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依存と生き甲斐のテーマについて -フランス近代文学雑記

 こんばんは、茅野です。

いつもはしっかり論題を定め、それを解決していく形で執筆するのですが、折角ブログというゆるい媒体なのだし、おもったことを書き連ねるだけというのもたまにはよかろうということで、ゆるい記事をお送りします。

というわけで、最近フランス近代文学をぱらぱらとやりながらぼんやりと考えたテーマについてお話したいとおもいます。お付き合い宜しくお願い致します。

 今回扱いますのはコレットシェリ」、バルザック「娼婦たちの栄光と悲惨」が主になります、ネタバレに注意。

 

シェリ」との出逢い

 わたしは読書が好きなので本屋に入り浸ることも当然好きなのですが、一ヶ月前くらいからでしょうか、岩波文庫(赤)や光文社新古典文庫の帯で「映画 コレット」の文字を見るようになりました。

わたしは映画はほぼ全く観ない性質だったのですが、最近は史実再現映画やドキュメンタリー映画などはよく観るようになりました。とくに、当方はフランス語専攻ですから、大女流作家コレットの映画化とあらば観に行かねば、と感じていたものの、実は恥ずかしながらコレット作品を読んだことがなかったわたしは慌てて一番手前の「シェリ」を手に取ったのでした。

 

 いや、これが刺さったりしたわけです。じゃなかったらこの記事書いていないわけで。

最初の印象は「ドが付くほどのベッタベタのTHEフランス近代恋愛文学」でしたが、それの何がいけないのでしょう、王道を征こうではありませんか。

ラスト、シェリとレアの再会と攻防はデュマ・フィス「椿姫」のアルマンとマルグリットの緊迫した再会を想起させますし、五感の描写の丁寧さ、リアルな登場人物の感情の機微。素晴らしいの一言に尽きます。

結局、一日で読み切り、続きが気になって続編を買いに走ると。

 

 続編、「シェリの最後」ですが、こちらも素晴らしい。買ったその日に読み終えてしまいました。ただ、なんというか、「シェリ」の時点でシェリの"最期"については予想がついてしまいましたけどね。トラジェディーの歪んだ美青年というのは自殺をするものだ。

 こちらで想起されるのはやはりバルザック「娼婦たちの栄光と悲惨」。こうやって見ると、シェリはリュシアンに、レアはヴォートランになんと似ていることか。

ここで大事なのは、同性愛・年の差などの恋愛に対する表面的な障壁ではなく(それも共通点と言うことはできるでしょうが)、つまり、―――「依存」と「生き甲斐」のテーマを見て取ったのです。

 

依存と生き甲斐のテーマ

 シェリの例から考えてみましょう。彼はレアに依存していると言ってよいでしょうか?

"依存"の定義にもよりますが、Ouiと応えて差し支えないでしょう。

最初は教師と生徒という間柄ですから、教えを希う姿勢は依存の前触れに見えなくもないですが、問題はその後。ふたりは親密になり、レアは母兼恋人のような存在へ変貌してゆきます。年齢差も相俟って、レアは"坊や"に対して「なんでもやってあげちゃう」状態になってしまいます。それは本質的に、"坊や"に対してやさしい愛ではありません。

もしわたしがほんとに洗練されていたなら、あなたを一人前の男にしてあげたはず。あなたの体の―――わたしのもだけど、快楽ばかり考えたりせずに。誰よりも洗練された、だなんて、いいえ、わたしはそうじゃなかった。だってあなたを放さなかったんだもの。そして今では、もう遅い……」

                    (河野万里子訳「シェリ」)

あなたに欠けているものは、全部わたしに責任があるわ……。ええ、そうよ、あなた。わたしのせいで、二十五歳というのにこんなに浮ついていて、甘やかされてわがままで、それでいて内面は暗くて……。あなたのことがとっても心配。これからもあなたは苦しむだろうし―――人を苦しませもするだろうし。」

                              (〃)

シェリもそれに甘んじていたわけですが、別れによって、その甘美でやわらかな泥濘から這い上がることに成功するのです。

 

 「シェリの最後」のほうでは、シェリを依存させる主体が異なっています。愛しのヌヌーンではなく、それは妻エドメと母シャルロットです。

彼女たちは、"愛しの人"に、「あなたは何もしなくてよいのだから」と、再び彼にあの泥濘を提供してしまうのです。

そうして、行動したいという意欲と、何もすることがない矛盾から、

彼は心の中で繰り返していた。

「罰してやる、すべてぶちこわしにしてやる……でも、もっとましなことがあるよな……そう、もっとましなことが……」

ただし、それがなんなのか、彼にはわからなかった。

                  (工藤庸子訳「シェリの最後」)

なんて破壊衝動を覚えたりします。また、

それが人生だと思っているんですか?

