世界観警察

架空の世界を護るために

オネーギン年齢論争

  こんばんは、茅野です。

 

 今回の議題はズバリ、「オネーギンは何歳なのか」、です。

これは数多の学者、ファンを悩ませてきた難問で、未だに決着がついていません。熾烈な激論が交わされ、「オネーギン年齢論争」として知られています。

今回はこの難問をわたくしが華麗に解決!……とはゆきませんが、学者方の見解を交えながら、この謎を追ってみることを趣旨とします。

 

 それではお付き合い宜しくお願い致します。

 

 

オネーギンは何歳なのか

  皆様は我らが主人公の年齢をご存じでしょうか。

原作前半部にて、イヤというほどレンスキーの年齢は強調されています。しかしながら、我らが主人公のこととなると、一度しか出てこないのです。

 唯一原作で表記があるのは第8章「社交界」に於ける以下の記述です。

Онегин (вновь займуся им),
Убив на поединке друга,
Дожив без цели, без трудов
До двадцати шести годов,
Томясь в бездействии досуга
Без службы, без жены, без дел,
Ничем заняться не умел.

オネーギンは(再び彼に話を戻そう)、
決闘で親友を殺めるまで、
目的もなく、苦労もなく、
26歳になるまで、
無為に暮らし、
勤めもなく、妻もなく、やることもなく、
何にも打ち込めずにいた。

(VIII: XII: 8-14)

 よって、第8章(オペラ・バレエでいう第3幕)に於いては彼が26歳以上であることがはっきりしているわけです。

 

 では第1章〜第7章(オペラ・バレエでいう第1・2幕)ではどうなのか。

実はこれが実に難解な問題となっているのです。見てみましょう。

主人公のエヴゲーニイ・オネーギンはペテルブルグの没落しかけた貴族の青年で、十八歳ほどで社交界に出て、夜会や劇場通いや恋愛遊戯に明け暮れること八年、いつしか生に飽いて 、家に引きこもり、読書や物書きを試みるが打ち込めず、鬱ぎの虫にとりつかれる。その頃おじの死により相続人として初めて田園に移り住んだ主人公は、八歳年下の地主貴族レンスキイと交際を始める。(中略)

半年後のタチヤーナの名の日の祝いのパーティで、オネーギンは些細なことからレンスキーを怒らせ、決闘沙汰となり彼を射殺してしまい、村を離れて放浪の旅に出る。それから二年後、首都ペテルブルグに舞い戻った彼は自分の従兄弟にあたる将軍の嫁にして、社交界の女王的存在となった公爵夫人タチヤーナと再会する。

          (田辺佐保子『プーシキンとロシア・オペラ』)

この男がオネーギン、二十五歳。女はタチヤーナ、ラーリン家の長女で一七歳。(中略)

1821年1月14日のよく晴れた日、(レンスキーは)オネーギンに倒された。(中略)

それから二年が過ぎた。旅から帰ったオネーギンはペテルブルグでタチヤーナに再会し、我が目を疑う。

         (法橋和彦『詩体小説『エヴゲーニイ・オネーギン』の古典的性格について』)

そして八章でのオネーギンの年齢がほぼ二九―三〇歳であるから、(略)

              (田辺佐保子『タチヤーナの夫とは?』)

 エフゲーニー・オネーギンは、この時代の末期に生まれ、十六歳でペテルブルグ社交界にのりだす。ロンドン風のダンディ・スタイル、調髪は最新のモード、ペダンティックな教養、読むものはホメロスディドロアダム・スミス、そして夜ともなればオペラ、バレエ、コンサート、そして宴会、また宴会。

                (相田重夫『帝政ロシアの光と影』)

オネーギンは1795年の生まれで、勉強を終えたのは1811-12年ごろと推測される。これはプーシキンと4年の差がある。こうした推測は、第4章第9連13行、第八章第12連第11行あたりの情報から推測できる。

