世界観警察

架空の世界を護るために

ニコライ・アレクサンドロヴィチ(ニクサ)皇太子殿下を考える - 帝政ロシア考察

 こんばんは、茅野です。

当方は国際政治の研究会に属しており、各国の代表に扮して国際問題を討議する活動をしているのですが、先日の会議では、僭越ながらニコライ2世役を賜り、彼の視点から、「どうやったらロシア帝国は存続できるのか」、即ち、「どうやったらロシア革命が起きず、且つWWIに勝利できるのか」という議題を延々と思考し、討議していました。

設定日時は1914年7月。帝政ロシアの愛好家であるわたくしは得も言われぬほどに楽しかったです。

 

 結局、ニコライ2世がどう足掻けど、史実通り1914年になってしまっている段階で、ほぼ確実にロシア帝国は救えないという結論に達しました。会議の責任者からも、「勝率は1%に満たない」とまで言われました。

しかし、そこで泣き寝入りするのは悔しいので、その後、「1914年よりも前に遡ったらどうなるのか」と色々と調べ、わたしは12通りのロシア帝国救済ルートを考えて呈示しました。バタフライ・エフェクトの影響も凄まじいはずですから、ほんとうにロシア帝国が救えるのか、という実現性は全くわかりませんが、歴史IFを考えるのは非常に楽しかったです。今回は、この中でも最も胸が熱くなる展開になったものをひとつ、紹介したいと思います。

 それはズバリ、「ニコライ・アレクサンドロヴィチ(ニクサ)皇太子殿下が帝位に就く」というものです。

 

 

ロシアの希望

 まず、何故このような発想に至ったかについて述べます。

「皇太子なのに帝位に就いていない」という時点で、何があったのかはある程度察されているかと思います。ご想像の通り、彼は帝位に就く前、21歳という若さで亡くなってしまいます

 

 そして実際に帝位に就いたのは、彼の弟である、ご存じアレクサンドル3世です。

 アレクサンドル3世は「平和構築者」の二つ名を持ち、治世の間に一度も戦争を行わなかったことで知られます。また、特に経済・外交的には評価することもできる時代であったのは事実です。

しかしながら、彼の保守的で反動的な治世は「暗黒時代」と呼ばれることさえあり、人種・地域差別政策も著しく、国民に対する締めつけも強化された厳しい時代で、ロシア帝国が崩壊する要因の一つとなったこともまた事実です。

 従って、ここまで遡ることでどう歴史が変動していくのかを考察することは非常に有用であると考えます。

 

 それにこのニコライ皇太子殿下は、恐ろしいほど興味深い人物です。早逝されたので、資料が少なく調べるのは大変ですが……。調べるうち、最早帝政ロシア救済はさておいて、彼の治世をどうしても見てみたかったと心底思いました。

彼の死に際し、当時の新聞はいずれもこう報じました―――「ロシアの希望の破滅」、と。

 

ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下

 そもそもこの方はどんな人物なのでしょうか。

名はニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフさんで、愛称として、家族の間ではニクサ(Никса)と呼ばれています(※ロマノフ家には「ニコライ」さんが沢山いるので、区別したい際には恐れながら愛称形で表記します)

由来は彼の祖父にあたるニコライ1世から。ちなみに、ニコライ2世とは完全な同姓同名です。この所以については後ほど。

 

 生まれは1843年。お誕生日は当時帝政ロシアで使われていたユリウス暦では9月8日、現在のグレゴリオ暦9月20日です。帝位継承者ですから当然長男で、弟アレクサンドル(後のアレクサンドル3世)より1歳半年上。

 父は皇帝アレクサンドル2世、母はその妻皇后マリヤ・アレクサンドロヴナです。彼らの第二子ですが、姉にあたる長女アレクサンドラは6歳で夭折しています。

 