彼女はすかさず聞き返した。

「人生って、どんな?」

彼は一方の腕を持ち上げたが、そのまま下に下ろした。

「ぼくの人生。あなたの人生。(中略)」

「退屈しているの?」

いつもとちがう声、軽やかで気遣うような感じの声の優しさにほだされて、彼は率直な、ほとんど信頼しきった気分になった。

「退屈しているかって? いや、退屈なんかしていませんよ。どうして退屈なんかするんです? ただちょっと……なんていうかな、ちょっと気がかりで、それだけ

「なにが?」

「あらゆることが」

                              (〃)

と、"世紀病"である憂鬱と退屈を絡めた哲学に陥りそうになってみたりとか。

最後に彼は気がつきます。

「この先ぼくは、どこへ行っても半人前でしかない……」

                              (〃)

つまり、裕福で類い稀な美貌を持ちながら、己が何の生き甲斐も持ち合わせていないことに。

 

 リュシアンも同様です。「娼婦たちの栄光と悲惨」において、ヴォートランは甲斐甲斐しくリュシアンを世話し、リュシアンもその泥濘に身を委ねています。

かれら主人公は、自分の意思に関係なく、年配の"愛しの人"に運命を絡め取られ、自分だけの力で未来へ進む力を奪い取られてしまうのです。それも、その多くは故意ではなく、ただ献身的な愛ゆえに。

我々読者の涙腺を破壊に導く最後のヴォートランへの手紙を思い起こしてみましょう。

では永久にお別れです。(中略)

あなたはあなたの約束を守った。ぼくはあなたのおかげで夢の魔法に掛けられたあげく、気がつくとまたシャラント川のほとりに立っています。しかし不幸にも、それはぼくが青春の日のわずかな過ちを沈めようとした故郷の川ではなく、セーヌ河です。ぼくの穴、それはラ・コンシェルジュリーの独房です。

ぼくを惜しまないで下さい。ぼくのあなたへの軽蔑は、ぼくの賛美と同じものです。

                (飯島 耕一訳「娼婦の栄光と悲惨」)

 「夢の魔法を掛けられた」リュシアンは、魔法使いの悪魔のマリオネットでしかありません。尤も、その悪魔は人形を心の底からいとおしくおもっていて、それは正に純愛という形容が相応しいのですが、清らかなる愛は伝達の段階で歪み、捻くれ、事態を最悪の方向へと導いてしまいます。

独房という場で魔法使いの悪魔から引き離されると、不意に彼はシャラント川のほとり、魔法使いの悪魔と出逢う前に時間が巻き戻っていることに気がつきます。しかしそれは錯覚で、仮に無意識であろうとも、自らの身体が犯した罪は消えないのでした。

そこに彼は絶望するわけです。ヴォートランを裏切ってしまったという気持ちが第一でしょう。そして自分の歩んできた道を振り返り戦慄したことも大きいでしょう。ただ、彼はそれを贖う術を知らなかったがゆえにこのような事態になったのではないでしょうか。それは、甘い泥濘に依存したリュシアンと、彼を甘やかし、生き甲斐を奪った社会、双方に責任を求めるべきです。解釈によっては、彼は選択肢を知らなかっただけなのかもしれません。

 

 ここで、わたしは奇妙な既視感を感じました。これはフランス近代文学に限らないのではないか、ということです。

ロシア近代文学を引いてみましょう。こちらの場合は、"依存"の客体は年配の恋人ではありません。「社会」です。「帝政ロシア上流階級」という、社会。

圧政によって理想は砕かれ、天からの至上命令は人々によって否定され、身動きが取れないにも関わらず、生活の保障は社会が担っているという矛盾。"生かされている"という気味の悪い感覚、それも神でもなく親しい人でもなく、―――実態の知れない社会という集合体に。

 

 こうやって見てみると、この「依存」と「生き甲斐」のテーマは、"長い19世紀"に特有の現象なのであって、一種の世紀病なのかもしれません。

そう考えると、第一次世界大戦で多くの国の身分制が崩れたことは全ての階級の人々にとっての救いであり、必然であったと言うことができるかもしれません。

西洋近代文学を読む上で、特に恵まれた資質や才能を持つ登場人物に於いては、注目して読みたいポイントがこの「依存」と「生き甲斐」のテーマであると主張して、締めたいとおもいます。

 

最後に

 深く考えず、おもいついたことをそのまま打ち出してみたら、結構な文量になっていました。お付き合いありがとうございました。

 余談として、映画のお話をしたいとおもいます。熱が冷めないうちに、徹夜で「シェリの最後」を読み終え、そのまま件の映画「コレット」を観ました。特に別記事でレビューを書くつもりはありませんが、コレットキーラ・ナイトレイ)をはじめ、ベル・エポック時代の華やかなパリと、対照的に静観なサン・ソヴールの美しさ、匂い立つような怪しげなワルツに、性の問題を明るみに出すフェミニンなドレスと紳士然としたスーツの対比……美しい映画でした。

しかし、この映画は「半生を描く」なので、シェリを書いた頃のコレットは出てきません。続編のような形で続きもやってくれないものかしらんとおもってしまいますね。

 少し長くなってしまいましたが、なにか得るところがあれば幸いです。それでは。