                     (若島正, 皆尾麻弥, 鈴木聡, 中田昌子, 吉川幹子『ナボコフ訳注『エヴゲーニー・オネーギン』注解』)

幕が開いた時点でオネーギンは26歳、レンスキーは18歳、タチヤーナも18歳くらい、その妹オリガはプーシキンの原作では「おつむを脱いだばかり」と揶揄されているが、恐らく16歳くらいなのだろう。

                 (ひのまどか『オネーギン紀行』)

 Onegin ends schooling & débuts at 17 years old (see IV:9)

 Action of Cantos II & III at he was 25 years old

                                                                                         ( Wellesley College )

いや、おかしいでしょ(正論)。

そうなんです。ただわからないだけではない。研究者であっても、それぞれ皆言っていることがバラバラなんですね! 勘弁してくださいよ!

 

ロトマンの年表

 オネーギン年齢論争で一番有名なのが、ユーリ・ミハイロヴィチ・ロトマンの説です。

概要としては、以下の通り。

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  根拠の捕捉が欲しいところです。

 

Arzamas Academyの見解

 ここで、Arzamas Academy に頼ってみましょう。

Arzamas は、めちゃくちゃマニアックなことで有名(?)なロシアの文化に関する教育サイトです。わたしも過去にテスト問題を解いていたりするのでよかったらご覧ください。

↑ 手強かった……。

 この Arzamas の説から、年齢までは特定することは適いませんでしたが、少なくとも年代に関しては情報を得ることができます。

曰く、

 オネーギン第8章は、数々の研究から1824年秋であるという見解が最も有力になっています

しかし、原作にあるように、1824年秋頃、オネーギンは家に閉じこもり、「ほとんど死んだようで、気が狂わんばかりだった」。

 さて、1824年11月にはペテルブルグでネヴァ川の大氾濫が起きています。ペテルブルグの家に引きこもるオネーギンが、これに気付かずにいられるものでしょうか?

著者であるプーシキンが、舞台となる1824年秋にペテルブルグで大洪水があったことを忘れるものでしょうか?

 そう考えると、このエヴゲーニー・オネーギンという作品は、架空の時間軸の元で書かれた小説なのかもしれません

というのも、プーシキンは「青銅の騎士」という長詩を書いていて、そのお話は1824年11月のネヴァ川大氾濫に関する物語だからです。

この詩の主人公の名前もエヴゲーニーというのですが―――或いは、運命な出来事として、わざとそのようにしたのかもしれません。

「エヴゲーニー(Евгений)」という名は、「高貴な」という意味なのですが、オネーギンが名の通りなのに対し、青銅の騎士の哀れなエヴゲーニーは貧しく、対照的です。

このように、プーシキンはエヴゲーニー・オネーギンと青銅の騎士のエヴゲーニーを、意識して対角線上に置いた可能性があります。

ということは、もしかしたら、1824年11月7日直前(※訳注:洪水のあった日)にオネーギン第8章の出来事が有り、次いで11月、青銅の騎士に繋がっていくーーーという風に考えることも出来るかも知れません。

            (Arzamas Academy "Russian Classic Alexander Pushkin"から抜粋、一部補足説明折り込み。拙訳)

 確かに、1824年には史上最大のサンクト・ペテルブルグ大洪水が起きており、水位4.20mに達したという記録があります。

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↑ 氾濫の被害にあった地域を示す地図。

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↑ 被害の状況を描いた絵画。

 

 そう考えると、1824年11月7日直前(10月末など)にオネーギン第8章があった、という説はとても自然に見えます。

 ちなみに、『青銅の騎士』ではヒロインであるパラーシャは家と共に流され行方知れずとなり(生存している可能性は絶望的といってよいでしょう)、それを見た主人公エヴゲーニーは狂気の人となり死んでしまいます。典型的な「ペテルブルクもの」ですね。

 その一方で、我らがオネーギンとタチヤーナがどのようにこの危機を乗り越えたのか、或いは乗り越えられなかったのか?