 ここまでは何の変哲もない、歴代の皇太子様、という様相。問題は、彼の能力にあります。

 彼はウェーブの掛かった茶髪で、背が高く痩せており、容姿端麗で、魅力的で、それでいて知的だった。誰とでも打ち解ける明るい性格だったが、大胆不敵な一面もあった。 

恐ろしいほど頭がよく、礼儀正しく非常に紳士的で、彼は近づいてきた全ての人を魅了し、心を束縛してしまうのだった。

                  法学者・政治思想家 ボリス・チチェーリン

 ……なろう小説の主人公かな?? それでいて、当時世界一の富豪ロマノフ家の跡取り、世界の六分の一の領土を持つロシア帝国の帝位継承者。申し分が無いどころではないですね。

 これが当時の評価です。殿下について調べると、どの文献を見てもこのような記述に出くわすはずです。

詳しく見て参りましょうか。

 

 始めに、チチェーリンの言にもあった容姿を確認しましょう。

↑ 10代半ば頃のお写真。かなり中性的なお顔立ちだったとか。

↑ 16-7歳頃のお写真。髪の波打ち方と艶が凄い。

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↑ 19-20歲頃のお写真。ちなみに瞳の色はブルーグレーだそうです。

 確かに凄く美人さんだ……。

 

 次に頭脳ですが、これがこの歴史IFを考えるに至った理由です。

7歳頃から座学と軍事演習からなる帝王教育がスタートし、ロシア語・フランス語は勿論のこと、語学は英語・ドイツ語・教会スラヴ語・ラテン語を習得。

教科としては、宗教学・数学・経済学・文学・美術・音楽・世界史・ロシア史・戦史・ヨーロッパ哲学・民俗学・論理学・政治経済・財政・統計・法哲学・教会法・民法警察法・国家基本法国際法・戦略・戦術・砲学・要塞建築・軍政などを修め、その全てで非常に秀でた成績を残しています

各科目の教師は皆、彼の勤勉さと、恐るべき記憶力、そして理解の早さを絶賛する文書を残しています。

その中でも特に、自他ともに認める得意教科は哲学で、カントやヘーゲルなどは文字通り瞬時に理解してしまったとか。

 

 次期専制君主であることもあってか、特に法学と人道に関心があったようで、諸外国の憲法や行政についても造詣が深いことがわかっています。彼と議論を交わした政治家や家族によると、「非常に手強い論敵だった」とのこと。ううむ、恐ろしい。

 また、当時としてはかなりのリベラル思想の持ち主で、「全階級への無償教育」であるとか、「農奴制の完璧な廃止」や「多様性の尊重」、「体罰の禁止」が主な信条です。

 

 身体面では、水泳と乗馬が得意で、文武両道。他にも、絵が上手く、チェスも強かったといいます。

音楽に関しては、コルネット(トランペットに似た管楽器)の演奏をするのが好きだったようです。

 

 そんな彼の教師たちが言うには、

 この異常な成長には不安を覚えるほどだ。彼は普通の若者とは全く違う。

これほどまでの知性は、私には病的だとさえ思える。

                             教育主任 ストロガノフ伯爵

 彼は私達の全てを超える。もし彼に私達ほどの経験さえあれば、天才として世に名を残したことだろう。 

                             法律教師 チチェーリン 

 彼は非常に勤勉で、総じて素晴らしい人だ。人々がこれまでただ夢見ることしかできなかった希望という概念が、人の形をとって現れたかのようだった。

                           世界史教師 スタシュレーヴィチ

 彼は聡明で、知的労働に掛けては天才的であり、全ての国益に共鳴しているが、心配になるほど心優しい性格をしている。

                             経済学教師 チヴィリョフ

 もし私が10年に1度でも彼ほどのロシア史の理解を持つ学生を輩出できたなら、私は教師として誇ることができるだろう。

                           ロシア史教師 ソロヴィヨフ

などと、全ての教師がベタ褒め。

ちなみに彼の教師の中には、他にも、小説家ゴンチャロフ宗務院長官ポベドノスツェフ、軍事学者ジョミニ、法学者カヴェーリンなど、名だたるメンバーが揃っています。

 

