おはようございます、勉学をサボることは学生の本分だと確信している茅野です。
一丁前に学生をやっているのでテスト期間なんですよね。もうそんなこと存じ上げなぬとまでに記事を書いておりますが! しかしながら今回はフランス語学科ゆえ許されると信じています。
さて、この間は新国立劇場でオペレッタ『こうもり』を観劇して参りました!
こうもり、楽しくって可愛くってもう最高ですよね!
生で観るのは初めてだったのですが、踊りださないように客席に縛り付けておいてくれ!という感じでした。ワインと恋の夜に酔う!
それでは早速書き連ねて参りましょう。
レビュー
始めに軽くレビューをします。
アデーレ役のジェニファー・オローリン氏とアルフレード役の村上公太氏がめちゃくちゃよかったです。
やっぱり『Mein Herr Marquis』がキマると全体的に締まりますよね。あまりにおかしな間違いで笑ってしまうわ!ということで、考察記事の宿命ではありますが、もし当記事に事実と異なる点があっても笑って許してくださいまし。
相変わらずフロッシュは至高ですね……。可愛かったです。日本語ネタが多くて終始ニヤけてました。焼酎~~。
燕尾服の男性舞踊(バレエ)ってなんであんなにかっこいいんですかね。『椿姫』とか『オネーギン』とか観たいですね……。
オルロフスキー公を考える
さて、本題です。今回の議題は「オルロフスキー公を考える」です。
オルロフスキー公といえば、このオペレッタ『こうもり』に出てくる大金持ちのロシア貴族様です。今回の公演ではステファニー・アタナソフ氏が演じておりました。私はこの前の『ばらの騎士』にもお邪魔していたので、謎の感動の再会でしたよ! 氏は、メゾソプラノとしては声が少々弱いかなぁと感じるのですが、宝塚か!?と思わんばかりのズボン役がハマりますね。新調したばかりの遠眼鏡で大抵追っかけています。オクタヴィアンもかっこよかった。
さてこのオルロフスキー公ですが、少々気になるところがありましたので調べてみることと致しました。 オルロフスキー公の設定をおさらいしましょう。
18歳の小柄なロシアの公爵で金を湯水のように使い、人を楽しませようという気概はあるが自分はあらゆる快楽に飽き退屈に苦しんでいる。
な、なんだこのテンプレロシア青年貴族は……!?
もう絵に描いたような19世紀前半のロシア貴族ですね。100点満点ですよ。
ロシアの詩聖プーシキンの韻文小説『エヴゲーニー・オネーギン』から始まる青年貴族を主人公とする通称「余計者小説」の主人公は皆こんな感じと言っても過言ではありません。
当方は19世紀前半の近代ロシア文学(所謂「ロシア詩黄金の時代」)が好きで、色々時代考証などに駆けずり回っている身なのですが、オルロフスキー公を見て抱いた疑問があります。
「オルロフスキー公はまさしくテンプレロシア貴族だが、『こうもり』の舞台であるウィーンにこの "テンプレート" のイメージはどこからもたらされたのか」、です。
今回は調べていて、完全に予想外の方向に話が進み、自分でもびっくりしています。この疑問を抱けたことに謎の感動を覚えています。
さて、では検証結果をご覧あれ!
