世界観警察

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Theatre in my Blood 翻訳 2 - バレエ『オネーギン』資料

 おはようございます、茅野です。

前回の記事を書いてから大分経ってしまいましたが、『Theatre in my Blood』の翻訳の続きをやっていきます。前回はこちら。↓

 前回と今回で、この本に書かれたオネーギンの記述は全部拾ったことになります。索引見たので誤植が無い限り間違いないです。よって、あまり関係ないような事項もあります。

 抜き出しで訳すので、直訳というより、訳す箇所の前に書かれた情報などを織り込みながら書いていきます。アンダーライン箇所は、文末に灰色で訳注を付けています。誤訳ばっかりだったらすみません。それでは宜しくお願いします。

 

 

193p - 制作

 1971年には、クランコはミュンヘンの主任振付師の職を辞した。しかし翌年の1972年、彼は新しいバレエ振付監督ロナルド・ヒンドの注文を受け、2つの作品を振り付けた―――つまり、『四つの情景(Quatre Images)』と『オネーギン』である。

 

196p - 制作

 クランコはこの問題に注視し、こう言った。「わたしはある日、『じゃじゃ馬馴らし』を読んでいた。そしてわたしは自問した―――何故わたしはこの作品でバレエを振り付けないのか、と。これは実に視覚的じゃないか」。偶然にも、ペトルーキオに理想的なダンサーがいたという点でも機は熟していた(『オネーギン』よりも、『ロミオとジュリエット』よりも、クランコの『じゃじゃ馬馴らし』では主役の男性ダンサーが重要だった。勿論、どちらの作品も男性陣が重要なのは同様であったが)。

 

208-9p - シュトルツェの自殺

 クランコはいくらか躁鬱病の気があった。この例では、著しくその症例を引き起こした。1970年の夏、クランコの最大の協力者のひとり、クルト=ハインツ・シュトルツェがミュンヘンの自宅で死亡した状態で発見された。彼は優れた音楽家であり、クランコの最大の成功作『オネーギン』と『じゃじゃ馬馴らし』でそれぞれチャイコフスキースカルラッティから曲を選び、アレンジし、編曲を施した。それ以外にも、彼はクランコのシュトゥットガルト・バレエでの初期の作品『椅子取りゲーム(Wir reisen nach Jerusalem)』の作曲をしたばかりか、同バレエ団用に『レ・シルフィード』と『キリエ・エレイソン』のオーケストレーションをし、これらのみならずあらゆるバレエ作品で指揮をした。(訳注: 原語で『Wir reisen nach Jerusalem』。直訳すると『エルサレムへの旅』だが、これはドイツ語で『椅子取りゲーム』を指すらしいので、ここではそう訳した。)

1970年8月、39歳のとき、シュトルツェはリヒテンシュタインに旅行した。リヒテンシュタインでは、ピストルを買うのに銃免許が必要なかった。そして、ミュンヘンに戻り自分で自分を撃ち抜いたのだ。親友であり、気心の知れた同僚(シュトルツェはクランコよりも年下であったが)であるシュトルツェの突然の死は、クランコを酷く狼狽させた。偶然にも、当時協同していた音楽家ベルント・アロイス・ツィンマーマンが『調査(Die Befragung)』と『存在(Présence)』の曲の構想を閃いたのは、シュトルツェの死の数日前、52歳のときだった。

 

223p - 上演

 1972年の夏、クランコが引き受けた別の仕事は、『子供の領分(Children's Corner)』を子供のバレエ・スクール用にアレンジすることだった。このときは、雪の結晶、小さな蛙、猿、そして人形の役が含まれていた。日の目を見たのは7月はじめの日曜日の朝で、その際上級生や卒業生は『オネーギン』の一部を踊った。

 

185p - 改訂

 1966年12月の『くるみ割り人形』の初演の後、クランコは1967年10月にオネーギンを手直しした。1968年4月には『パゴダの王子』を復活させようと試みたが、初演版の出来には納得がいかず、しかし再構成するに辺り必要な楽譜の変更を承認してもらえなかったことから、最終段階になってから同作品を断念した。

 

186-187p - 改訂

 ハインツ・クラウスの存在は、『オネーギン』改訂版準備に於いて計り知れないほど貴重だった。彼はオネーギン役に於いて、初期のシーンでは世界を憂うシニシズムを表現した。タチヤーナが見た夢の中では、理想化されたオネーギンの捨て身の恋をも巧みに演じた。この二つの演じ分けは、オネーギンの最後の降伏を実に説得力のあるものにした。

 

