世界観警察

架空の世界を護るために

ニクサ皇太子様を考える - 帝政ロシア考察

 こんばんは、茅野です。

当方は国際政治系のアカデミック・サークルに属しているのですが、そこで「どうやったらロシア帝国は存続できるのか」、即ち、「どうやったらロシア革命が起きず、且つWWIに勝利出来るのか」という議題を延々と思考し、討議していました。帝政ロシアのオタクである筆者は得も言われぬほどに楽しかったです。

その過程で、わたしは12通りの救済ルートを考えました。バタフライ・エフェクトの影響なども凄まじいはずですから、ほんとうにロシア帝国が救えるのか、というの実現性は確約できませんが、歴史IFを考えるのは非常に楽しかったです。この中でも最も胸が熱くなる展開になったものをひとつ、紹介したいと思います。

それはズバリ、「ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ皇太子(Цесаревич Николай Александрович Романов)が帝位に就く」というものです。

 

ロシアの希望

 まず、何故このような発想に至ったか、というのを軽く述べさせて頂きます。

「皇太子なのに帝位に就いていない」という時点で、何があったのかはある程度察されたかと思います。そうです。帝位に就く前、21歳という若さで薨御されました。

そして実際に帝位に就いたのは彼の弟である、ご存じアレクサンドル3世です。アレクサンドル3世は「平和構築者」、そしてその治世は「帝政ロシアの黄昏」と呼ばれ、後世から見ると比較的良い時代だったのは事実です。ですが、その時代に生まれた、主に政府内の確執が元となってロシア帝国が崩壊するのも事実です。よって、ここまで遡ることでどう歴史が変動していくのかを考察することは非常に有用であると考えます。

それにこのニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子様は、恐ろしいほど興味深い人物です。夭折されたので、とても資料が少なく大変でしたが……。調べるうち、最早帝政ロシア救済はさておいて、彼の治世をどうしても見てみたかったと心底思いました。

彼の死に際し、当時の新聞はいずれもこう報じました―――「ロシアの希望の破滅」、と。

 

ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子

 そもそもこのお方はどんな人物なのでしょうか。

名はニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ様で、愛称はニクサ(Nixa)と呼ばれることが多かったようです。(以下「ニクサ皇太子様」。) 由来は彼の祖父にあたる”血の皇帝”ニコライ1世から。ちなみに、”最後の皇帝”ニコライ2世とは完全な同姓同名です。この所以については後ほど。

生まれは1843年。誕生日は当時帝政ロシアで使われていたユリウス暦では9月12日、現在のグレゴリオ暦で9月20日です。帝位継承者ですから当然長男で、弟アレクサンドル(後のアレクサンドル3世、愛称サーシャ)より2歳年上です。

父は皇帝アレクサンドル2世、母はその妻皇后マリア・アレクサンドロヴナです。彼らの第二子ですが、長女アレクサンドラは夭折しています。

ここまでは何の変哲もない、歴代の皇太子様、という様相。問題は、彼の能力にあります。

 

彼はウェーブの掛かった茶髪で、背が高く痩せていて、ハンサムで、魅力的で、且つ知的だった。絵画と乗馬が趣味で、誰とでも打ち解ける快活な性格だったが、大胆で不敵な一面もあった。 

恐ろしいほど頭がよく、礼儀正しく非常なジェントルマンで、彼に近づいた全ての人を魅了し、心を束縛した。

                 法律学者・政治思想家 チチェーリン

 ……なろう小説の主人公かな?? それでいて、当時世界一の富豪のロマノフ家の帝位継承者。申し分が無いどころではないですね。

これが世間の評価です。ニクサ皇太子様について調べると、どの文献を見てもこのような記述に出くわすはずです。

詳しく見ていきましょうか。

 

 始めに外見ですが、こんなかんじ。

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めっちゃ美人さん!

実は、帝政後半期のロマノフ家の男性は多くが美形であるというのが当時の評価です(一部を除く)。諸賢が肖像画や写真を見て仮に疑問に思ったとしても、すくなくとも当時はそういう評価だったことを留意して下さい。

 

 次に頭脳ですが、これがこの歴史IFを考えるに至った理由です。

6歳から週40時間の座学と、+軍事演習からなる帝王教育がスタートし、ロシア語、フランス語、英語、ドイツ語、ラテン語を操ったのは勿論のこと、法律学歴史学政治学軍事学、数学、経済学、音楽、文学、哲学、美術などを修め、その全てで非常に秀でた成績を残したそうです。ニコライ1世の厳しい肉体的な軍事演習にも耐え、座学では新しい戦艦のエンジンモデルを考案したようです。そこまでやるのか……。