『こうもり』作曲の経緯
オペレッタ「こうもり(Die Fledermaus)」は1874年4月5日アン・デア・ウィーン劇場(Theater an der Wien)にて初演が行われました。当時のウィーンは1873年大恐慌で、ウィーン証券取引所が崩壊した直後。荒んだ人々の心にこの喜劇が染みたのだと聞き及んでおります。
議題に沿うと、気になるところは原作。実はこの『こうもり』、製作の経緯が少々複雑です。
『こうもり』の原作は、フランスの作家:アンリ・メイヤック(Henri Meilhac)とルドヴィク・アレヴィ(Ludovic Halévy)のコンビによって書かれた『Le Réveillon』です。
『Le Réveillon』という題はフランス語なのですが、「クリスマス・イヴや大晦日のごちそう、夕食会」という意味です。
従って、数少ない日本語の記述では『夜食』で統一されているのですが、言葉のニュアンス的にちょっと弱いので、わたくしは「晩餐」という訳を推したいですね。
夜食ってちょっとごちそう感なくないですか? 個人的には深夜三時くらいに一人でこっそりおじや食べるみたいなイメージなんですが……。
というわけで、今後当記事では「Le Réveillon」は「晩餐」表記で統一します。
このアンリ・メイヤックとルドヴィク・アレヴィペアですが、当時のリブレット界では超ビッグな二人です。あのオペラ『カルメン』も彼らの手によるものなんですよ。(※原作はメリメ)。
この『晩餐』ですが、前述の通りフランス語なんですね。しかしオペレッタ『こうもり』はドイツ語。よってここにフランス語→ドイツ語の翻訳作業が生まれます。それを担当したのがリヒャルト・ジュネ(Richard Genée)です。
『晩餐』は、1872年9月10日パリ=ロワイヤル劇場で初演となった戯曲です。当時のパリではなかなか人気を評していたようです。これに目をつけたのがウィーンはカール劇場の監督フランツ・ヤウナー(Franz Jauner)。
すぐに劇場専属の台本書きカール・ハフナー(Karl Haffner)に翻訳を頼みます。しかしこの翻訳がひどいもので、すぐに上演されなくなってしまいます。
そんな中、著作権代理人のグスタフ・レビー(Gustav Lewy)はシュトラウス二世ならば傑作を作ってくれるかもしれない!と思いつきます。そこで翻訳の仕事を頼まれたのが前述のジュネなのです。
オペレッタ『こうもり』は、このジュネの台本を元に書かれ、歌詞も台詞もほぼ完璧にこのジュネのものの通りなのだとか。この戯曲が大変お気に召したシュトラウス二世は『こうもり』をたった6週間で書いてしまったと言われています。
『晩餐』
『晩餐』から『こうもり』への流れはご理解頂けたでしょうか。ともなると、気になってくるのがこの『晩餐』。『こうもり』と似た内容であることは予想できますが、どんな内容なのかと気になりますよね。
しかしながらこの戯曲、邦訳がないのは勿論、英訳すら存在しなかった! つまり現存しているのはフランス語版のみ。というわけでフランス語学科、頑張りました。
↑ 原作です。
↑ Wordで訳出!
フランス語からの翻訳を試みました。
簡潔に申し上げますが、内容はほぼほぼ同様のものでした。では、違いはなにか?
『晩餐』と『こうもり』で一番大きな違いは登場人物の名前にあります。折角なので羅列します。ややこしいですが、ついてきてください。
題:晩餐→こうもり
舞台:パンコルネ・デ・ブフ(フランス)→バート・イシュル(オーストリア)
ガイヤルダン(パンコルネ・デ・ブフの地主)→アイゼンシュタイン(裕福な銀行家)
ファニー(ガイヤルダンの妻)→ロザリンデ(アイゼンシュタインの妻)
ペルネ(ファニーの小間使い)→アデーレ(ロザリンデの小間使い)
トゥリヨン(刑務所長)→フランク(刑務所長)
デュパルケ(公証人)→ファルケ(公証人)
イェルモントフ公(ロシアの公爵)→オルロフスキー公(ロシアの公爵)
イヴァン(イェルモントフ公の従者)→イヴァン(オルロフスキー公の従者)
アルフレード(イェルモントフ公のオーケストラの指揮者)→アルフレード(オルロフスキー公の声楽教師)
ビダー(弁護士)→ブリント(弁護士)
レオポルド(牢番)→フロッシュ(牢番)
『晩餐』はフランスで書かれたフランスが舞台の戯曲というだけあって、フランス風の名前になっていますね。聞き慣れない名前はどう表記するか迷ったのですが、なるべく発音に近いようにしてみました。
さて、我らがオルロフスキー公はというと……、イェルm……こ、これは……!!?!
↑ 彼……では……??