 しかし、「皇太子だからリップサービスしてるんでしょ?」と思われるかもしれません。

では、こんな事実は如何でしょう。例えば、同じ教師陣は皇太子の死後、帝位継承者となった弟アレクサンドルの教育に慌てて立ち向かうわけですが、彼の学力について「ロシア語の綴りさえ怪しい」と震え上がった事実は? 或いは、未来のニコライ2世に対し、「彼はいつもまともに授業を聞いていない」と嘆いた記録はどうでしょう?

 これらを見ると、リップサービスとは思うことができません。ほんとうに優秀な方だったのだと推測します。

 

 性格面を見てみましょう。

基本的には社交的で快活だったようで、彼と交流があった人は、老若男女・階級問わず、親しみやすく、よく気が利いて、共感性の高い優しい人物であった、と書き残しています。

    自主的に貧しい人に頻繁に寄付したり、刑務所の囚人の待遇の改善を促すなど、とても人道的な人柄であったようです。歴代のロシアの皇太子で、市場調査のために日用品の買い物に出掛けたり、農民の食事を用意を手伝ったことがあるのは、彼だけなのではないでしょうか。

    一方で、複数の宮廷人に言わせると、もし一言で彼の性格を表すなら「冷静」なのだといいます。彼ら曰く、一人で静かに考え込んでいる姿がよく見られたそうな。

    それでいて、素の時にはとても自分に厳しく、弟妹や従兄弟たちの前では、酷く自虐的な言動も見せています。

 

    一度など、彼は反体制派の貴族との会食をセッティングし、接待し、議論して、相手が帰る頃には「あなたと過ごした時間が人生で一番幸せな時間でした」とまで言わせて寝返らせた、という伝説的なエピソードまで持っています。

    恋していた相手の女性が殿下に恋してしまい、恋敵になってしまった友人からは、「誰だって彼のことは好きにならざるを得ない」と諦念が込められた台詞が書かれたことも。

 

 日常生活でも皇太子としての立場を理解していて、これだけ魅力的な若者であるにも関わらず、スキャンダルも全く起こしませんでした。喧嘩などには寧ろ仲裁に入る方で、恋愛のトラブルもなく、愛の告白を受けてもいつも丁重にお断りしています。

浮気しまくったり貴賤結婚禁止の原則を踏み倒したロマノフ家の皆さん、見習って下さい。

 

 そんな殿下についた呼称は「ロシアの希望」「輝かしい青年」「歴代欧州の君主で一番の頭脳」、さらには「完成の極致」。

「完成の極致」ということばをひとりの人間に使うだなんて、未だかつて聞いたことがありません。たしかに、この非の打ち所のなさは「完成」「完璧」のことばこそ相応しい。

 

皇太子に対する評価

 「完成の極致」と呼んで彼を溺愛したのは、叔父(父アレクサンドル2世の弟)のコンスタンティン・ニコラエヴィチ大公です。

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コンスタンティン・ニコラエヴィチ大公。

 大公はかつて兄アレクサンドル2世を退け、自分が皇帝になりたいと望んだ人です。兄よりも頭が切れる彼は、兄と仲違いをし、「自分の方がより良く統治できる」と帝位を狙ったこともありました。

そんな彼が今では皇太子を次期帝位継承者として「完成の極致」と呼び、溺愛したのですから、そこからも彼の人望の厚さというのが伝わるのではないでしょうか。

 殿下の方も大公を慕っていたようで、大公が殆どプロ級のチェリストであったこともあり、よくこの叔父に連れられてオペラを観に行ったりしていたようです。

 コンスタンティン大公は、若い甥の類い稀な才能を非常に高く評価しており、国事など重要な問題に関しても、行き詰まると、なんと年若い彼に相談をし、素直に進言を聞き入れていたとか。