次期専制君主であることもあってか、特に法や政治・行政に関心があったようで、すべてのロシア州法を覚え、諸外国の行政についても造詣が深いことがわかっています。これらを18歳までに全て学びきったというのだから驚愕せざるを得ません。

そんな彼の教師たちが言うには、

彼はわたしたちの全てを超える。もし彼にわたしたちほどの経験があれば、彼はどの分野であれ、天才として世に名を残しただろう。 

                         法律教師 チチェーリン 

 もしわたしが10年に1度彼のような学生を輩出できたなら、わたしは教師として誇ることができるだろう。

                       歴史教師 ソロヴィヨフ

 と、全ての教師がベタ褒め。ちなみに彼の教師の中には、あの小説家ゴンチャロフも居て、ロシア語とロシア文学を教えていたそうです。

 しかし、「皇太子だからリップサービスしてるんでしょ?」と思われるかもしれません。

こんな事実は如何でしょう。例えば、同じ教師陣は皇太子の死後、慌てて帝位継承者となった弟アレクサンドル3世の教育に立ち向かうわけですが、彼を「愚鈍なブルドッグ」と呼んで憚らなかった事実は?

或いは、未来のニコライ2世に対し、「彼はいつも鼻くそをほじっていてまともに授業を聞いていない」と嘆いた記録はどうでしょう?

これらを見ると、わたしはリップサービスとは思うことができません。ほんとうに優秀な方だったのだと推測します。

 

 性格面を見てみましょう。

基本的には社交的で快活だったようですが、稀に大胆な国益重視が見え隠れすることがあります。こちらも皇太子に相応しい性格といってよいでしょう。

例えば、ポーランド蜂起の際、父皇帝に対し手紙で「ポーランドで反乱が起きそうです。わたしは心の底から戦争は望みませんが、反乱が起こった際の鎮圧には、積極的に取り組みたく存じます。何故なら、彼らは私に反乱の鎮圧という輝かしい経験を与えてくれるのでしょう?」と書き送ったそうな……。なんたる自信!!

 又、日常生活でも皇太子としての立場を理解していて、かつての恋人はオルデンブルグ公国の姫。つまり、ロシア帝国で御法度となっていた貴賤結婚を避けたわけです。

ちなみに、弟サーシャが貴賤結婚を希望した際、つよい口調で窘める手紙を書き送っています。

浮気しまくったり貴賤結婚禁止の原則を踏み倒したロマノフ家の皆さん、見習って下さい。

 

 そんなニクサ皇太子様についた呼称は「ロシアの希望」「輝かしい青年」「歴代欧州の君主で一番の頭脳」、さらには「完成の極致」。

「完成の極致」ということばをひとりの人間に使うだなんて、未だかつて聞いたことがありません。たしかに、この非の打ち所のなさは「完成」「完璧」のことばこそ相応しい。

 

皇太子に対する評価

 「完成の極致」と呼んで彼を溺愛したのは、叔父(父アレクサンドル2世の弟)のコンスタンティン・ニコラエヴィチ大公(愛称コースチャ)です。

コースチャ大公は自らが帝位を望み、幼い頃兄アレクサンドル2世を退け己が皇帝に望むことを望んだ人です。兄よりも頭が切れ、狡猾だった彼は兄と仲違いをし、虎視眈々と帝位を狙っていました。

そんな彼が今では、このニクサ皇太子を次期帝位継承者として「完成の極致」と呼んで溺愛したのですから、そこからも彼の人望の厚さというのが伝わるのではないでしょうか。

ニクサ皇太子様の方も、自由主義的な政治思想が似ていたこともあって、コースチャ大公を慕っていたようです。

ちなみにコースチャ大公にも同じニコライという名の息子がいたのですが(由来も同じニコライ1世)(愛称はニコラ)、美貌を武器に放蕩に耽り、皇家の威信を限りなく傷つける、という未来が待っています。大公は色々思うところがあったに違いありません。

 

 又、そのコースチャ大公は彼の血の繋がらない叔母(父ニコライ1世の弟ミハイルの妻)であるエレーナ・パーヴロヴナ公女と大変親しかったのですが、その理由も主に自由主義的思想が一致したからです。ということは、その系譜に連なるニクサ皇太子様も彼女に親しかったというわけです。

 更に、当然彼の両親も息子を溺愛しました。これは後の悲劇にも直結するのですが、この両親である皇帝夫妻は、アレクサンドル2世がたいへんな浮気性であったことから夫婦仲が冷め切っていたのですが、この愛息への愛でのみ団結していました。