誰? とお思いだと思いますので解説致します。
彼はミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ(Михаил Юрьевич Лермонтов)という帝政ロシアの詩人です。
ミハイル・レールモントフ
端的に申し上げまして、わたくしが最も愛している作家の一人です。昨年9月には聖地巡礼(自宅凸)も果たしております。他にも彼の在籍していた大学とか、よく行っていたという舞踏会のダンスホールとか、ゆかりの地を探索しまくり、オタクっぷりを遺憾なく発揮致しました。もし興味が御座いましたら記事に纏めていますのでこちらからどうぞ。
余談ですが、↑の画像は「ロシア建国一千年祭記念碑像」です。「ロシアで最も優れた文官16人」に選ばれているのです。強い。 このめちゃくちゃ気難しそうな表情とポージングが滅茶苦茶レールモントフっていう感じがして好きなんです(謎の告白)。ちなみに右隣は前述の詩聖プーシキン。
イェルモントフ公、フランス語表記ではこうです。Yermontoff。
レールモントフ、フランス語表記ではこうです。Lermontoff、或いはLermontov。
明らかにもじっています、本当にありがとうございました。一字しか変わらないし、発音してみてください。ほぼ一緒と言ってよいです。
「でもそれって、タナカさんとかタカハシさんみたいに、多い苗字だったんじゃないの?」とお思いのあなた。疑問は尤もです。
レールモントフという姓は、スコットランド系のラーモント(Lermont)からきています。意味は「帆船」で、命辛々ロシアに辿り着いたからなんだとか。
つまり元々ロシア語ですらないんですね。研究によって関連性は否定されていますが、スペイン貴族の姓レルマ(Lerma)にも近く、当時は関係性があると考えられていたということも一応挙げておきます。
親戚筋についても確認したところ、少なくとも帝政ロシアの革命主義者の一覧のなかに一人見つけましたが、名前の意味から考えても、少ない姓であることが伺えます。
又、時代ですが、前述の通り『晩餐』の初演は1872年。レールモントフは1814年生まれ1841年死没です。全く問題がありません。
従って、仮説としてレールモントフをもじっていると考えてよいという説を立てることは有意義であると考えます。
「じゃあそこまで主張するレールモントフって何者?」当然の疑問だと思います。
今一度オルロフスキー公の設定を思い出してみてください。
「18歳の小柄なロシアの公爵で金を湯水のように使い、人を楽しませようという気概はあるが自分はあらゆる快楽に飽き退屈に苦しんでいる」でしたね。
8割このままです。
年齢に関しては、彼は短命で26歳で逝去してしまったので、早熟という点では一致するでしょうか。(※ちなみに死因は決闘)。
体格ですが、比較的小柄だったようです。ちなみに『晩餐』では、ガイヤルダン(アイゼンシュタイン)が「ロシア人といえば大柄で太っている印象だったものですから」と発言します。1870年までのフランスでのロシア人のテンプレートイメージはこちらだったのでしょう。
家柄は、貴族ではあるものの公爵ではありません。古い良家です(特に母方のアルセーニェフ家)。
金遣いですが、波瀾万丈の人生すぎてなんとも言えないのですが、半自伝と言われている彼の著作『現代の英雄」』には「金で買える快楽には全て飽きた」とあります。
最後の一文ですが、訂正する箇所がありません。
つまり、レールモントフというのは、「テンプレートロシア青年貴族の祖の一人」とも言うべき存在なのです。
尤も、彼は才能溢るる非凡な人物でした。詩作は勿論のこと、軍人でもあった彼は乗馬や射撃、サーベルにも長け、多くの言語を自在に操り、ピアノ、ヴァイオリン、フルート、チェロを弾きこなし、恋の駆け引きにも長け、絵も画家としてやっていけるレベルです。何でも出来ます。超人です。
しかし、時代はニコライ一世の圧政下。反体制的なことをしようものなら即逮捕。事実、彼も初めて世に出した詩『詩人の死』がニコライ一世の逆鱗に触れ、流刑に処されています。
デカブリストの乱が失敗に終わり、1825年以降の帝政ロシアでは、青年貴族の間で「この圧政から逃れたい。改革のためならば命を賭す覚悟だが、命を賭したところで何も変えることなんかできないんだ」という絶望が渦巻いていました。
才能という才能が流刑、処刑されていきます。その才能を発揮する場が用意されていなかったのです。才能や資産はあるのに、鬱屈し、酒や賭けに溺れ、人生になんの価値も見いだせず絶望を抱えながら退屈に耐えている。これが当時のロシア青年貴族像でした。
それを自らが体現し、著作にもそれが濃厚に窺える人物。それがミハイル・レールモントフでした。
イェルモントフ公、もといオルロフスキー公というキャラクターは、レールモントフの名をもじることによって、当時の悲惨な運命を抱えたロシア貴族を "喜劇" で幸せにしたい、という思惑があったのかもしれません。
異説について