 

 更に、当然、彼の両親も息子を愛しました。両親である皇帝夫妻は、父アレクサンドル2世がたいへんな浮気性であったことから殆ど夫婦仲は冷めていましたが、殿下が存命のうちは致命的な一線を越えることはありませんでした。

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↑ 皇帝アレクサンドル2世。

 父は、息子の能力の高さを評価しつつも、彼のあまりの人望の厚さに、嫉妬の念さえ滲ませることがあったとか。

↑ 皇后マリヤ・アレクサンドロヴナ。美女過ぎる。

 母は、ロシアに嫁いでからの殆どの時間を帝位継承者である長男の養育に充て、周囲からも「長男は彼女の全てだった」と書かれるほどで、他の子ども達を半ば放置してまで長男を偏愛したといいます。

 

 しかし、誰よりも彼を愛したのは、すぐ下の弟アレクサンドルです。後のアレクサンドル3世となる彼は、教師達に「頭脳レベルは平均よりも低い」と言われるほどで、取り柄は非常に優しい性格であることと、力が強いこと。

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↑ 20歳頃のサーシャ大公。人柄の良さが顔に出ているような気がしますね。 

 そんな彼はこの完成品である兄を狂信的なまでに熱愛し、側近には「兄を崇拝していた」と書かれるほどブラコン。彼自身、友人や、未来の妻に対してさえ、兄のことを「世界中の何よりも愛している」と語っています。

 殿下の没後生まれた息子にはニコライと名付けましたが(後のニコライ2世)、これは勿論この最愛の兄ニコライ殿下を由来としているわけです。たまたま父称も被り、完全な同姓同名となりました。

 今伝わるあのがっしりとした巨人皇帝が、かつてはそんな性格だったなんて、ご存じの方は少ないのではないでしょうか。

 

 視点を拡げてみましょう。

ロシア帝国は反体制文学が花開いた、皇家に優しくない世界です。特に父アレクサンドル2世は何度も暗殺未遂に晒され、その最期もテロリストによる爆弾によるものです。そんな中で、殿下の支持率というのは如何ほどだったのでしょうか。見てみましょう。

 

 まず、皇家の支持基盤というのは軍隊です。皇太子自身、ロシア帝国陸軍の軍事演習に参加し、少将の位を持っています。コネクションを広げるばかりか、反逆的な連隊に対して自作の原稿で演説を打つなど、積極的な行動を行う若き皇太子に、軍は引き続き忠誠を誓ったわけです。

ある将軍は、彼に会った時の日記に、「彼はなんて美しい人なんだろう!」と書いています。

 

 次に、知識階級について見てみましょう。殿下は前述したように、自由主義的な思想を持っています。これがインテリ左派の間で評価されます。よって、独裁に懐疑的な左派でさえも、「彼が上からの改革を成した方が良い」と、彼を支持したというわけです。

 

 特権階級、富裕層はどうでしょう。彼らへの対応も忘れてはなりません。殿下は前述のように快活で社交的な性格だったので、社交界ですぐに多数のコネクションを持つことができたようです。

「皇家なら当然なのでは?」とお思いかも知れませんが、実はそうでもありません。帝都ペテルブルク社交界は陰湿な場として有名で、ニコライ2世夫妻などは疎まれたという記録があります。紳士達は彼の礼儀正しさに感服し、令嬢たちは彼に恋をしたと言われています。

 

 最後に貧困層を見てみましょう。彼は19歳のとき、ロシア帝国内の査察の旅に出かけます。これは皇太子時代に、将来自分が治める国の実態を知るというプログラムで、19世紀後半のロマノフ朝の皇太子は皆行っています。

 彼が田舎の村々を訪問すると、農民達は彼に満たされない己が状況を述べ、救いを乞います。皇太子は相手が誰であっても謙虚に話を聞き、皇帝や省庁に掛け合い、自分の権限でできる限りの施策を行って地方行政に貢献し、これにてガッツリと貧困層のハートをゲットしたようです。