 

 しかし、誰よりも彼を愛した人がいます。弟サーシャです。後のアレクサンドル3世となる彼は家臣に「頭脳レベルは平均よりも低い」と言われるほどで、取り柄は性格が非常に柔和であることと、力がつよいこと。

そんな彼はこの完成品である兄を狂信的なまでに熱愛したことがわかっています。誰にでも兄を自慢し、自分が何か成し遂げたときは彼に褒め言葉をねだり、いつも影のように付きまとっていたとか。

彼の死後生まれた息子にはニコライと名付けましたが(後のニコライ2世)、これは勿論このニクサ皇太子様を由来としているわけです。たまたま父称も被り、完全な同姓同名となりました。

 今伝わるあのがっしりとした巨人皇帝が、かつてはそんな性格だったなんて、知っていた方は少ないのではないでしょうか。

 

 

 視点を拡げてみましょう。

ロシア帝国は反体制文学が花開いた、皇家に優しくない世界です。

特に父アレクサンドル2世は何度も暗殺未遂に晒され、その最期もテロリストによる爆弾によるものです。

そんな中で、ニクサ皇太子の支持率というのは如何ほどだったのでしょうか。見てみましょう。

 まず、皇家の支持基盤というのは軍隊です。皇太子自身、ロシア帝国陸軍の軍事演習に参加し、少将の位を持っています。指揮官としても有能だったようで、軍は引き続きロマノフ家への忠誠を誓ったわけです。

 次に、常に敵対勢力となる左派を見てみましょう。ところがニクサ皇太子様は前述したように、自由主義的な思想を持っています。これが左派インテリゲンチャのサロンの間で評価されます。よって、常にツァーリ政府にとって邪魔な存在だった左派も彼を支持したというわけです。

 特権階級、裕福層はどうでしょう。彼らへの対応も忘れてはなりません。皇太子は前述のように快活で社交的な性格だったので、社交界ですぐに多数のコネクションを持つことができたようです。「皇家なら当然なのでは?」とお思いかも知れませんが、実はそうでもありません。帝都ペテルブルグ社交界は陰湿な場として有名で、ニコライ2世夫妻などは大変に疎まれたという記録があります。紳士達は彼の礼儀正しさに感服し、令嬢たちはこぞって彼に恋をしたという文献が残っています。

 最後に貧困層を見てみましょう。彼は19歳のとき、ロシア帝国内の査察の旅に出かけます。これは皇太子時代に、将来自分が治める国の実態を知るというプログラムで、19世紀後半のロマノフ朝の皇太子は皆行っています。

彼が田舎の村々を訪問すると、農民達は輝かしい皇帝の愛息に群がります。そこで満たされない己が状況を述べ、救いを乞います。前述のように、ニクサ皇太子様はロシアの州法に精通していたので、自分の権限で出来る最大の施策を行い、地方行政に貢献したそうで、これにてガッッツリと貧困層のハートをゲットしたようです。

 このように、ほぼ100%と言ってもよいほど、国内からの支持が厚かったというのがおわかり頂けるでしょうか。こんなことがあり得てよいのでしょうか。

彼について調べていて、一ヶ月ほどずっといろいろな言語で資料に当たっていたのですが、彼についてマイナスに書かれた文献を未だに一つも見つけられておりません。

 

 では諸外国ではどうなのか。

たとえば、政情が不安定なギリシャでは、ロシア帝国皇太子であるこのニクサ様に、「ギリシャの統治をしてほしい」と国民選挙で票が集まるほど。

20歳で訪れたイタリアでは、直前にイタリア統一を果たしていたことから、我らが法と行政に明るい完成の極致様は、1歳年下のイタリア王子ウンベルトに、サルデーニャ法典についてかなり細かく尋ね、閉口させたとか。

驚いたイタリア王子は「あなたのお国では皇太子が法や政治を熟知していなければならないのかもしれませんが、わたしたちはそうではないのです。わたしたちは宮廷でビジネスが出来ればそれで構わないんです」と答えたそうで、その時我らが皇太子様がどのような反応をしたのかは記録に残っておりませんが、呆れたのか、優しく取り繕ったのか、果たして……。

その後、王子との会談に満足しなかったロシアの希望はイタリア王エマヌエーレ2世とイタリア諸大臣に面会を願い出て、完璧な演説を行い、王を感嘆させたばかりか、イタリア外務大臣は近くに居たチチェーリンに「彼はなんと完璧なのだろう!もし彼のような人に仕えることが出来るのならなんと幸せなことか!ああ、あなた方はどれほど彼を名誉に思っているのだろう!」と伝えたという記録が残っています。

