぐんですよ、一筆やりたくなっちゃうんです。そういうわけで駄文を投下しますお目汚し失礼します。

 

 

「サウル」という名

 タイトルにも名が入っていますが、主人公の名前はアウランダー・サウルです。

自分がもし作者だったら? と考えてみてください。主人公の名、凝りたくなりませんか。更に言えば、タイトルにも入れる名前です。多くの場合、そこには含意があります。

 この「サウル」という名、馴染みがなければ聞き過ごしてしまいますが、とってもユダヤ的。サウルは、初代イスラエル王国の王の名です。

 ここで考えられることは二つ。

一つは、『“サウル”の息子』という題が、『“初代イスラエル王”の息子』という語に置き換えられ、つまりユダヤ人そのものを指すのではないか、ということです。

もう一つは、初代イスラエル王と主人公サウルの人生や考え方に共通項を見出させるのではないか、ということです。

 『サムエル記』によると、初代イスラエル王サウルは、その人望から王に選出されますが、神に背き、私利私欲の為に行動したことから、王位を剥奪されます。その姿は、仲間達の“計画”に協力せず、自分の目的(“息子”の埋葬)の為に行動する主人公サウルの姿にぴたりと重なります

ついでに言うと、王サウルには息子がおり、特に王太子ヨナタンが有名ですが、彼はサウルと共に死にますし、サウルとヨナタンは火葬の後、埋葬されます。なんとも示唆的ではないですか。

 

ラストシーンの少年

 そしてこちらも示唆的なのが、ラストシーンの少年です。紛らわしいので、死して麻袋に収められた少年をサムエル記に肖ってヨナタン君(仮)とし、ラストシーンの少年を金髪君(仮)とします(雑なネーミング)。

 ヨナタン君(仮)を二重の意味で喪い、失意のサウルが金髪君を見たときに微笑むことについて、色々な推測が立てられていますが、結局の所、ド直球に、生ける、希望ある次世代というのが、サウルの生きる糧なのではないか、とおもいます。

 では、死したヨナタン君(仮)に何故そんなにも病的に執着するのか。これは次節で考えてゆきますが、その前に、もっと大きなパースペクティヴで考えてみましょう。

 死した人を弔いたいという気持ちはごく正常なものです。それも、身内であれば尚更です。寧ろ、ゾンダーコマンドのサウルはヨナタン君(仮)の生によって、正気を取り戻したのかもしれません。しかし、その後のやり方が、合理主義の観点からみるとよくなかった。王サウルの犯した罪と同じく、現実的な“計画”を放棄して私利私欲の為に動くということに繋がってしまうからです。

 明らかにサウルはヨナタン君(仮)と金髪君を重ねて見ていると思います。或いはそこにヨナタン君(仮)の“復活”を見ているのでしょう。であればこそ、彼ら二人の人格・個性はサウルの中で蔑ろにされ、「希望ある次世代」としてしか見ていないと考えることが出来るのではないでしょうか。そこで、ヨナタン君(仮)は本当にサウルの息子なのだろうか、という疑問が更に強化されるわけです。

 

ヨナタン君(仮)は“本当の息子”か

 この映画を観て最大の疑問がこれだという人も少なくないとおもいます。ヨナタン君(仮)は誰なんだ問題です。この問いに対する明確な答えは映画内で示されていません。我々が好きな濁し方です。堪らん。

 最初ヨナタン君(仮)を見つけた時の反応、異様な執着ぶりから判断して、血の繋がった息子と考えるのが筋ではあります。これを完璧に否定する事が出来る要素は存在しません。

 しかし逆に、血の繋がった息子ではないという示唆はアブラハムの台詞を筆頭に何度も入ります。では何故あんなにも執着したのか? という疑問が生まれるわけです。深掘りしてみましょう。

・あまりに凄惨な現実に精神を病んだ説

 インターネットでは一番ポピュラーな説だとおもいます。精神を病んだ結果、ヨナタン君(仮)が息子に見えてしまったのではないか、という説です。確かに一番説得力はありますが、それだけで片付けては面白みがないんじゃないか、と個人的には思っています。