 

 オネーギンはご存じの通り、幕切れが小説としては美しいのですがストーリーとしては中途半端ですから、続きを考えるのが難しいですが、後日談でネヴァ川氾濫編、なんてあったらちょっと面白いかもしれません。

 

原作第8章との矛盾

 しかしながら、原作をよく見てみると、次のような表記があります。

Уж разрешалася зима;
И он не сделался поэтом,
Не умер, не сошел с ума.
Весна живит его: ...

冬は過ぎ去り、
彼は詩人にはならず、
死にもせず、発狂もしなかった。
春が彼を生き返らせ、……

(VIII: XXXIX: 2-5)

 これは第8章、オペラやバレエでいう第3幕第2場冒頭にあたります。

そうです。第3幕第2場は春なんです。春なんですよ。そうすると、Arzamasの説も信憑性が無くなってくるわけです。これもうわかんねえな……

 

 しかし、「月日は飛び去って行った」前、つまり、第3幕第1場がいつなのか、これが示されないのです。しかしヒントはあります。社交シーズンです。

ロシアの社交シーズンを鑑みるに、第3幕第1場は秋~冬であることがわかります。この "秋~冬" というのが、1823年であれば問題ありませんが、1824年の場合、ほぼ洪水と丸被りすることになります。であれば、1823年が有力なのか……?

 

 少なくとも、後日譚で「オネーギンがデカブリストの乱に参加する」という構想があったわけですから、最終章は1825年冬以前にあたります。これは間違い在りません。しかし、この洪水を考慮すべきなのかどうかは、なんとも言い難いのが実情です。

 

オネーギンの旅

 オネーギンの年齢を考える上で重要になってくるのが、オネーギンの旅であることは間違いありません。

 タチヤーナは第7章でモスクワに赴きますが、その間にオネーギンは旅に出ていますね。ズバリ、そこが何年間であったかを特定することができれば、芋ずる式にこの謎は解けるという寸法です。

 

 実は、『オネーギンの旅』はプーシキンがオネーギンの構想をした際、第8章として書こうとしていました。が、気が変わり、第8章は現在の形になり、この旅についてはおまけとして扱われることになったというわけです。

 

 ということは原稿が存在していたのか? あります。

邦語や英語訳は入手困難だったので、もう自分で訳しました。これでいつでも読めます、わたしの訳なんかで良ければ!

↑ こちらからどうぞ。

 

 して、上記記事を読んで頂ければわかると思うのですが、オネーギンの旅は3年間、或いはそれ以上だと考えられます

少し引用してみましょう。XIXスタンザの拙訳です。

そう昔ではないある雨の日、わたしは牛小屋へ立ち寄った―――

やれやれ!平凡な世間話、フランドル楽派の散漫さよ!

わたしもかつてはこうだったというのか?

教えてくれたまえ、バフチサライの泉よ! 

わたしが沈黙しザレマを心に創造したとき、おまえの絶え間ない水音が響き、そんなことをわたしに考えさせた。……

三年後、わたしの後を追うように同じ地方へ彷徨ったとき、ひとけの無い豪華な邸宅で、オネーギンはわたしを思い出したのだ。

 但し、「どこから3年後なのか」、が不明瞭なので、一概に断定することはできません。

普通に読めば「決闘の後から3年後」となりそうですが、『オネーギンの旅』ではプーシキン自身の見聞がベースになっているので、プーシキンオデッサに訪れてから3年後、とするとプーシキンがいつからオデッサにいる設定なのかがわからないと特定が厳しくなります。

現実のプーシキンに則して考えると、1820年が起点となりますが、そうなるとオネーギンがオデッサに訪れたのは1823年となるでしょう

 

 Arzamasの洪水の説を取るならば、原作第8章(第3幕第2場)が春だとすると、それは1823年でなければならないはずです。よって、オデッサに行った後は年を跨がずにペテルブルクに戻った、と考えるのが自然かと思います。

 

 

ナボコフの注釈

 他にも見てみましょう。ナボコフが指摘しているように、以下のような記述もあります。

Зевоту подавляя смехом:
Вот как убил он восемь лет,
Утратя жизни лучший цвет.