イタリアの大臣まで虜にするのが我らが皇太子様というわけです。

 

 

 最後に、婚約者であるデンマークのダウマー姫。これは主に、ロシアから見るとプロイセンを中心とした情勢の変化からくる、そしてデンマークから見ると金銭的な理由からくる政略結婚なのですが、すぐに相思相愛になり、双方の熱烈な恋文が残っています。(ロシア国立公文書館所蔵)

ダウマー姫(愛称ミニー)は、当時貧しかったデンマークの姫ですが、姉のアレクサンドラと共に大変な美女として有名で、国王夫妻はこの二人の娘を使って国を建て直そうと考えます。そして長女アレクサンドラは当時の海を支配した大英帝国へ。そして次女ダウマーは当時最も資金力のあったロシア帝国へ、というわけです。

 そういう成り行きで、絶世の美女姫と完成の極致様の縁談が成立するわけです。とんでもないロイヤルカップルだ……。

そんな二人ですからお互いに恋に落ちるのも簡単で、ダウマー姫はニクサ皇太子をプリンス・チャーミングと呼ぶほど。とうとう童話の王子様になってしまわれたか……。

 

 如何にニクサ皇太子様が非凡な人物か、というのはご理解頂けたでしょうか。

 

ロシアの希望の破滅

 そんな完成品たる彼が、何故その才能を世に役立てることができなかったかを見てみましょう。

実は、ここに関しては資料によって記述が異なり真実は判然としないのですが、少なくとも軍事演習中に事故が起き、背骨を折るほど強打したことがわかっています。このように怪我は深刻なものだったにも関わらず、皇太子自身が無理をしたこともあって適切な処置は取られませんでした。

 その後暫くは回復したかのようでしたが、後に背筋を伸ばして歩けないほど悪化。それに対し、何も知らない父帝は皇太子を叱責したのですが、それもあって更に痛みを堪え無理をするようになります。

実はそのとき怪我が元で脊椎結核に罹患していたのですが、当時の医療ではその判断すら困難だったようです。

 前述したイタリア滞在中(王と面会した直後)にとうとう倒れ、もうその後二度と病床から起き上がることは出来ませんでした。療養地として高名だったフランスのニースに運び込まれましたが、結核菌は脳に転移し、結核髄膜炎を併発。この病は現代でもケースによっては致死率80%を超えるもので、当時の絶望的な状況がおわかり頂けるでしょうか。

 重い頭痛と、意識障害・記憶障害が続き、かなり苦しんだようです。この時、譫妄状態に陥ることもしばしばだったようですが、そこで口にしたうわ言がラテン語の章句だったり、オスマン帝国に虐げられる同胞スラヴ民族の苦境だったりと、非常に知的なものばかりだったそうで、その痛む頭脳にどのような知と思考が詰め込まれていたのかが垣間見えるようです。

1865年4月、ニースに父皇帝、母皇后、弟サーシャ、更にその下の弟ヴラジーミル、婚約者ダウマー、そしてその母デンマーク王妃が訪れ、最期の挨拶を交わしました。このときの告解で、自分の主要な罪として、「忍耐力の欠如、つまり出来るだけ早く死ねるように願ったこと」を挙げ、祖国への謝罪の意を表明したそうですから、もう皇太子の鑑と言わざるを得ません。

ユリウス暦4月12日、グレゴリオ暦4月24日が最期の日になります。最期の瞬間は婚約者ダウマー姫の口付けとなったというロマンチックさ。これが色々な意味で逆白雪姫か(?)

彼に軍事学を教えたリトヴィーノフは日記に「これ以上ないくらい美しく穏やかな顔である」と綴っています。たった21歳でした。

 1時間後、早くも剖検が行われ、直接的な死因となった脊椎と髄膜から結核菌が見つかった他、内臓も壊れていたようで、最新の研究によると原因はニコライ1世の苛酷な軍事演習にあるのではないか、ということです。

よって、事故さえなければ、というより軍事演習のカリキュラムさえ見直すことができれば……というのが、わたしの見解です。

 

 彼を狂信的に慕っていた弟サーシャは当然心に穴が開いたかのように嘆いたそうで、父帝アレクサンドル2世は暫く重度鬱状態になり仕事を放棄し誰彼構わず怒鳴り散らすようになってしまったとのこと。破局寸前の所を皇太子への愛で繋ぎ止められていた夫婦関係は壊れ、有名なエカテリーナ・ドルゴルーカヤ(ユリエフスカヤ)との愛人関係が始まってしまいます。