尚、『More Stories of Famous Opera』という書籍によると、イェルモントフ公のモデルとされている人物にポール・デミドフ公とナリイシキンという人物が挙げられています。
この二人は当時パリにいたロシア貴族だとされています。ポール・デミドフ公はパリでは著名な人物だったようで、馬鹿でかい酒宴を頻繁に開いていたそうですから、二幕自体のイメージは彼から来たのかもしれませんが、メイヤック、アレヴィとの直接的な関係はなかったようです。
逆に、ナリイシキンはかなり短気な人物だったようで、『晩餐』というよりジュネによって翻訳、改訂された「こうもり」で意識された人物である可能性が高いと考えられます。
又、西欧では、ロシアの姓に多い「~ov」と「~sky」が同列する「オルロフスキー」という姓には違和感を感じるらしく、わざと偽名を使っているという設定ではないのか、という説も昔は流行しました。
しかし、実際にこのような姓は実在することから、その説は薄いと考えられています。
とはいえ、当時西欧でそう思われていたのなら、ジュネも同じような勘違いをした可能性は大いにあります。
ともなると、「オルロフスキーは胡散臭い」というイメージは原作『晩餐』ではなくジュネの翻訳した『こうもり』から始まったことになります。『晩餐』でのイェルモントフ公は最上級の敬語を用いますから、わたしはジュネが翻訳する際にナリイシキンをイメージしたのではないか、と踏んでいます。
彼らにもこれらの根拠がありますが、どれも曖昧なものであると考えます。きちんと特定されていない以上、わたしからはレールモントフをベースに敷いた説も唱えてみたいと思う次第なのです。今まで誰も唱えたことのない説ですから。
『監獄』
さて、ロシア青年貴族のイメージの源流がレールモントフなのではないか、という自説をご理解して頂いたところで、話を『晩餐』に戻しましょう。
オペレッタ『こうもり』の原作である戯曲『晩餐』ですが、さらに『晩餐』にも原作があるのです!
それがロデリック・ベネディクス(Roderich Benedix)の『監獄(Das Gelangnis)』です。ストーリーとしては、第2幕のない『こうもり』だと考えて頂ければ問題ないと思います。
実は、『監獄』に関しての情報は全然出てこないのです。上記までの内容でリサーチ力についてはある程度信頼して頂けるものと信じていますが、わたくし自身も沢山調べましたし、ドイツ語に堪能な『こうもり』好きの方に尋ねたりもしたのですが、調べてもよくわからなかったとのことで、本当に幻の書となってしまっています。
ただ、二幕部がなく、要はパーティのシーンが無いようなので、イェルモントフ公=オルロフスキー公は出て来ないのではないかと推測することが出来ます。
そうなるとやはり『晩餐』が初出ということになります。
議題は「オルロフスキー公はまさしくテンプレロシア貴族だが、『こうもり』の舞台であるウィーンにこの "テンプレート" のイメージはどこからもたらされたのか」でしたね。
人物としては、レールモントフこそが源流であるのではないか、と先ほど論じました。ただ、『晩餐』の著者であるメイヤックとアレヴィは、どこから彼を知ったのでしょうか。
先に断っておきますと、これについて明確な答えを見つけることは出来ませんでした。
レールモントフの特に著名な作『現代の英雄』『悪魔』などは、フランスでの初版は1904年ですし、ロシア貴族はフランス語を話しますが、その逆はないからです。
但し、たとえば、1856年には隣国ドイツで『悪魔』が翻訳、出版されています。
1858年には、ロシアの女流作家エヴドキア・ロストプチナーがかの有名なアレクサンドル・デュマ(大デュマ)に祖国の詩人レールモントフを紹介する手紙を書いています。このように、フランスでも作家たちの間では話題になっていた可能性は多いにあります。
彼らがどこでレールモントフについて知ったのかを完全に特定することは叶いませんでしたが、知る機会は少なくはなかったのだろうと思います。
最後に
通読お疲れ様でございました。ついつい長くなってしまいましたね。
興味本位で適当に調べ始めたことが、まさかレールモントフに繋がるなんて思ってもみなかったので私としても熱が入ってしまいました。最初にこの事実に気がついたときは図書館で叫ばないようにするのに必死でしたよ、本当に。
最後に、当記事を書くに当たって参考にした書籍を紹介して終わろうと思います。
『Operetta: A Theatrical History』
英語で、めちゃくちゃ長いので途中何度も心が折れそうになりましたが、めちゃくちゃ参考になります。こうもりについては基本的にこの本から引いています。
『レールモントフ 彗星の軌跡』
レールモントフの伝記です。良書です。まさかこの記事でこの本を紹介することになろうとは本当に想定の範囲外です。前々から持っていて付箋べったべたです。これさえあれば猿でもレールモントフがわかる。
オペレッタ『こうもり』の背景理解促進に貢献出来ていれば幸いです!
それでは、あなたに素敵な恋とワインの夜のあらんことを!