195p - アメリカ初演

 ニューヨーク上演の前には、未だ重要な仕事が残されていた(些細なことは抜きにしても、『オネーギン』を大劇場で鑑賞するに耐えるものにするため、新しく、より大きな舞台装置を作成し、再調整して、ダンサーが最大限のパフォーマンスを行えるように管理する必要があった―――実際には、大都市での上演という興奮が、彼らを助けたのであったが。)

 

197-8p - 改訂とアメリカ初演

 『オネーギン』では、クルト=ハインツ・シュトルツェがチャイコフスキーから小品を選んだ。その過程で、彼はチャイコフスキーの550のピアノ作品を検討し、自由に組み合わせてアレンジし、オーケストレーションを施した。全面的に巧みな編曲であったが、編曲というただそれだけで音楽愛好家は評価に悩んだ。それを冒涜だとは呼ばず、素直に喜んだ人々の間であっても、満点の評価を引き出すことは難しかった。

 マーティン・ファインスタインは、シュトゥットガルト・バレエを初めて見てから三年の間、シュトゥットガルトに出入りしていた。彼の一週間の滞在の間には、例えば、1967年10月に改訂版『オネーギン』の初演があった。上演の間、彼は更に改訂すべきであると感じた点を記録した。そして終演後に舞台裏へ行き、いつものように食堂でダンサーに取り囲まれているクランコを見つけた。彼は「さて、マーティン、どうだった?」―――彼は私的にそのような議論をすることに慣れていた。しかしファインスタインは、良い作品だとは思う、と前置きした上で、幾つか改善すべき点がある、と指摘した。「さあ、きみの考えを聞かせてくれ」とクランコは返した。「もしわたしがきみに賛成するなら、きみの意見を受け入れよう。もしそうでないなら、きみを殴るからな」。幸運なことに、殴られることはなく、幾つかの変更が受け入れられた(しかし全てがファインスタインの案というわけではなかった)。変更は振付のみならず音楽にも加えられ、その晩指揮をしていたシュトルツェも議論に加わった。「上手くいくだろうか?」とクランコが訊くと、シュトルツェは「大変結構」と請け負った。最も重要なファインスタインの提案は、ラーリナ夫人の邸宅とグレーミン公爵の舞踏会の対比をより明確にすることだった。クランコはユルゲン・ローゼに幾つかの提案をすると、彼は熱意に燃えて改訂作業に取りかかった。

 1969年6月10日に幕を上げたメトロポリタン・オペラの3週間にわたる公演期間の中には、24回の公演があった。その大半は大規模な物語バレエに割かれた。シーズン初の公演は『オネーギン』で、8回という、決して少なくない数の公演が組まれた。『じゃじゃ馬馴らし』は7回あった。『ロミオとジュリエット』が3回、『ジゼル』が2回、そして残りのたった4回が小品を集めたトリプル・ビルだった。(訳注: 三本立て公演。1公演で3つの演目を上演する公演のこと。)

(中略)

 それはニューヨークでの最後の練習の時だった。新しい大劇場用の『オネーギン』と『ロミオとジュリエット』の舞台セットの準備が整ったとき、クランコはわたしにこう言った。「商業的な成功は間違っている、自分の芸術的なセンスを証明するには、小さな劇場で、ごく僅かな観客を感動させることだ、と言う人もいるけれど、わたしはそうは思わないね。それは、わたしの血の中には劇場が、演劇があるからに違いない―――わたしはいつも観客に楽しんでもらいたいと思っているよ」。

 『オネーギン』をシーズン初演にしようというのは、クランコ自身のアイディアだった。『じゃじゃ馬馴らし』は三日目の夜を予定されていた。それはつまり、彼らのアメリカ人プリンシパル・ダンサー、リチャード・クラガンは『オネーギン』を踊らないことを意味した。壮麗なペトルーキオについて考えながら、ファインスタインはクランコに訊いた。「オープニングに『オネーギン』を持ってくるって、正気なのか?」。しかし、クランコにはクランコなりの理由があった。マルシア・ハイデを素晴らしくロマンティックな女優だと最初に印象付けたかったのだ(彼女のケイト役が観客を楽しませることはわかりきっていたし、彼はこのコメディとのコントラストを引き立てたかったのだ)。そして、リッキー(リチャード・クラガン)を敢えて隠しておくことで、観客皆を驚かせたいんだ、とクランコは主張した。策略は成功した。

 シーズンを振り返って、クライヴ・バーンズ(評論家で、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された記事が世論の結晶化に貢献した。しかし、彼は初日の熱狂には貢献できなかった)は、「ニューヨークでは誰も "小さな成功者" はいない。シュトゥットガルト・バレエ団は、その作品で、その踊りで、そして何よりもその精神で、ニューヨークを完全に制覇した」と書いた。

 

 