冒頭でも述べたように、ロシア国内紙は「ロシアの希望の破滅」と書き綴り、その死が帝国へ与えた影響は絶大でした。

 

アレクサンドル3世の治世と比較して

 さて、ここまでかなり細かくニクサ皇太子様のプロフィールと史実での死を見て参りましたが、彼が生きていたらどのようになっていたでしょう。

史実でのアレクサンドル3世の治世は、冒頭でも述べました通り、決して悪いものではありませんでした。

確かにサーシャ3世の頭脳は平均以下と言われ、皇家誰もがニクサ皇太子の死によってもたらされる影響に恐れおののきました。

しかし、サーシャ3世の時代に活躍した天才政治家セルゲイ・ウィッテが言うには、

彼は確かに頭はよくなかったかもしれない。しかし、長に必要なのは決断力と誠実さだ。彼はそれを持ち合わせていた。

とのことです。あのジョン・F・ケネディも、「我々(行政府)には優柔不断のぜいたくは許されない。我々の責任は決定を下すことである。政治とは選択することだからである。」と述べています。

よって、結果的にサーシャ3世は皇帝に向いている人物だった、ということが可能なのです。セルゲイ・ウィッテが天才でしたから、それこそ「神輿は軽い方が良い」ということなのかもしれません。

 

 しかし、ご覧頂いたように、ニクサ皇太子というのは非凡な人物です。どうでしょう、彼の治世が見たくありませんか。わたしはとっても見たいです。

というわけで、ここからは想像してみましょう。一体ロシア帝国はどうなるのか?

 まず、無事に旅行から帰ってくることができたなら、その後は皇太子としてツァーリ政府の重要なポストに就き、父皇帝を支えるはずです。

その頃アレクサンドル2世の支持率はどん底。きっとその優秀な頭脳で助け船を出せたはずだとわたしは信じます。

又、彼が死ぬことさえなければ、父皇帝が重度鬱病になって政治を投げ出したり、愛人を作って後継者争いや派閥争いなどの観点からロマノフ家が分裂することもなかったはずです。そうなれば、暗殺されることもなかったやもしれません。

 

 また、帝位に就いた後も、サーシャ3世のように人種差別政策、つまりポーランド人、ユダヤ人迫害を敢行することはなかったのではないかとおもいます。

サーシャ3世は保守的な施策を行いましたが、ニクサ皇太子の方は自由主義的な施策を行う可能性も高いです。元の思想がそちらに寄っているからです。そうなると、ナロードニキの運命や革命家たちの動きも大分変わることでしょう。

 

 諸外国との関係はどうでしょう?

例えば、マイヤーリング事件で著名なオーストリアハンガリー二重帝国のルドルフ皇太子は、フランスとロシアとの三国同盟関係を構想し、ロシアにお忍びで訪れるほど。

ちなみにニクサ皇太子はルドルフ皇太子よりも15歳年上で、仮に延命していたら経験もかなり積んでいるはずのニクサ皇太子が、お忍びでやってきた若い隣国の皇太子を逃がすでしょうか? 同盟を結ぶにせよ結ばないにせよ、きっと例の大胆な国益第一主義が顔を覗かせるに違いありません。

 又、前述のようにスラヴ民族主義的な側面もありますから、サーシャ3世のような平和構築の時代ではなく、もしかしたらまた露土戦争を開戦しているやもしれません。それはわかりません。

 

 最も、これらはすべて夢物語なのですが、如何でしょうか。

とても夢のある歴史IFだとはおもいませんか。皆様は彼の治世にどのような未来を思い描くでしょう。是非教えて頂けると幸いです。

 

おわりに

 お付き合いありがとうございました。

歴史IFの妄想って楽しいですね。ハマってしまったやもしれません。危険な沼であることを知りながら……。

それにしてもこのニクサ皇太子、ほんとうに実在したんだろうか、というファンタジーっぷりですよね。これが事実は小説よりも奇なりというやつなんでしょうか。現実世界、すごい。

もしなにか面白い歴史IFの題材などありましたら、リクエストボックスなんかに投げて貰えると喜びます。

それでは、神よロシア帝国を護りたまえ!

 

参考文献

一ヶ月みっちりリサーチしたので、リサーチ資料は膨大です。主要なものだけ挙げますのでご理解宜しくお願い致します。

bookmeter.com

bookmeter.com

bookmeter.com

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Гончаров как преподаватель у цесаревича Николая Александровича Романова / Православие.Ru