・“息子”はレトリック説

 前述の初代王サウルの話を関連づけて考えてみたいとおもいます。題の「サウル」は主人公ではなく王のサウルであるとした上で、王サウルの息子=ユダヤ人であれば、誰もが“サウルの息子”を名乗ることが出来るというレトリックかもしれません。強制的な死に屈しなかった奇跡を尊重し、どうしても諦められない気持ちが上記の荒廃した精神と相俟って、このような“奇行”に走らせたのではないか、という考えです。

・サウルはネクロフィリアショタコンだよ説

 余りにもネタ説ですが()、いや、一概に捨てきれないなと……。一緒に鑑賞した友人の意見では、ヨナタン君(仮)が余りにも美少年すぎるので、何かに“目覚め”てもおかしくないんじゃないか、とのことです。いや、仰る通り。

 

 否定材料がないので、どれも正解とも不正解とも言えないことを強調しておきます。お好きな説をお取り下さい()。

 

 メタ的な話ですが、クレジットロールをよく見ると“SAUL FIAサウルの息子)”役に二つ名前が並んでいることに気が付きます。つまり、サウルの息子”役を演じている子役は二人います。調べたところ、双子なのだそうです。どのシーンでどっちなんだか全然わかりませんが……(そもそも“サウルの息子”がまともに画面に映るシーンが短すぎる)。

 “サウルの息子”は二人いる、これも実に示唆的ではないですか。ほんとうに彼には息子がいたが、ヨナタン君(仮)とは別人なのかも、とも取れる。或いは、自分の息子と彼を重ねて見てしまうことの示唆か。それとも、やはり生き残った希望、ユダヤ人、それら全てを包括しているという含意なのか? 

 これは完全に余談ですが、川のシーンとその他幾つかを除き、実際にあの麻袋の中に入って演技しているそう。なんか……なんかこちらの方が何かに目覚めそうだ。

 

イスラエルと死せる捕虜交換

 最後にイスラエルの話をして終わりたいとおもいます。イスラエルは建国の歴史やその理念から、自国民に対する福祉の姿勢が病的なまでに真摯であることで有名です。それは一種のパトリオティズムを形成してしまっているのですが、それは本筋ではないので今回は捨て置きます(※筆者は現代アラブ政治を研究しています)。

 イスラエルは何度も国や組織と捕虜交換を行っています。その際、よく話題になるのが、「死者と生者の交換」です。ザルイート事件などを筆頭に、死した捕虜(相手側)と生ける捕虜(イスラエル側)すら交換することがあります。「死んでいようが、時が経っていようが、どんな手段を用いようが、必ず最後の一人まで連れ戻す」というイスラエル政府のつよい意思は、実に人間的であり、美しくもあり、少し病的でもあります(※この場では政権擁護の意図も政権批判の意図もありません)。

 その姿勢はこの映画『サウルの息子』にも現れているのではないでしょうか。わたしがこの映画を初めて観たとき、一番最初に考えたことが、サウルの行動とイスラエル政府のこの血の滲むような努力を重ねて見ることでした。“サウル”はひとりではありません。“サウル”は今のイスラエル社会にも根付いているのでしょう。“サウルの息子”とは、喪われた希望、人間的な感情、それらに対する愛着、そしてその再生、そう読み替えることが出来るのではないでしょうか。

 

終わりに

 メモ書きがいつの間にやら3500字になっていました。書き始めてから1時間が経過しておりびっくりしています。

 今回は正直しっかりしたリサーチ積んでません、ふと思い立って、考察勢としての勘と予備知識だけでザッと書いたので頓珍漢だったら申し訳ないです。今後色々調べて書き足すやも。その時は改めて宜しくお願い致します。

 『サウルの息子』、良い映画です。今回は考察もどきということで触れませんでしたが、何よりあのカメラワーク。一人称視点ではないのに没入出来る。そしてあの視界の不明瞭な感じのリアルさ。“リアル”より、“リアリティ”。よくわかっていらっしゃる。息苦しい閉塞感も堪りません。クレジットロールの音楽も良い。大好きです。また観たくなってきました。

 それでは一旦締めます。お付き合い有り難う御座いました。