 また、識字率が低いこともあって政治的な要求ができなかったり、運悪く皇太子と話す機会に恵まれなかった人々にとっても、彼の秀麗な容姿は好意的に映ったようで、単純にそのような側面からも支持率を上げることができたようです。

 

 このように、ほぼ100%と言ってもよいほど、国内からの支持が厚かったというのがおわかり頂けるでしょうか。こんなことがあり得てよいのでしょうか。

国民は、文字通り「誰もが」彼が帝位の継承者に相応しいと思い、彼を愛し、尊敬していたというのです。これが、「完成の極致」。

 

 では諸外国ではどうなのか。

 21歳で訪れたイタリアは、直前にイタリア統一を果たしたばかりでした。そこで我らが法と行政に明るい完成の極致様は、1歳年下のウンベルト王太子に、主に裁判法についてかなり細かく尋ね、閉口させたとか。

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↑ ウンベルト王太子。ちなみに彼は「恋のライバル」でもありました。

 驚いたイタリア王子は、「あなたの国では皇太子が法や政治を熟知していなければならないのかもしれませんが、私達はそうではないのです」と答えたそうで、その時我らが皇太子様がどのような反応をしたのかは記録に残っておりませんが、呆れたのか、優しく取り繕ったのか、果たして……。

 

 その後、王子との会談に満足しなかったロシアの希望は、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とイタリア諸大臣に面会を願い出て、完璧な演説を行い、王を感嘆させたばかりか、同席した敏腕で知られるイタリア首相ラ・マルモラは、ロシアの代表団に対し、

 彼はなんて完璧なのだろう! もし彼のような人に仕えることができるのなら、どれほど幸せなことか! ああ、あなた方はどれほど彼を誇りに思っていることだろう!

と興奮気味に伝えたという記録が残っています。

イタリアの官僚まで虜にするのが我らが皇太子様というわけです。

 

    他にも、後のドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム1世は、彼のことを幼少期から大層可愛がり、「彼が自分の孫だったらよかったのに」と言い、会う度に成長を喜んでいたとか。後の大王も殿下の魅力に当てられています。

 

 「狂王」として知られるバイエルンルートヴィヒ2世は、我らが殿下とは同年代で仲が良く、彼がバイエルンを訪問すると、一日中どこに行くにも彼を離さなかったといいます。

語学にも秀でる完成の極致様は、若き王に合わせて会話は全てドイツ語で行ったそうです。1歳年上の殿下は、親身に色々な相談に乗ってあげていたとか。

 

 最後に、恋人であり婚約者であるデンマーク王女ダグマール姫。

これは主に、プロイセンを中心とした情勢の変化を理由とした政略結婚なのですが、童話の如く一目で相思相愛になり、非常に珍しい、王朝政略結婚にして恋愛結婚でもありました。

デンマークのお姫様ダグマール。美しいというより、可愛いですよね。

 ダグマール姫(ロシア語だとダーグマル姫、デンマーク語だとダウマー姫)は、当時敗戦を経験したばかりで貧しかったデンマークのお姫様ですが、姉のアレクサンドラと共に美少女として有名で、国王夫妻はこの二人の娘を使って国を建て直そうと考えます。

そして長女アレクサンドラは当時の海を支配した大英帝国へ。そして次女ダグマールは当時最も資金力のあったロシア帝国へ、というわけです。

 ロシア帝国としても、同国が不凍港の獲得に躍起になっていた、ということはよく知られた事実かと思いますが、デンマーク王国は海峡を支配しており、ロシアにとっても地政学的にデンマークとの同盟関係は望ましいものでした。