笑いで欠伸を噛み殺し、
こうして彼は8年を葬り去って、
人生の最良の時を失った。

(VI: IX: 12-4)

 素直に読むと、オネーギンが社交界に出たのは第4章から8年前なるはずです。では、時代考証の側面から社交界デビューとして適切な年齢を考えてみましょう。

 帝政ロシアの一般市民の成人年齢は21歳ですが、デビューはそれよりも前になることが多いと推測できます。また、社交シーズンは秋なので、この頃に合わせてくると想定できます。

 

2年か、4年か、6年か?

 しかし、この『オネーギンの旅』、2年間であった、4年間であった、6年間であった、という3派閥に分けられ、激論が交わされています。

上記で言うと、田辺佐保子氏や Wellesley College の見解は2年説を取っており、ロトマンは4年説を取っています。

オネーギンの旅』を読む限り、2年説というのは否定できそうな一方、それと同時に、ナボコフの注釈などを見ると、2年説も有力に思えます

又、映画版である『オネーギンの恋文』では6年説が採用されています。余談ですが、バレエ・クランコ版では10年であったとされており、本国の考察・時代考証班に指摘を受けています。

 それぞれ根拠となるものが非常に不明確です。その一方で、ということは即ち、どれも否定することが難しいです。

どのような根拠からその説を提唱しているのか、それぞれ伺いたいものです。

 

タチヤーナのモスクワ滞在

 さて、オネーギンの旅と時系列的に平行する第七章では、タチヤーナのモスクワへの旅と滞在が描かれるわけですが、そこにはこのような表記が存在します。

うんざりするようなこんな道を、一、二時間通ってから、箱橇はハリトーニエにほど近い横町の、とある屋敷の前に止まった。足かけ四年、肺を病んでいる年取った叔母さんの家へ、ようやく到着したのである。

                   (池田健太郎訳「オネーギン」) 

この文章は第七章「モスクワ」の第40スタンザにあります。

この書き口だと、タチヤーナが4年かけて叔母の家へ行った、という風に読めます。勿論、そんなに旅に時間が掛かるわけがりません。事実、その前には

彼女たちは丸七昼夜、旅を続けた。                              (〃)

とあります。但し、この「足かけ四年」の "起点" によっては、重要なヒントたり得るかもしれません。

又、「足かけ」なので、実際は違った年数かもしれません。ただ、第7章に "4年" という数字が出てくるのは非常に興味深く、年齢論争に用いることが出来る可能性を示唆しているのではないか、と感じています。

 

 

オネーギン年齢論争は野暮なのか?

 さて、根本に立ち戻りますが、この議題は意味が無い、と考える人もいることでしょう。

というのも、プーシキンは明らかにオネーギンのモデルに自身を置いており、ふたりの境界線は実に曖昧なものだからです。

 しかし、だからなんだというのでしょう? 『エヴゲーニー・オネーギン』が、物語として存在している以上、この問題に取り組むのは悪いことではないとおもいませんか。何故なら、ふたりは別の存在なのですから。

 

終わりに

 結論ですが、判然としません。が、色々な角度からこの問題を検討する中で、改めてプーシキンの情報のちりばめ方の巧妙さや、「エンサイクロペディア」と呼ばれる所以などを再確認させられました。

 

 通読お疲れ様でございました。

何か情報をお持ちだったり、「閃いた!」という方は、是非コメントなどで教えて下さい。

マニアックな記事にお付き合い頂きありがとうございました。

 

 それでは、オネーギン年齢論争に決着がつくことを願って。

 

参考文献 

 

Russian 251: Eugene Onegin Handout

The St. Petersburg Flood of 1824 | Environment & Society Portal