219p - ロシア初演

 ロシアツアーでは、極端に対照的な出来事があった。一方では、その街が未だサンクトペテルブルクと呼ばれていた頃、バレエの世界的な中心地であり、そしてレニングラードになってからも、クラシックダンスの中心地としての優位性を保っていたまさにこの街に、誰よりもクランコは自分のカンパニーを率いて行くという名誉を意識していた。モスクワも、1956年にボリショイ・バレエ団がロンドンを訪れたことが、クランコ自身の仕事のやり方に大きな影響を与えたことから、特別な挑戦と感じていた。 その一方で、抑圧的なソヴィエト政権への憎悪は、彼がそこで見たものによって殊更搔き立てられた。国外からのコンサートツアーを扱うロシアの公式機関「ゴスコンサート」との、どの作品を上演するかという交渉は永遠に終わらないかに思えた。クランコは、アメリカのロシア人が「真のロシアの精神を捉えている」と絶賛した『オネーギン』で幕を開けることに強く拘った。ゴスコンサートは、プーシキンは一種の聖人であり、慎重に扱うべきであるとして拒否した。シェーファーであればその忠告を受け入れたろうが、クランコは引かなかった。(訳注: ワルター・エーリヒ・シェーファー。当時のシュトゥットガルト・バレエ団の総合監督。) 『オネーギン』か、一切上演しないか、いずれかだ。 同様に、彼は、近代的な作品も上演することを主張した。これもまたゴスコンサートの助言に反していたが、モスクワのスタニスラフスキー劇場では需要が大きく、最終的に8人分の席に16人が詰め込まれているのを見て満足した。しかし、ロシア人は全く『オネーギン』を受け入れず、真の理解を欠いている、と批判した。一方、マルシアのタチヤーナ役は特に賞賛され、レセプションは実に心温まるものとなった。(中略)

 バレエ団が到着する前には、特に大きな熱狂はなかった。ドイツの小さな町から来たのだから、大したことないだろうと侮られていたのだ。しかし、ドレスリハーサルが終わると、これは特別なものだということがすぐに広まり、人々はチケットに殺到した。
それでも『オネーギン』が終わる前に退場してしまう人も少なくはなかった(それによって、その山場と醍醐味を逃してしまった)。評価は留保されていただけに、その賞賛は絶大なものだった。

 

220p - ロシア初演

 パノフはクランコを他の友人たちに対面させ、3日間夜明けまで酒を酌み交わし、最後の日は田舎で一緒に過ごし、野を歩き、歌を歌い、川に入り、また酒を飲んだ。(訳注: キーロフ・バレエのダンサー。) パノフは、クランコの『オネーギン』はロシア人ではない、と批判し、それに対しクランコは「ロシア人のために作ったわけではない」と答えた。パノフはすぐには納得しなかったが、西欧での『オネーギン』の大成功を目の当たりにして、その意味を理解した。

 

230p - イギリス初演

 シーズンの最後には、シュトゥットガルト・バレエ団は遂に、1974年7月24日にロンドンのコヴェント・ガーデンで『オネーギン』を上演した。これがイギリス初演となる。(中略)

バレエ団は、それまでのどの公演にも負けないほどの成功を収めた。

 

232p - 結論

 彼の作品は、彼の名と共に影響力を保持してきた。二つのロイヤル・バレエのカンパニー、コヴェント・ガーデンとサドラーズ・ウェールズ、ニューヨークのジョフリー・バレエ団、スウェーデン王立バレエ団、スコットランド・バレエ団、オーストラリア・バレエ団、ハンブルク・バレエ団そしてパリ・オペラ座バレエ団などの最も有名なバレエ団は、その高い需要から必然的にクランコの大物語バレエ(『オネーギン』、『じゃじゃ馬馴らし』、『ロミオとジュリエット』、『白鳥の湖』)をレパートリーに加え、『霧(Brouillards)』などの個性的な作品や『美女と野獣』のような小品も上演している。死後10年が経過しようとも、ジョン・クランコのバレエ作品は彼の生前よりも更に世界的に、そして頻繁に上演されるようになった。何故なら、数多くのダンサーがクランコ作品をを躍り、将来的にカンパニーを経営することになる人もこれらの作品に関わったからだ。クランコ作品は流行の変化に左右されずに生き残る数少ないバレエの一つに数えられることになるだろう。

 

最後に

 以上です! 前回の記事書いた時、残りはあとちょっとかな、とかおもっていたのですが全然そんなことはなかった。寧ろこちらの方が長かった。でも完走出来て良かったです。

 何かのお役に立てれば幸いです。それでは、コロナ禍が早く収まって、またオネーギンが観られる日を熱望しつつ、お開きとします。