 そういう成り行きで、絶世の美少女なお姫様と、完成の極致と呼ばれる皇子様の縁談が成立するわけです。とんでもないロイヤルカップルだ……。

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↑ ニクサ殿下とダグマール姫。

そんな二人ですからお互いに恋に落ちるのも簡単で、元々は政略的な縁談だったとは思われないほど情熱的に愛し合い、誰の目から見ても好ましい若きカップルであったようです。

 

 如何に殿下が非凡な人物か、というのはご理解頂けたでしょうか。

 

ロシアの希望の破滅

 そんな完成品たる彼が、何故その才能を世に役立てることができなかったかを見てみましょう。

    幼少期には病弱気味で、よく貧血を起こしていたそうですが、特別持病はなかったとされています。しかし、父帝は息子が「中性的で、気品ある」のが気に食わず、もっと男らしさを身に付けて欲しいと、厳しい軍事演習を課すようになります。

 その結果、16-7歳の境目辺りに事故が起き、彼は背骨を強打してしまいます。怪我は深刻なものだったにも関わらず、当時の医学は発展途上で、適切な処置は取られませんでした。

 

 その後暫くは回復したかのように見えましたが、後に酷く悪化。休養を求める皇太子に対し、厳しい父帝は「怠けている」などと言って叱責し、行事や勉学を休むことを許さず、その結果、彼は更に痛みを堪え、隠し、無理をしてしまうようになります。

実はそのとき怪我が元で脊椎結核という病に罹患していたのですが、当時の医療ではその判断すら困難でした。

 

 そして外遊中、フィレンツェ行きの列車の中でとうとう倒れてしまいます。

しかし、倒れた後も、真面目な彼は病気を悟られぬよう気丈に振るまいながら、無理を押して政務などをこなし、同時代人の意見では、明らかに過労だったと言います。

 無理が祟って再びフィレンツェで卒倒してしまい、療養地として高名だったフランスのニースに運び込まれましたが、その頃には結核が脳に転移してしまっており、結核髄膜炎を併発

この病はかなり珍しい上に、進行が速く、現代の最新医療を用いても死亡率の高い病です。当時では全く治療法がない不治の病で、最早彼の命を救う手立ては存在せず、彼に残された日々もごく僅かでした。

 

 急速な病の進行から脳出血を起こしてしまった彼は、耐え難い程の頭痛と意識障害が続き、酷く苦しんだようです。

この時、譫妄状態に陥ることもしばしばだったようですが、そこで口にしたうわ言が、ラテン語の章句だったり、オスマン帝国に虐げられる同胞スラヴ民族の救済を訴えたり、果ては外国の大使団に向けた質の高い演説を始めたりと、非常に知的なものばかりだったそうで、その失われゆく頭脳にどのような知と思考が詰め込まれていたのかが垣間見えるようです。

 

 1865年4月、ニースに父皇帝、母皇后、弟アレクサンドル大公をはじめとする弟たち、婚約者ダグマール姫らが訪れ、最期の挨拶を交わしました。

自分のことを深く愛してくれていた家族には、「僕がいなくてもちゃんと生きていける?」と尋ね、周囲には、遺される恋人や弟をどうか支えてあげて欲しい、と遺言しています。

 そして最期の痛悔(告解)で、自分の主要な罪として、「忍耐力の欠如、即ちできるだけ早く死ねるように願ったこと」を挙げ、祖国への謝意を表明したそうですから、もう皇太子の鑑と言わざるを得ません。最期まで精神的に落ち着いていて、多くの人を看取った神父さえも、「彼は聖人だ」と言って涙を流したといいます。

 

 ユリウス暦4月12日、グレゴリオ暦4月24日の深夜、ロシアに幸福を約束した彼は、家族や恋人に看取られ、静かに息を引き取りました。臨終に立ち会ったリトヴィーノフ中尉や女官チュッチェヴァは、「これ以上ないくらい美しく穏やかな顔である」と綴っています。

