世界観警察

架空の世界を護るために

"考察"と"研究"の境界線とはなにか

 おはようございます。相も変わらず生活リズムが乱れまくりな茅野です。

夜の方が読書やオペラ鑑賞には適すのでしょうがないね。(正当化)

 

 さて、最近はレールモントフ現代の英雄」を読んで色々思うことがあって、調べたり頭捻ったり色々しておりました。

レールモントフは初見でしたが、自分の好みだなと思いました。

第1部は他人から見た主人公の姿を描き、第2部で主人公の日誌から心理を読み解くという形になっていて、その形態が素晴らしく巧妙。特に、一見しただけでは場所や日程などがぐちゃぐちゃになっているように見えるのが考察魂をくすぐらせます。

内容はなるほど、オネーギンやチャイルド・ハロルドに近しい部分があり、オマージュも散見されます。典型的余計者小説ですね。

「現代の英雄」というタイトルも秀逸で、そのタイトルに秘められた意味を知ると思わず感嘆の息が漏れます。ここ最近で一番よいタイトルだと思いました。

神保町にもなかったようなかなりのレア本ですが、胸を張ってオススメできますので、もし見掛けたら是非お手に取ってみて下さい。さいあくAmazon使って下さいw

 

 現代の英雄は古典文学ですから、専門に研究してらっしゃる学者さんも大勢います。

彼らは本職ですので、私のような趣味の底辺アマチュア考察勢と違って、学者として研究を行っています。私も数点研究論文を拝見して、納得と共に唸らざるを得ませんでした。

 そこで少し引っかかったのが、やっていることは我々とさほど変わらないのに、我々は一般的に考察勢と呼ばれるけれども、彼らが行うのは研究と呼ばれるということです。

 

 

考察とはなにか

物事を明らかにするためによく調べて考えること。   (広辞苑)

昨今の作品愛好家の中には、考察勢と呼ばれる者が存在します。私も所謂それでしょう。

 例えば、ゲーム作品であれば、検証して回ったり、前作のオマージュを探したり、関連作品を漁ったりして、論説を展開する一部ファンをこう呼ぶ傾向にあると思います。

 

 

研究とはなにか

よく調べ考えて真理をきわめること。   (広辞苑)

 

広辞苑によれば、上記のような意味があるのだといいます。

考察よりももっと深いニュアンスが強いでしょうか。

真理をきわめる。なるほど、学者が行うにぴったりなニュアンスととれます。

 

 

"考察"と"研究"の境界線とはなにか

 思うに、明確な区分はないと推測できます。

日本語は柔軟ですし、重複した意味を持つ言葉も沢山存在します。

考察、研究、勉強、分析、闡明、論考、学究、探究……

これらの言葉を明確に区分できるでしょうか?

 

 広辞苑で引いた厳密なる意味や、昨今の日本語話者の使い方からして、研究は考察と比べより深いものであり、学者などプロフェッショナルが行うものである、とするのがよいでしょうか。

 これはあながち間違いでもないと思うのですが、上記のように、日本語とは難しいもので、研究論文中でも"考察"という言葉は数多く見受けられます。

 

 或いは、考察がよく調べ考えることという、主観的な側面が強いのに対し、研究は真理を究めるというように、客観的な側面が強いことが挙げられるでしょうか。

考察では、自分の主張に沿い進めていくスタイルのものが多いですが、研究は情報を列挙し、整理するような場面も多いように思います。

 

 

我々考察勢が研究を名乗ることは許されるのか

 私は"考察"という言葉が放つ高尚さを未だに好きになれずにいるのですが、他の言葉を代用しようにも、厳密に区分するとするならば、考察が一番軽いレベルの言葉であることがわかってきます。

 

 日本語話者に限らず、普通に生活している時、特に言葉の意味を深く考えずに喋りますよね。

特に日本語は「元々の正しい意味よりも、皆が使っている意味が正しくなる」という特異な言語で、ここに日本人の国民性もよく現れているように思います。

sylphes.hatenablog.com

↑言語に関する記事

 

 故に、誤用とされてきたものがいつのまにやら本来の意味よりも大きい顔をしている、という事案はしょっちゅう起こっています。

その場合、どのような言葉を選択すればよいのか、公的な文章を書くときなんかは特に迷ってしまいますよね。

sylphes.hatenablog.com

↑"世界観"という言葉の誤用についての記事

 

 皆様は「考察」と「研究」というと、どのようなイメージがありますでしょうか。

正しい意味は前述の通りですが、皆様の思い浮かべた意味通りでしたでしょうか。

 正しい意味を再確認した今、我々アマチュア考察勢に、研究を名乗ることは許されるでしょうか。

 

 「考察」に対する最大の侮辱言葉は「妄想だ」と非難することだ、というのは考察勢の共通認識であるかと思います。

ただ非難したいだけの厄介なアンチはともかくとして、こう言われてしまうのは根拠の提示が不十分だからだ、というのは「"世界観警察"とはなにか」でも論じた内容です。

 これは妄想が悪いことだ、といいたいのではありません。

よく勘違いされることなのですが、考察に対する侮辱が妄想なのであり、妄想が卑下されるべき行為であるという意味ではないのです。

例えるならば、硬派ミステリーを書いたつもりが、「謎解き部分はクソだったけど恋愛描写はよかったね」といわれるようなイメージでしょうか。

そこじゃねえよ!くらいの気持ちなのです。

 

 他の人のことはわかりませんが、少なくとも私は、考察をするならその作品について極めたいと思っています。

無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」という有名なソクラテスの言葉がありますが、折角なら英知の領域まで行きたいものです。

専門の学者様にしか許されない文言であるというのなら仕方なしとして、どうでしょう、ここは大きく出てみては。

現代の英雄のような素晴らしい古典文学であれば、学者様も大勢いらっしゃることでしょう。

しかし、あなたの好きな作品はどうでしょうか? 例えばポップカルチャーの場合、いかんともしがたいのでは?

 ファンの一人一人に、研究の第一人者になれる資格があるはずです。

そもそも、アマチュアとプロでここまで大きい差があるのは日本くらいなのです。そう恐れることはないと思います。寧ろ、それで食べていかなくてはならぬプロよりも、我々の方が楽しく自由に時間を使ってやっている分、お得なのではないでしょうか?

 我々ファン一人一人が、自分の好きな作品の「研究」をしているんだと、胸を張ってよいのではないかと私は思います。

 

 

最後に

 ちくしょう!また深夜テンションでテキトーに書いてしまいました。カテゴリ:「実用」シリーズはいつもこうだ。この記事は私の人生そのものだ以下略。

 この記事を書いていて、「私も学者さんになりたいなぁ」なんて考えてしまいました。うーむ。"勉強"せねば。

結論として、私が言いたいのは、アマチュアだから、ポップカルチャーだから、と言い訳をしないで、もっと自分の主張に自信を持ってもよいのではないか、ということなのです。天狗になれということではなく。

あなたの"考察"が、いつか誰かの役に立つかもしれませんよ。

それでは、あなたの"研究"が発展せんことを。