こんばんは、茅野です。
夢のオネーギンから一週間が経ちましたね。時の流れの速さにびっくりしています。
今回は、シュトゥットガルト・バレエ『オネーギン』で販売されていたパンフレットについて述べようと思います。これが非常にクオリティが高くて!
それではお付き合いを宜しくお願い致します。
観た公演の感想についてはこちらから。
物語 Synopsis
物凄く今更なことを言うのですが、クランコ版では何度も出て来る「鏡を覗くと恋する人が現れるという遊び」って実際当時あったんでしょうかね。
筆者調べでは、現在特にそういう遊びがあった事実を見つけられていないのですが、ないと断定することは悪魔の証明になるので、引き続き調べていきたい所存ですね。何か情報をお持ちでしたら教えて下さると嬉しいです。
追記:
ジョン・クランコの伝記で「これはクランコの創作である」という文章を確認しました。
コール・ドについて、「近隣の少女たち」と表現されているのですが、これはラーリナ家の農奴ということではなく、地主階級の娘たちを指すのでしょうか。しかし、二幕一場の名の日の祝いならともかく、この人数集めるのは厳しいものがあるのではないでしょうか。それに、コール・ドのダンスはポルカはともかくロシアの踊りの方は非常に民族的なものなので、農民と考える方が筋が通るんですよね。そう考えるとやはり農奴の娘たちということになると思うのですが、そうなると「近隣の少女たち」という表記は合わないような……。彼女らは一体……なんなんだ……?? もう少し時代考証を詰めれば見えてくるのかもしれません、もう少し勉強してみようと思います。恐らくラーリナ家の農奴の娘たちだとは思いますが……。
又、全体的にオネーギンがタチヤーナに対して抱いている感情というのが原作との違いと言えますね。
確かにクランコ版では恋文を破く非情さを見せますから、タチヤーナに微塵も心動かされていない、という方が筋が通るのかも知れません。
特に原作を読み込んだダンサーはどのような解釈でこの役に挑むのか割れそうですね。色々インタビューなんかを聞いて傾向とか出してみたら面白いかもしれません。
こちらも今更感がある感想ですが、グレーミン公爵はラーリナ家の遠縁という設定なのですね! しかも初っぱなからタチヤーナに恋をしているという。
その一方で、オネーギンと親戚兼友人、という関係は残っているのでしょうか、消えたのでしょうか?
第二幕第一場で最初から親しげに話すマイムがある点や、第三幕第一場ではオネーギンが長旅からペテルブルグに戻ったその日に舞踏会に呼ばれている点など、恐らくその関係は消えたわけではないのでは、と思うのですが記載がないのでわかりません。
しかしそうすると、ラーリナ家の遠縁でオネーギンの親戚ってよく考えると凄いですよね。
第三幕第一場、「自分の犯した過ちと、うしなったものの大きさに恐れおののくオネーギンには、今や人生はいっそうむなしく、無意味に感じられる。」というのも、原作と違う点かもしれません。
と申しますのも、グレーミン公爵夫人に恋をしたオネーギンは、もうその恋しか目に映らなくなってしまい、「人生を無意味に感じる」ことはまず無い、というように読めるからです。
この設定だと、余計に第三幕を演じるダンサーは解釈に戸惑うのではないでしょうか。うーむ、エヴゲーニー・オネーギン、ほんとうに難しい役柄だ……。
オネーギンの50年
非常にわかりやすくクランコ版オネーギンの歴史が綴られています! 白鳥の湖もご覧になる方は、まだ間に合うので是非お買い求めください。
「手紙のPDDでのオネーギンとタチヤーナの動きがハート(♡)の形を表している」との記述に驚きました。たしかに言われてみればそう見える! 逆にどうして今まで気付かなかったんだろうと思ってしまいました。なるほど。皆さんこれにはすぐ気付くものなのでしょうか。ちょっと恥ずかしくなってきました。
↑ここです。画像はヴラディスラフ・ラントラートフ氏とオリガ・スミルノワ氏。
(オネーギン役は)役柄に対する姿勢を確立することが肝要なのだ。自分自身と闘うオネーギンを、 疲れて円熟した、魔性の攻撃的人物として演じることも、冷たく高慢な都会人あるいは自分を見失った、影のあるボードレール的アンニュイに苦しむ主人公としても演じることができる。
美しいラインも重要だが、演技の重要性もまたそれに勝るとも劣らない。このようにみると、オネーギンはむしろ演劇なのだ。ダンサー独自の解釈が可能である、というよりも、まさにダンサー一人一人の解釈が求められる、といった方が正しい。
(中略)
この魅力的でアンヴィヴァレントな役を、高慢なダンディと支離滅裂な孤独な男というキャラクターの幅の中で、どんな人物像にしてもよいのだ。決定権は、ひとえに演じる者の手中にある。 「それとも、もしかしたら彼はパロディに過ぎないのかしら?」とプーシキンの小説でタチヤーナは自分に問うているではないか。はたして、プティパの『眠れる森の美女』について、こんなにじっくり考えられたことはあるだろうか。
(アンゲラ・ラインハルト)
長い引用になってしまいましたが、これほどまで的確に舞台に立つオネーギンを論じた文がありましたでしょうか!
まさに仰る通りとはこのことです。オネーギンが何度見ても飽きないのは正しくここにあると思うんですよね。
もうオネーギンを見る全ての人に読んで頂きたい名文だと思います。このパンフレットが入手できて、ほんとうによかった。
……しかし、ほんとうに「決定権は、ひとえに演じる者の手中にある」のでしょうか? クランコ財団は演技指導も細かく、厳しいと聞き及んでおりますので、ちょっと懐疑的です。
バレエ『オネーギン』の音楽
19ページには、クランコ版オネーギンに使われた原曲の一覧が載っています!
わたしは過去にクランコ版オネーギンで使われた原曲一覧を記事で纏めていたので、この一覧にはもっと早く出会いたかった!
クソ~!あんなに頑張ってドイツ語を読んだのに!!!(※ドイツ語はわからないので翻訳機を使い、且つ「あれでもない、これでもない」とチャイコフスキーの曲を聴きまくりました。)(良い経験になりました、有り難う御座いました。)
↑その記事です。動画のリンクなどもあるのでよかったら参考にしてください。
しかし、このCDのブックレットとは一部差異があるようですね。
例えば、ブックレットには載っていないのですが、第一幕第二場のオネーギンが登場するシーンで使われている『地方長官』がパンフレットには載っています。第二幕第一場で同じくオネーギンが登場するときに使われる曲は『感傷的なワルツ』ですが、こちらもブックレットにはなく、パンフレットに載っています。
うーん、精確なものに統一してほしい()、と思いつつ、情報開示は有り難いです。
それにしても、シュトルツェは本当に編曲が上手いですよね!
ポプリ形式のバレエ組曲は他にもありますが、オネーギンがやはり一番自然だと感じます。オペラのみならず、バレエのほうも頻繁に聞きたくなるのはシュトルツェの功績が大きいと感じます。
おわりに
またもマニアックな記事を書いてしまいました。お付き合いありがとうございました。
これにてシュトゥットガルト・バレエ団2018年公演『オネーギン』の感想記事はお終いとなります。ほんとうに素敵な時間をありがとうございました。
また、彼らのオネーギンが観られることを願って、締めとさせて頂きます。