 一方、死後解剖と防腐処理を行った医師ピロゴフやズデカウエルによれば、「どれほどの苦痛だったか考えたくもない。髄膜の炎症のみならず、肺にも転移していた上、脊椎が壊死し、満身創痍の状態だった。死は避けられなかった」と書いています。たった21年7ヶ月の人生でした。

↑ 亡くなった翌朝のお写真。

 

 兄を狂信的に慕っていた弟アレクサンドル大公は、人目も憚らず子供のように泣きじゃくり、「彼がいない世界でなんて生きていけない」とさえ言って嘆きました。

 婚約者のダグマール姫は、彼が息を引き取る瞬間に唇を重ね、泣き叫びながら恋人の遺体に縋りついて全く離れようとせず、医師達に無理矢理引き剥がされ、気絶してしまうまでそうしていたといいます。

 頼りになる後継者である愛息を正に己の腕の中で喪った父帝アレクサンドル2世は、暫く重度の鬱病に陥り、仕事を放棄し誰彼構わず怒鳴り散らすように。 

 母マリヤ・アレクサンドロヴナは、自身の半生の全てを懸けて愛し育てた長男の早逝を全く受け入れることができず、その後は殆ど廃人のようになってしまったと言います。

 

 冒頭でも述べたように、ロシア国内紙は「ロシアの希望の破滅」と書き綴り、その死が帝国へ与えた影響は絶大でした。

 

アレクサンドル3世の治世と比較して

 さて、ここまでかなり細かくニコライ皇太子殿下のプロフィールと史実での死を見て参りましたが、彼が生きていたらどのようになっていたでしょう。

史実でのアレクサンドル3世の治世は、冒頭でも述べました通り、必ずしも悪いものではありませんでした。確かにアレクサンドル3世の頭脳は平均以下と言われ、皇家のみならず国民の誰もが殿下の死によってもたらされる影響に恐れおののきました。

しかし、アレクサンドル3世の時代に活躍した天才的な政治家セルゲイ・ヴィッテは言います。

彼は確かに頭はよくなかったかもしれない。しかし、長に必要なのは決断力と誠実さだ。彼はそれを持ち合わせていた。

 あのジョン・F・ケネディも、「我々(行政府)には優柔不断のぜいたくは許されない。我々の責任は決定を下すことである。政治とは選択することだからである。」と述べています。

 従って、結果的にアレクサンドル3世は皇帝に向いている人物だった、ということが可能なのかもしれません。セルゲイ・ヴィッテが天才でしたから、それこそ「神輿は軽い方が良い」と言えるでしょうか。

 

 しかし、ご覧頂いたように、ニコライ殿下というのは非凡な人物です。どうでしょう、彼の治世が見たくありませんか。わたしはとっても見たいです。

というわけで、ここからは想像してみましょう。一体ロシア帝国はどうなるのか?

 

 まず、無事に旅行から帰ってくることができたなら、その後は皇太子として皇帝政府の重要なポストに就き、父皇帝を支えるはずです。

その頃、農奴解放令が "失敗" したアレクサンドル2世の支持率はどん底。きっとその優秀な頭脳で助け船を出せたはずだとわたしは信じます。

 また、彼が死ぬことさえなければ、父皇帝が鬱病になって政治を投げ出し、保守的で抑圧的な時代に逆戻りしたり、愛人を作ってスキャンダルを起こして、ロマノフ家が分裂することもなかったはずです。そうなれば、暗殺されることもなかった可能性さえあります。

 

 また、帝位に就いた後も、アレクサンドル3世のように人種差別政策、つまりユダヤ人迫害やフィンランド弾圧、ドイツ人の排斥などを敢行することはなかったのではないかと思います。

そして彼は、その人望の厚さから帝国の外に住むスラヴ諸民族にも慕われていたので、更に帝国の領土が拡大されることも充分に考えられます。

 

