こんばんは、茅野です。
この間、早稲田音楽劇研究所にお邪魔して「『マノン・レスコー』のオペラにおける「聖女」マノン像―マスネの≪マノン≫を中心に―」という発表を聴講しました。
マノンに関しては、原作・オペラ・バレエ取り敢えず一通り履修した程度の知識しかないにわかなのですが、凄く興味深かったです! こういったものを聴いたり話したり議論したりしたかったんだわたしは~~。
最近は、他にも、ロシア文学会や日仏会館にお邪魔したり、ディレッタントながら色々アカデミック方面に足を伸ばしてみたりしております!
とてもたのしい。だが、なんだろうこの場違い感は……。ほんとうにわたしなんかが出入りしてもよいものなのでしょうか。でも楽しいので行っちゃいます!(自分本位)。
さて、今回は、この間のフランス文学雑記に続き、考察や解説ではなく、徒然なるままに所感を書き綴っていくシリーズです。
聴講した愉しみ、書いておかないと忘れちゃいますからね(といいつつもう一週間以上経っている現実……)。
というわけで、今回は『マノン』について、どうでもいい個人的な話をします。
マノンとの出逢い
もういつ読んだかも覚えていないくらいなのですが、はじめての『マノン』は原作でした。細部を忘れかけてきているので再読したいですね。
初読の際、マノンについて全く理解できなかったんですよね。魅力的なのだろう、移り気なのだろう、それはわかります。ただ、具体的にどのような少女なのか、ビジョンが全く見えてきませんでした。
デ・グリューが解釈するように、彼女はただ天真爛漫な天使なのか? それとも、狡猾な誘惑者なのか? その二つが両立するなんてことは? ファム・ファタルとはなにか?……
ここまでわからないキャラクターは、クッツェーの『マイケル・K』以来です(マイケル・K、大好きなのですが、わたしの中で共感できない文学キャラクター筆頭格です。そしてそれを含めてマイケル・Kが好きです)。
↑ 「土のように優しくなりさえすればいい」。金言。
上記の研究発表で、「マノンの描写はデ・グリューの目を介したものであり、実際の "マノン・レスコー" はわからない」という話があり、深く納得しました。確かに、言われてみればそうだ。
それから、「マノンがわからない」という感覚はなにもわたしに限った話ではなく、バレリーナ: アレッサンドラ・フェリをはじめ、多くの人が抱いている感情であるようで、少し安心しました。
ともなると、アベ・プレヴォーはわざと「マノンがわからない」ように書いているのではないかとおもいました。マノン研究をしたことはないのでわかりませんが、色々考えあぐねているうちに、やったら絶対楽しいだろうという確信が……。
マノンの解釈・バレエ版のはなし
そんな中で、わたしがひとつの "正解" だと感じたのが、マクミラン版『マノン』のサラ・ラムさんの演技だったのでした。
昨年の ROH ライブビューイングで観たのですが、これがほんとうに凄かった。
バレエ版を観るのも、サラ・ラムさんを観るのはこのときが初めてだったのですが、一目惚れですよね。以来、『Mayerling』など彼女の演技を気に入って観てます。
個人的には、『オネーギン』のタチヤーナが観たいですね、恐らく来シーズンやるんじゃないかと思いますが……!(ただ、ターニャは彼女の性質を考えるとはまり役ではないような気が……観たことないのでわからないですけど……観たい)。
閑話休題、彼女のマノンを観て、「これが "マノン" か!」とおもったわけなのです。説得力が段違い。微笑むと天使のように愛らしいのに、中盤からはあの妖艶なファム・ファタルに……。天使と悪魔の共存、人間の二面性、移り気な心、これがマノン……!
彼女のマノンを考えていたらもう一度観たくなってしまったので、Blu-ray をポチッてしまいました。観るの楽しみだなぁ。
マクミランの物語バレエは、物語と踊りが他の作品と比べるとぶつ切りになってしまっているように感じることがありますが、PDD やヴァリエーションを取り出すと、その音楽の優美さも相俟ってほんとうに好きですね。
映像は買っていなかったくせに、マクミラン版の CD は所持していて、先日の研究発表以来ずっと聴いてます。マスネは『ウェルテル』くらいしか聴き込んでいないのですが、ちゃんと聴きこんだらこちらもとっても楽しそう。
マスネの音楽・オペラのはなし
オペラ版の『マノン』については、この間のクリスティーネ・オポライス主演のプッチーニ『マノン・レスコー』を観た程度です。マスネ版は生で観たことがありません(どこか持ってきてくれ~……)。
しかし、『マノン』といえばマスネの音楽、というのが染みついてしまっていて、個人的な好みでいうとマスネ版の方が好きです。というか、マスネ版オペラが、『マノン・レスコー』を題材とした作品だと一番良いと思う。歌詞がフランス語というのもうれしい。
マスネの音楽、弦の"ふくらみ"というでしょうか、凄く響きが美しいですよね、好きです……。基本的にはロマンティックで美しいのに、たまに見せる現代的な響きというのもまた魅力のひとつ。第3幕第2場の二重唱、なんて官能的なんだ……。
マスネ版、やらないだろうか……、新国君、頼むよ~。
ルイジアナ・ヌーヴェロルレアン
バレエ版とオペラ版の大きな違いに最終幕の場所があると思います。
オペラ版(というよりプッチーニ版)といえば、やっぱり「荒野」。
マノン: 渇きが私を苦しめるの… いとしい人よ 助けて 助けて!
デ・グリュー: 僕の血をみな あなたの命のために!
何もない!何もないんだ! 乾いた荒れ地…水は一滴もない…
(オペラ対訳プロジェクト)
という台詞が凄く象徴的ですよね。
ところが、実際のルイジアナ・ヌーヴェロルレアンは「沼地」であるわけです。それに倣い、マクミラン版では最終幕は沼地に設定されています。「沼地のPDD」はあまりにも有名ですね。
↑ 実際のルイジアナ・ヌーヴェロルレアン。マジで「沼」。
ここに関しては、時代考証を請け負う身としても、なんとも悩ましいところです。
というのも、「なにもない荒野」という設定には宗教的・象徴的な含意があり、それをしっかりと読み解いていきたいところである一方で、実際のヌーヴェロルレアンは沼地なのだから、というのもその通り。
う~ん……流刑地をアリゾナに変更するとかじゃダメでしたか(地理的な問題、アリゾナはフランス領ではない問題などから厳しいとおもいます)。
何が最適解なのでしょうか、わかりません。皆様のご意見を頂きたいところです。
最後に
通読ありがとうございました。3000字強。
とりとめのないお話でした。とはいえ、Twitterで小出しにするには文量があるなとおもったので纏めてみようとした次第です。
『マノン』のファンには、親近感があります。というのも、マノンは文学を原作として、オペラ、バレエと展開しています。そうです、『オネーギン』に通ずるんですよね。
同じ理由から、『椿姫』のファンにも親近感を覚えています。尤も、わたしのように、文学・オペラ・バレエ全てに関心がある人に限るため、なかなかお目にかかれないのですが。もしいらっしゃったら、仲良くしてください。
それでは、なんだかんだで長くなってきたので締めたいとおもいます。マスネ版『マノン』東京上演を願って。