 アレクサンドル3世は保守的な施策を行いましたが、ニコライ殿下の方はより自由主義的な施策を行う可能性が非常に高いです。

 アレクサンドル2世は、農奴解放令にサインしたガチョウの羽根ペンを長男に託しました。「続きはおまえが引き継げ」という象徴です。

それが、結局はペンを譲り受けなかったアレクサンドル3世の治世になり、改革も途絶えると。そうなると、ナロードニキの運命や革命家たちの動きも大分変わることでしょう。

 

 同時代人は、ロシア史に於いて、彼を「ピョートル大帝に次ぐ、或いはそれを超え得る君主になるだろう」と口を揃えて言いました。

多岐にわたる改革を行った大帝と比較されるわけですから、わたしたちには想像もつかないような方法で善政を行ってくれるかもしれません。

 

   多くの研究者は、彼が統治していればロシア革命が起こらず、ソ連にはならなかっただろう、と言います。

最初の問いを思い出してください。どうやったらロシア革命が起きず、且つWWIに勝利できるのか、です。

彼が統治をするならば、少なくともロシア革命は起こらない可能性が高いのです。

 

 尤も、これらはすべて夢物語なのですが、如何でしょうか。

とても夢のある歴史 IF だとはおもいませんか。皆様は彼の治世にどのような未来を思い描くでしょう。是非教えて頂けると幸いです。

 

最後に

 お付き合いありがとうございました。1万字強。

歴史 IF の妄想って楽しいですね。ハマってしまったやもしれません。危険な沼であることを知りながら……。

 それにしてもこのニコライ殿下、ほんとうに実在したんだろうか、というファンタジーっぷりですよね。これが事実は小説よりも奇なりというやつなんでしょうか。現実世界、すごい。

 

 余りに興味深い「完成の極致」様に、わたくしもズブズブに沼ってしまい、色々連載を書いております。

こちらにそれぞれの第一回のリンクを貼っておきますので、良ければお付き合いくださいませ。

【限界同担列伝】シリーズ

 当記事でもご紹介した通り、ニコライ殿下には熱烈なファンがいっぱい! しかし、不法侵入、覗き、ストーキング……ってそれ犯罪では!? ―――殿下への愛に狂った「限界同担」たちをご紹介する、とにかく笑える珍記録集。全7回。

 

【メシチェルスキー公の『回想録』を読む】シリーズ

 殿下の友人の一人であるメシチェルスキー公爵は、同性愛者でもあり、殿下に並々ならぬ感情を向けていて……? ―――史実ながらに文学的でさえある、ほろ苦くも甘酸っぱい青春の日々の回想の翻訳。全7回。

 

【ガデンコの『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』を読む】シリーズ

 若くして国外で客死してしまったニコライ殿下。重い病に苛まれ苦しんだ最期の日々、彼の歿地に建てられた礼拝堂など、人生の最期を過ごしたフランスのニースとの関わりについてフォーカスした資料の翻訳。全5回。

 

【大公殿下と公爵の往復書簡】シリーズ

 前述のメシチェルスキー公爵との手紙の一部を読んでいきます。愛の告白だったり、家を出禁になったりなどの彼らの特殊な関係性が伺えるエピソードもあれば、真面目な政治談義や、深刻な悩みの相談なども……? 等身大の彼らを追う翻訳連載。全9回。

 

【婚約を巡る書簡集】シリーズ

    我らが殿下とデンマーク王女ダグマール姫は、政略結婚にして相思相愛。2人はどのように恋に落ち、プロポーズしたのでしょう。愛や政治の話はしたのでしょうか。童話の如く愛らしく美しき王子様とお姫様の恋物語を追う連載。全8回。

 

 他にも、解説や翻訳など、色々と単発記事も上げておりますので、楽しんで頂ければ幸いです!

 

 それでは、今回はここでお開きと致します。また別記事でお目に掛かれれば幸いです。殿下沼の奥底にて、心よりお待ち申し上げております!

 

参考文献

Государь-наследник Николай Романов, так и не ставший императором